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作曲、編曲家、ギタリスト「馬場”BABI”一嘉」あらためてその音楽人生を語るno+e〜第3章「UB-TAPS脱退」

割引あり

第3章「UB-TAPS脱退」


こうやって思い出し始めるとどうにも語り尽くせない事ばかりで。
時系列も前後してしまってなかなか先に進めないですが、


どこだったか全く思い出せませんが、かなり初期です。



もう1人、UB-TAPSの歴史を語る上ではどうしても欠かせない人物がいる。


原宿ホコ天の時代から、四谷フォーバレーを拠点としてライブを演り始め、そしてキティレコードと契約してメジャーとして活動し始めた時代。

この時代、まさに自分の青春を投げ打ってUB-TAPSに時間と労力を費やしてくれた、いわゆるマネージャーの仕事を引き受けてくれていた人。

僕の古い同級生であり、彼女は学生時代から運動部のマネージャーのようなことをいろんなところで一手に引き受けていた。その前後も、ずいぶん後に至るまで、いろんな友人知人らの就職の世話のようなことやいろんな事をしていたことを考えると。
根っからの応援体質、の人だったのではないだろうか。

どういう経緯でバンドのマネージャーになったかの記憶は定かではない。
たぶん、同級生が何か演ってる、ということでたまたま観に来てそういう流れになったのだろう。「マネージャーやるよ?」もしくは「やってくれない?」みたいな話があったのかどうかは記憶には無い。

とにもかくにも彼女はまず、僕らをライブハウスに出演させるためにライブハウス業界に出入りし始めた。
名門大学を出て真っ当な道もあったに違いない彼女だったが、一般的にはまともとは言いづらい(すいませんw)ろくに知りもしない世界に文字通り飛び込んで来た。

これが彼女の凄いところなのだが、僕らには何の相談どころか恩を着せるような前振りも素振りも一切無く、全てを自分で決めていった。僕らは後になって何も知らないまま状況が少しづつ変わっていくような感じだった。

まずは先述の四谷フォーバレーでアルバイトを始めた。
内部に入ってしまえば例えば動員のあるバンドと対バンを組ませたりイベントに出演させたり、ということがだんだん出来るようになってくる。

彼女は積極的に四谷フォーバレー内でのいろんな仕事に携わり、あっという間に一目置かれるスタッフになっていった。

バンドがメジャーレーベルとの契約を実現し始めた頃だっただろうか、今度はそのキティレコードに最終的に就職を決めることになる(本契約だったかどうか、と言ったことは僕は知らない)。
ただ、基本的にUB-TAPSの事だけをやっていたようなのでおそらくそういうショット契約のようなものだったのかも知れない。
(加筆:ご本人から、当時ちゃんと入社試験を受けての正社員でした、と言うお話を伺いました。)


全くの素人でゼロから始めた彼女は、四谷フォーバレー〜キティレコード、という流れの中で驚くべき行動力でバンドを成功に導こうとしていた。


こういった流れと同時に、第2章で語ったバンドの方向性の変化が起こっていた。売れる、成功すべきルートが彼女の努力もあって少しづつ敷かれていく中で、バンドの音楽は変化を求めていた。

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