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可視化の奴隷


ゴルフってスコアが残るので、まあ見返すとメンタルやられる残酷なスポーツでもあり、逆に良スコアだと何回見返しても飽きないという数字の影響力たるや。アガったりサガッたり、我々のメンタリティは割と可視化されるものに影響されまくってるなと思う今日この頃。いかがお過ごしでしょうか。


ここ十数年で一気に加速したものといえばIT化であり、IT化ってつまるところ我々の生活レベルでどんな役に立ってるかって、通信によるコミュニケーションの双方向性とか規模感とかスピード感とか、色々あるけどワタクシ的には【可視化】ってものが身近になりすぎてるよな。って気もする。

例えば、預金の残高も家でスマホで見れちゃうし、お肌年齢とか将来設計とか子どもの塾の進捗状況とか家のソーラーパネルの発電効率とか彼氏の彼女の移動追跡とか、もう可視化の嵐である。

ただ、これは率直にプラスの可視化であって生活者目線での「便利」である。
が本質で言えば、可視化は「管理する人間」にとってこそ、一番の本領を発揮するものであり「都合の良い」もんである。

可視化は、管理「される側」からしたら、まあうっとおしいもんだ。
(うちの嫁がいつも預金残高を監視していることに苛立っている件など)


可視化する目的の大半は「無駄をなくす」とか「正しい方向へ向かうために」になっちゃうので
それはそれでアリなんだが、『可視化が目的」になるほどアホな話もない。

管理する側の「管理しちゃってるぞ感」のために、どれだけの無駄な報告やエネルギーが犠牲になってるかとか想像するに容易い。

それ以上に心配なのは、仕事などで無駄を無くすのは大いにありなのだが、割とクリエイションは無駄の中に眠っていることも多いし、結果よりもプロセスの中で生まれることも多い。

可視化がいきすぎると、そのへんのバッファもなくなるし、ファジーな中での柔軟な思考も削がれてしまう。
そしてメンタリティ的にもドライなものになってしまいがちだ。

暮らしの中で、必要なのは適度なウェットさであり「あそび」であり「たわみ」であり「ゆるみ」である。


そのへんの余裕があるとメンタル的にも良い循環が出来て、結果も良くなるのだと思うのです。


ごま吉


たしかな満足を(´ε` )