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現地コーディネーター:第26話

 ドアをノックする音が段々大きくなる。無視しようと夢の世界に逃げ込んでいたものの、鳴り止まないノックにカズマはようやく目を開けた。針で刺すような頭痛と乾ききってヒリヒリする喉。脳は水分補給の必要を訴えているが、身体がなかなか動いてくれない。

 ふと思い出したようにベッドの隣を見る。リンはもういなかった。カズマは少しホッとし起き上がると、パンツ一枚でよろめきながらドアに向かった。

「グッド・モーニング!レッツ・ハブ・ブレックファスト!」

 ドアを開けるとエドウィンが初めて見る爽快な顔で立っていて、カズマはその素っ頓狂な声に思わず力無く笑った。エドウィンを部屋に招き入れてドア脇のオットーマンに座らせるとカズマは洗面台で勢いよく顔を洗い、水を手ですくってがぶ飲みした。そして黒ずんだTシャツと昨日と同じブルージーンズを素早く纏い、紐の緩んだマーチンのブーツに足を滑りこませた。

 二人でフレンチクオーターに出ると昨日までの喧噪は嘘のように閑散とし、路上を異臭で満たしていたゴミも一掃されている。これもアメリカのパワーなのかとエドウィンは妙に感心していた。年一番の稼ぎ時を狂乱と共に乗り越えたフレンチクオーターにやっと訪れた平和な一日。この祝日に営業している店は少ないようで、ようやく営業中の古いダイナーを一件だけ見つけると二人は迷わず足を踏み入れた。

 店内は割と混んでいて、カズマと同じように二日酔いで青白い顔をした連中がそこかしこにいる。カウンター越しにむき出しに見えるキッチンでは年配の黒人夫婦が二人掛かりで汗を流しながらベーコンエッグやらオムレツやらを忙しなく鉄板の上で作っている。

「フリアナみたいないい娘もアメリカにいるんだね」
 エドウィンはこめかみを親指で押しながら黙り込んだままのカズマにお構いなしに饒舌に話しかける。

「そうか、よかった。まあアメリカ人では無いけどな」
「うん。だからかな、向こうもそんなに英語が上手くなかったから色々話せたのかもしれない。酒の力もあると思うけど…なんか深いところまで理解し合えた気がするんだ」

 カズマは色々と突っこんでやりたくなるが、いい記憶が出来たのなら本望だ。余計な事は言うまいと熱いコーヒーを啜った。

「全部で三回もセックスした」
 カズマはコーヒーを思わず吹き出しそうになりながらカズマが答える。
「それはご立派。でもまあそれ以上の詳細はいいや。とにかくおめでとう」

 カズマは何だか複雑な気分だった。これで本当に良かったのだろうか?

「Here you go!(どうぞ!)」
 二人の目の前に大きな皿が二枚、乱暴に置かれた。カズマは野菜スープとフレンチトースト、エドウィンはミックスベリーのパンケーキだ。自分の顔より大きなパンケーキが三枚重ねになっているのを見るだけでカズマは吐きそうになる。

 エドウィンは携帯の地図を見ながらカズマとこれからの行き先を確認した。次の目的地グランドキャニオンまで二千キロ。気の遠くなる距離だ。最初から無計画だったとはいえ現実を突きつけられてカズマは愕然とした。この体調で長距離運転は大分辛い。せめてもう一泊―

「オレが運転するよ。それで行けるところまで行こう」
 エドウィンがカズマの心を読んだかのように提案した。カズマは耳を疑うようにエドウィンの顔を見る。

「お前国際免許証持ってんの?」
「ないけど、日本の免許証ならある」
「それで運転すんのって違法だけど」
「Who cares?(かまうもんか)」

 威風堂々としたエドウィンの態度にカズマは面食らい、また彼を男らしく急成長させたフリアナに嫉妬心さえ感じる。

「事故には気をつけるよ。東京でもたまに運転してたし、この国のだだっ広い一本道でできないわけがない。交通法規も何となくわかったし」

 カズマはあっさりと頷いた。自分が助手席に座っていれば大丈夫か。それ
にもう一泊滞在すると残りの日程が苦しくなるのは明らかだった。

「じゃあそうするか。右側通行なのだけは間違えないでな」
 エドウィンは笑いながら、任せてと言わんばかりにカズマの胸をドンと叩く。そうだ、こいつの血にはジェフのそれが流れている。こいつはアメリカ人なんだ、何でも思うがままにチャレンジすればいいのだ。カズマはエドウィンの凛々しくなった表情を、兄にでもなったような気分で見つめた。

         *

 広大なテキサスの州間高速道路に入るとエドウィンは不安を感じながらもギアを一つあげた。彼の前にはどこまでも限りなく続く直線の道と、その両脇には一面の荒野が広がっている。このボロ車の出せる限界速度で走ると自分の心が大きくなっていく気がした。東京の狭い道で細心の注意を要する運転とは違い、ここではただアクセルを踏み込むだけで事足りるのだ。

 カズマの運転中に暇つぶしで作っていた八十年代のノイズ音楽のプレイリストがエドウィンの運転の伴走をした。音の粒が高々とそびえ立つサボテンの群に溶け込んでいく。ここにフリアナがいれば全てが完璧だったのに―まだ自分の肌に彼女の体液と甘酸っぱい香りが残っているような気がした。

 カズマはエドウィンの要領の良い運転ぶりを一通り観察して安心し、助手席でうとうとした。しばらくは直線が続くだけなのだから心配する必要は無い。カズマはそう考え、ジャケットを脱いで掛け布団のように体に被せると座席に全身を傾けた。

 シャーロットには何度電話しても留守電のままだった。着信拒否されているのだろう。でも今の自分にはどうする事もできないし、この旅は終了させなければならないー後で何とかするさ、カズマはまたそう自分に言い聞かせたが、胸騒ぎは収まらなかった。

「エドウィン、お前は人を愛したことある?」
 唐突なカズマの質問にエドウィンは思わずブレーキを踏みかける。
「え?…恋愛的なことでですか?」
「当たり前じゃん」
「う~ん。正直なところ、どうなんだろう?あるとすれば…」

 エドウィンは高校の時に一目惚れしてずっと片思いした女子を思い出すが、言葉を交わしたことは無い。あれは愛とは呼べないだろう。

「やっぱないか」
 カズマがせっかちに結論づけるとエドウィンは顔を顰めた。
「ありますよ」
「まあいいや、聞く相手を間違えた」

 カズマはそう言うと腕を組み瞳を閉じた。エドウィンは呆れて首を大きく横に振ると、音楽のボリュームを上げた。フリアナは今何をしているのだろう。また前の仕事に戻ったのだろうか?膨れあがっていきそうな気持ちを誤魔化すべくエドウィンは曲を変えた。

第1話〜第25話👇

   


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