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オルガンコラール史におけるバッハ-自由奔放な最終相続人

 オルガンコラールというジャンルにおいて、バッハはどのように位置付けられるのか。
 同一コラール旋律に対する複数人の作品の聞き比べを通じて明らかになるのは、このジャンルの「最終相続人」としてのバッハである。

1.オルガンコラール聞き比べ

 今回はお題(コラール)はこちら。

 マルティン・ルターが作詞したコラール《Komm, heiliger Geist, Herre Gott》(来たれ、精霊、主なる神よ)である。ルター本人が手がけたということもあって多くの音楽家がこのコラールのアレンジを試みた。
 今回は、バッハと、バッハの先輩二名および同僚一名の合計四名のアレンジ(パイプオルガン・アレンジすなわちオルガンコラール)を聞き比べていく。

2.ブクステフーデの場合

 まずは、北ドイツ代表のブクステフーデ(1637~1707)である。

 ブクステフーデは、それまでの北ドイツの巨匠たち(シャイデマンやヴェックマン等)の伝統のワザをすべて受け継いだ。
 コラール旋律はソプラノ声部に据えられ、伝統技法(装飾技術)がそこへ惜しげもなく投入される。華麗に装飾がほどこされたコラール旋律は実に見事で、輝くような装飾美をたたえている。

 そのほか、彼のアレンジの場合、冒頭部と終結部の上行音階が音楽の華やかさをより一層印象付ける。
 また全体としては、リズミカルで濃淡のはっきりとした、キレのある音楽である。

3.パッヘルベルの場合

 続いては、中部ドイツ代表のパッヘルベル(1653~1706)である。

 パッヘルベルといえば、カノンで有名なあのパッヘルベルが想起されるが、そのパッヘルベルで間違いない。
 彼は(基本的には)ドイツ・ルター派エリアの教会オルガニストとして音楽家人生を送り、最終的には地元ニュルンベルクのオルガニストとしてその生涯を終えることとなる。彼は決してカノンで一山当てた「一発屋」ではない。


 中部ドイツのパッヘルベルのアレンジは、北ドイツのブクステフーデとは方向性が全く異なる。
 コラール旋律(ソプラノ声部)にはあまり手を加えず、そのかわり、コラール旋律から得られた素材をもとに、ソプラノ声部以外の旋律を徹底的に対位法的に処理(重層化処理)しているのだ。
 輝かしい音色のソプラノ声部以外に耳を傾けてみると、そこには重層化された旋律の豊かな森が広がっている。

 また全体としては、穏やかでしっとりとした柔和な音楽であり、非常に落ち着いた印象を受ける。

4.バッハの場合(その1)

 さて、いよいよバッハ(1685~1750)の番である。

 中部ドイツ出身のバッハは、方向性の違う上記二人の大御所のワザを見事に発展的に融合した。
 コラール旋律から得られた素材をもとにソプラノ声部以外の旋律は徹底的かつ高度に対位法的に処理(重層化処理)しつつ、コラール旋律(ソプラノ声部)にはこれでもかというほどの華麗な装飾をほどこす。
 全体的にしっとりとして穏やかで落ち着いた音楽でありながらも、終結部で次々に現れる上行音型が音楽の華やかさを印象付ける。


 バッハは北ドイツのブクステフーデと中部ドイツのパッヘルベルのワザを、いずれも高度に発展的に承継し、そして見事に融合した。その融合の方法と独自のスタイルは他の追随を許さない。
 こうして彼はドイツ・ルター派のオルガンコラールというジャンルの最終相続人となった。(ちなみに彼の息子たちはこれを相続しなかった。伝統は放棄された。)


 しかし、一方で、こんな声も聞こえてきそうである。
 ・伝統技法をパッチワークしただけでしょ?
 ・正直、大したことないのでは?

 参考までに、最後にもう一人だけ紹介しよう。
 これは地元中部ドイツのパッヘルベルのワザを純粋に単純相続した場合に相当する。

5.ヨハン・ゴットフリート・ヴァルターの場合

 ヨハン・ゴットフリート・ヴァルター(1684~1748)は中部ドイツで活躍した教会オルガニストで、音楽家人生のほとんどをワイマールのオルガニストとして過ごした。

 ヴァルターのアレンジは、実に興味深い。
 バッハの作風とものすごく似ているのである。バッハの音楽や古楽を聞き込んでいる人にこの曲を聞かせて「作曲者は誰でしょう?」と質問すれば、おそらく、ほとんどのひとがこれを「バッハ」と答えるだろう。それほどまでに似ているのである。

 それもそのはず。
 生誕年と死没年が示すとおり、二人はほぼ同い年で、しかもほぼ同じ年数の人生を生きた。地元は同じ中部ドイツでいずれも親戚関係にあって家族ぐるみのお付き合い。
 二人とも青年時代はそれぞれ各地を巡ってオルガン武者修行
 就職先はもちろん教会で、主にオルガン奏者としてキャリアをスタート。また、その就職先も地元の中部ドイツを出ることはなかった。
だからバッハが転職でワイマールに引っ越したとき、二人は同僚になった。二人はどんな会話を交わしたのだろうか。あるいは、交わさなかったのだろうか。

 ヴァルターは地元の大御所であるパッヘルベルの後継者である。しかし、良くも悪くもその域を出るものではない。
 コラール旋律であるソプラノ声部以外の旋律は確かに、彼なりに対位法的に処理(重層化処理)されてはいるものの、それ以外にさしたる特徴はない。

6.バッハの場合(その2)

 バッハとヴァルターを聞き比べるだけでも、前者のスゴさは十分に伝わるだろう。
 バッハは先人たちの職人技を発展的に継承し、大御所たちの熟練のワザを見事に融合してみせた。その独自の道はまさに西洋音楽史に名を遺す卓越した音楽家のそれである。

 しかしてバッハはさらにその先を行く。
 伝統技法を十二分に受け継ぎながらも、彼の自由で豊かな発想はとどまるところを知らない。
 真骨頂は、本コラール旋律に基づく《ファンタジア》BWV 651である。

 申し訳程度にバス声部(ペダル音域)にコラール旋律が出てくるだけで、あとはとにかく自由奔放なバッハなのである。
 あふれ出るインスピレーション、ほとばしり出る情熱、抑えきれない音楽的衝動。


 音楽は、自由にする。
 伝統を意識し、しっかりとそれを引き継ぎながらも、バッハは常に革新主義者ないし前衛主義者であった。
 彼はどの勤務先でも雇用主から絶えず「もっと落ち着いた教会音楽を書け!」「教会に集まった会衆を戸惑わせるような音楽は書くな!」等といった注文を受けてばかりだった。それでもバッハはうまい具合に切り抜けながら、教会音楽家としてやりたいことをやっていった。

 オルガンコラールをはじめとするバッハの教会音楽は(生前から賛否両論あったとおり)彼の死後、急速に忘れ去られていく。
 後の人々の記憶に残っていったのは、むしろ「教育者としてのバッハ」であった。