見出し画像

前例主義の騎士団

大雪で体が悲鳴をあげている。
何故かって、雪かきが延々と続くからだ。


溶けては、固まり、溶けては、固まり、雪は重量を増やしていく。
別に大丈夫だろうと高をくくっているのは危険だ。そのうちに屋根はきしみ、自重に耐えれなくなる。

一度、目に合うとうそっちに向かうのが人間。たちまちに、そっち側に意識が持っていかれる。

もう私の中で雪は危険なものとも認識されたので、純粋に美しいなぁと思えないかもしれない。

寒波が来たり、来なかったり、慌ただしい気候の中
いかがお過ごしでしょうか?



コロナ禍もそろそろ1年が近づこうとしている。
その間、大きな変化がいくつも生まれ、旧態然とした常識もいくつか消え去っていった。

新しいものが生まれるのはウェルカムだし、少し反発してしまうものもあるけど、それは自分の「老害要素」だと思うのでイノベーション優先で、まずは目と耳を傾けるようにしている。

広告業界界隈で言えば、やっぱりまだまだ旧態然とした文化にすがる意識も強いし、それをレガシィなどというカッコいい響きで済まそうとする偉い人たちもいる。レガシィという名の思考放棄はヤメてよと本当に思う。

まあそういう人たちはさておき、もっと危機意識を持たないとヤバいなと思うのは、「思考なき前例主義」に乗っかるマシーンマンたちだ。

例えばここ数年主流の「社会課題を解決するためのクリエイティブ」が乱発しているのも、気になる1つ。

無理やり社会課題に持っていってるパターンが多いこと、多いこと。

ちょっとしたことも、「ほんとにそれでいいの?」的な投げかけが多くて、これはもうテンプレ化っぽいし、いちいち考えさせるなよwめんどくせーわw と時に思ってしまう。

消費者も「社会課題を宣伝に利用してるだけだろ?」的なことは薄々感じているのだと思うし、そうなってしまっては、狙っていた答えにきっとならないし、誰もハッピーにはなれないだろう。

思うに、これだけ数値化されたセカイの中でギチギチに縛られまくっているのだから、クリエイティブのセカイくらいはもっと自由(もとい気楽)であってもいいように思う。

最近広告を見ると
「…いやいや、広告ってそんな大層なもんじゃないといけないのかな」
と思う。(テーマによってはそれは致し方ないけど)

いろんな認識が生まれ価値観も変わっている中で、意外と飢えていると感じるのは

「これ、キレイだね」

とか

「これ、美味しいね」

とか

「これ、楽しそうだね」

とか。


ポジティブでハッピーなエモ要素だ。

広告を見て考えてもらえるのは、とても素晴らしいことだし効果としても高いことだけど、もっと世の中で足りていない、欠けている要素を埋めるものとして機能してもいいんじゃないのかなと思う。


盲目になっているのは、
自分も同じかもしれない。

思考放棄した「前例主義の騎士団」には入りたくないので、ちゃんと肌感だけは大事にしたい。


ごま吉

たしかな満足を(´ε` )