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ブルックナー関連まとめ

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ブルックナーの交響曲聞き方ガイド(入門編)

 ブルックナーの交響曲は、クセが強い。  曲の長さ、音楽の展開方法、オーケストレーション、いずれもロマン派屈指のクセの強さである。  一方で、作曲者の生前から今日に至るまで、熱狂的な信奉者やマニアックな愛好家がいるのもまた事実。  彼らはただの変わり者なのだろうか。あるいは、ブルックナーの交響曲にはどんな秘密が隠されているのだろうか。  今回は、ギュンター・ヴァント指揮、ハンブルク北ドイツ放送交響楽団による往年の名演奏をめぐりながら、ブルックナーの交響曲の魅力に迫っていきた

ブルックナーの知られざる名曲三選-小品から見えてくるブルックナーの音楽像

 ブルックナーと言えば交響曲だが、魅力的な小品から彼の音楽の全体像を再構成することも可能である。  今回は三つの小さな名曲を通じて、ブルックナーの音楽作品全般に通ずる普遍的な特徴について見ていきたい。 1.リーベラ・メ Libera me [WAB22](1854年) 師である聖フローリアン修道院長の告別式のために書かれた作品である。  作曲当時、ブルックナーは三十歳。  どことなくモーツァルトのレクイエムの一節を思わせるような曲調であり、あるいはモーツァルトに少なからず影

なぜバッハとブルックナーは特別なのか-私のクラシック音楽遍歴

 聖地巡礼するほど好きな作曲家というのは、そうそういるものではない。ちなみに私にとってのそれは、バッハとブルックナーである。  バッハ(Johann Sebastian Bach, 1685-1750)は言わずと知れたドイツ東部で活躍したバロック時代の音楽家であり、ブルックナー(Joseph Anton Bruckner, 1824-1896)はウィーンで活躍した後期ロマン派時代の音楽家である。 1.音楽との出会いと別れ 今でこそガチガチのクラシック音楽ファン(それもドイツ

ブルックナーの交響曲ジャンルを超コンパクト概説

 通し番号がないものも含めて全11曲にも及ぶブルックナーの交響曲ジャンルの全体像をできるだけ簡潔に見ていきたい。  ポイントは「ウィーン移住」と「第一次改訂期」である。 1.交響曲全11曲の概要2.交響曲第2番ハ短調で独自様式を確立 1868年の秋、ブルックナーは故郷のリンツ地方から帝都ウィーンへ移り住む。  ウィーンは音楽の都。  自作発表のチャンスも多い。意気込んで取り組んだニ短調交響曲は、しかし最終的に日の目を見ることもなくボツ[無効]に。  それから丸二年が経過し

ブルックナーの交響曲聞き方ガイド(初級編)

 第4番《ロマンティック》や第7番の次に聞くべき交響曲はどれだろうか?  実は、それは第1番ではない。 1.ブルックナーの交響曲第1番はマニア向け 有名どころの第4番や第7番に慣れ親しんだからといって、第1番から順に聞いていくのはおススメしない。  第1番や第2番は、はっきり言って地味である。  交響曲ジャンルにおけるブルックナー独自様式の確立を歴史的に見ていくという点ではいずれも重要な作品(第二交響曲においてブルックナーは交響曲ジャンルにおける自己のスタイルを確立した)

ブルックナーの交響曲聞き方ガイド(中級編)

 ブルックナーの交響曲は、とてつもなく長い。  演奏会で聞くにせよ、録音で聞くにせよ、集中力を保ち続けるのは至難の業である。長大な交響曲を最初から最後まで聞き通すコツはないのだろうか?    ブルックナーの交響曲を一曲丸々聞き通すには、各楽章ごとに、曲の構成(つくり)を押さえた聞き方が必要になってくる。  逆に、曲の構成さえ理解すれば、ブルックナーの交響曲は非常に明晰で聞きやすい。    中級編の今回は、交響曲全般に共通する構成の特徴を概観した上で、《交響曲第8番》(1887

ブルックナーの交響曲は本当にアルプス的かという問いから見えてくるもの

 ブルックナーの交響曲が語られるとき、しばしば「アルプス」という固有名詞が持ち出されることがある。これは日本に限った話ではない。ヨーロッパにおいてもそのような認識が一部にはあるようだ。  しかし、これは本当なのだろうか。ブルックナーの交響曲はアルプス的だと言ってしまっていいのだろうか? 1.ブルックナーとアルプスが結びつけられるワケ前提となる地理的条件  ひとくちにヨーロッパと言っても、たとえば北大西洋や北海の沿岸国の人々(フランスやイギリス、オランダの人々、いわゆる西欧

ブルックナーの合唱曲の魅力-ブルックナーのAve Maria

 ブルックナーは、今でこそ交響曲作曲家として知られているが、生前は多かれ少なかれ「交響曲の制作に(大変失礼ながら無謀にも)挑戦するオルガニストないし教会音楽家」として認知されていたに過ぎない。  晩年に至ってようやく一部の交響曲作品が(友人や弟子たちの心尽くしの、あるいは行き過ぎた支援介入改ざんによって)聴衆に受け入れられていったが、ブルックナーの(オリジナルの)交響曲の全体像は、作曲者自身の死を迎えてなお依然として不明瞭なままであった。  本人の死から三十年ほど経過した1