所有する感覚とは少しサヨナラして、工夫する楽しさを暮らしの中で見つけていきたいものだ。
ゴルフをはじめた、次第に高い道具が欲しくなった。キャンプを始めたころ、高いギアが欲しくなった。釣りを初めて、高い竿やルアーが欲しくなった。
凄まじいかな、欲のエネルギー。
欲しい。と思った時、自分に人間臭さを感じる反面、おや?自分らしさが遠のいているのではと感じてしまう今日この頃。いかがお過ごしでしょうか?
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思えば、20代の頃はとにかく何もなかったから「欲しい」がすべてだったように思う。
食欲、睡眠欲、所有欲、独占欲、性欲、自己顕示欲、etc..。
今どうだろうか。
40歳過ぎて思うことは、「欲」が段々と薄れていっている感覚。
若い頃に比べれば経済的にも余裕ができて、やりたいこともいくつか叶っているからだろうと気にもとめなかったが、果たして本当にそれだけか?と最近思う。
そんな中で、まだまだ旺盛なのが「所有欲」だと思う。
所有することで満たされる欲なのだが、「これを使っているときの自分が好き」とカッコよくは言えず、おそらく私的には、ほぼほぼこれは「他者との比較」に過ぎなくて、趣味というジャンルで他人と比べた時に、他人よりも良い感じのアイテムを使っていて優越感を感じられてるかが大半なのだと思う。まあ多分そうだろう。
ゴルフは、友人がクラブを買えば、自分も良いクラブが欲しくなる。
キャンプ場では、自然を楽しむはずが他の家族のギアが気になってしょうがない。
釣りは、釣れないのを竿や仕掛けのせいにしてしまう。(新しい仕掛けが欲しい!)
客観的に見れば、なんとまあ、恥ずかしい話だ。
そして、この所有欲は割と際限がない。
ガチ勢と比較して、まだ足りない、まだ足りない。と思う感覚よ。
静まり給え。
ーー冷静になれば、趣味をガチる必要性は無いのだよ。
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最近思うのは、自分らしさは他人との比較ではないということ。
「らしさ」は格差と常に隣り合わせである。
「自分らしく生きる=他人と違う生き方」と解釈をしてしまうと、格差のスパイラルにハマりやすいし、そっち側に乗っかってしまっては、もはや「自分らしさ」も無いのかもしれない。
うちの御年92歳の義父は、完全に、他人との比較のない世界を生きている。
朝早く起きて新聞を読む、うさぎに餌をやる、朝食を食べる。晴れれば畑を耕し、夕食は必ず18時スタート。決まって1杯だけの晩酌を楽しむ。熱い風呂に入った後は、ひたすら読書をしながら眠りにつく。
なんというか、淀みがない。
仙人みたいな暮らしが理想とは言わないが、暮らしの中に必要以上に起伏が無いのはとても大事なことのような気はする。
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最近YouTubeで、DIYとか車の自作カスタムとか「つくる系」のものが面白いと感じるようになった。お金を余りかけないで「工夫」でどれだけ良いものに見せれるかチャレンジ的なものだ。手の届く距離の共感はこういうことなんだと勉強になる。
人生もなんでもだが、「工夫」したもん勝ちである。
年齢とともに減っていく欲を尻目に、他者との比較だけを自分のエネルギーにしてしまう生き方はやっぱり切ない気はする。所有する感覚とは少しサヨナラして、工夫する楽しさを暮らしの中で見つけていきたいものだ。
(ごま吉)
たしかな満足を(´ε` )