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AIがいる今の時代に、亡き人を見送るということ

人を死なせるというのは存外難しいことだと、この歳になると実感する。
法的な手続きはもちろん、思い出も、心の持ちようも、その先の生き方も。

実際のところ私は40半ばにして、20代の頃に亡くした母を、未だに死なせることができずにいる。

そのせいか、私の創作は自傷行為もしくは代償行為に近い。

私が仕事を離れて文章に纏わる創作をするとき、私は登場人物たちの死による愛別離苦を物語に多く織り込む。
母の死を未だ以て上手く受け止めきれていないため、この感情を消化するために、創作という拡張子の変更をし続けているのだろう。

解像度を変えるのではなく、下げるのでもなく、時には上げてしまうとしても、現実にある親族の死と、創作の中の死は別のものであり、つまり違う拡張子の画像のようなものなわけだ。

そのまま保存しておくには鮮やかすぎ、かといって時間が経てば色あせて朽ちるのもまた嫌で、違うものに置き換えてアクリル一枚の隔たりと共にそこに痛みを置いておこうとしているのに似ている。

そんなわけだから、20年以上経っても、私の身体と無意識は未だに、あの寒い夏の日を忘れられていないらしい。

飲み込むにせよ、噛み砕くにせよ、母の死に対してどちらも選ばなかった結果、今も夏が近付くにつれて微かな物音で目が覚める浅い眠りが続き、もう隣にいない母の息が止まっていないことを、息を潜めて確かめる。

夏の早い夜明けの、ほんの少しの静寂に耳を傾けて、いない人だと自分の記憶に確認する。

かれこれそんな夏が20回ほど。

母が逝ったとき、父は声も動画も残さない、写真だけにすると言った。
その意味が、当時の母の歳に近付くにつれてわかる気がする。
わかるのだが、今更過ぎて、私の夏の雨は、今もあがらない。

さて、私はもう40も半ば。

いずれそう遠からず齢80を超えた父もこの世を去るわけなのだが。
母の時と違って、幸いにしてなんと今の時代、AIがある。
ほんの少しの声と写真、動画があれば、故人のようななにかをそこに留めることができてしまう。

父の残した手記、写真、音声、動画、Facebookの投稿、彼のWebサイト、ブログ。
あらゆるものを入れ込んで彼の言葉を、声を、行動を擬似的にAIで再現したとして。

何度も亡くした面影をリアルになぞれてしまった場合、夏の夜明けに母の不在を悼んだ20年と同じことができるだろうか。

今から甚だ疑問である。

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