見出し画像

kid A

悲しみ。悲しみを生み出すものは何だ。裏切りか。果たせぬ想いか。消えゆく儚さか。足りなかった距離か。手に出来なかった称号か。想像とは違った反応か。止まってしまった鼓動か。無情に抗えぬ運命か。届かぬ無力さか。心苦しいほどの優しさか。飲み込まれた感情か。飲み込まれた感情は何処へ行く。飲み込まれた感情は、少年の喉を通って、食道を通って、胃を通って、十二指腸を通って、小腸を通って、盲腸を通って、大腸を通って、直腸を通って、肛門を通って出て行ったのか。肛門を通って出て行った感情は何処へ行った。それは、空気に溶けて、水に溶けて、空に、海に、陸に、あの山を駆け巡る狐に、白金の広大な家の庭で走り回る犬に、太陽の日差しを直に浴びながら必死に食料を運び続ける蟻に、花の間を移ろう蝶に、不揃いの人参に、公園で寝そべるカップルの下に青々と茂る芝に、承認欲を満たすために作られたスイーツに、車輪が転がるアスファルトに、雨上がりの虹に、終電間近のホームで涙を流すあの子に、時の間に、戻れぬ懐かしきあの日々に、まだ見ぬ希望溢れる明日に変わったのか。そして、一部体内に吸収された少年の感情は、少年の血となり骨となり、体内を巡っているのか。その感情は、少年を形作っているのか。もし、飲み込まれた感情が、何処かに消えゆくとするならば、それは、少年の感情はなかったことになるのか。この宇宙に少年の、あの感情は、存在しなかったことになるのか。

少年は、今日も、耐えている。迫り来る惨憺たる夜に、耳を塞いでいる。人は言う。好きなことを言う。無責任なことを言う。責任なんて負えたものか。不確かな世界。わかってる。そもそも責任ほど不明瞭なものはない。それでも人は責任を負い、負わせる。約束をしようとする。誰かの言葉がそこにある。誰かが置いていった言葉がそこにある。少年は受け取る。受け取ってしまうんだ。それは意思ではない。何かがそうさせている。だから、今日も少年は耳を塞ぐ。塞いだ耳と手の間から、今日も、言葉が流入してくる。それは、言葉か。言葉に乗った誰かの叫びか。笑い声か。歌声か。怒鳴り声か。単なる音の組み合わせか。ノイズか。匂いか。味か。色か。温度か。感触か。少年は唸った。唸りが振動を生んだ。その振動が耳に伝わった。耳に押し当てる手に伝わった。その手は空気を揺らした。揺れた空気は、歌になった。少年は耳から手を離した。それは意思ではない。離された。歌は離された少年の手を取った。歌は少年を導く。少年は歌に導かれる。行く先は何処か。少年の胸に生じた何か。何かは何か。少年は身が溶けて行くのを感じた。

虚空な夜を超えて、少年はそこに居た。朝だった。太陽がカーテンの隙間から差し込んでいる。それは、朝だと言われるものだと思った。布団の中に横になっていた。布団の中の温もりを感じた。少年と布団が生み出した温もりだった。記憶があった。昨日の記憶があった。恐らく昨日の夜、いつからか眠りにつき、その延長線で、そこに居た。それを証明できるものは、少年だけだった。少年の記憶だけだった。歌がどこかへ連れて行ってくれたのは、夢だったのか。どこへ連れて行ってくれたのだろう。あれは歌だったのか。あの鼓動は歌だったのか。今日も、また、一つ感情を飲み込んだ。飲み込んだ感情は少年の喉を通って、食道を通って、胃を通って、十二指腸を通って、小腸を通って、盲腸を通って、大腸を通って、直腸を通って、肛門を通って出て行くのだろうか。塞いだ耳のその隙間から流入する言葉のごとく、締め切ったはずのカーテンの隙間から差し込む陽を、抵抗する術もなく眺めていた。

あれは暑い夏の日だった。少年は言葉を失おうとした。自ら言葉を手放そうとした。言葉が少年だったとするなら、少年は少年であることをやめようとした。少年の意思は、何処にある。少年は、何処にいる。少年は自分の体から発せられる言葉が嫌になった。その音の連なりが嫌になった。言葉を通じて生じる、この体の振動が嫌になった。言葉という概念が嫌になった。言葉で何かが動くという事象が嫌になった。そのフォルムが嫌になった。言葉と感情の乖離が嫌になった。言葉には限界がある。少年はそう思った。そう思ったのは言葉によるものなのか。言葉とその先の境界線は何処にあるのか。言葉のその先に世界はあるのか。曖昧な言葉があるのか、もしくは言葉が曖昧なのか。言葉に賞味期限はあるのか。あるのなら早く消費しなければならない。 いや、ただただ眺めていればいいのか。言葉は腐るのか。無機質な何かなのか。保存は効くのか。効かないのなら、保存方法を教えてほしい。そう願った時もあった。でも、思った。そこまでして残すべきものなのか。言葉は優遇され過ぎている。否、それは思い込みなのだろうか。目に見える世界だけが世界なら、うんざりするほど言葉が溢れている。消化されない言葉達が、ビル群を、丘の上から見える家々を、駅を、スーパーを、集う居間を、水筒の中を、除菌シートの上を、道路の標識を、テレビの中を、音楽の中を、時計の針を、コートを、光る自動販売機を、窓越しの風景を映す網膜を、新しく買った冷蔵庫を、使いかけの小麦粉の袋の中を、底の減った靴を、宛先の無い届け物を、誰の想いが作らせたあの手作りのポーチを、ゆくあてもなく漂う。もし、世界が閉じているのなら、この言葉達は消化されずにどこかにあるのか。それは焼却炉に入れて燃やしてしまえば、綺麗さっぱり無くなるのか。空気中に出たそれは何なのか。その残滓は何処かの土に埋められるのだろうか。その土の中で花や虫は育つのだろうか。その土は暖かいのだろうか、冷たいのだろうか。栄養はあるのだろうか。その言葉が生み出した生き物を食べているのか。言葉を食べているのだろうか。言葉に生かされているのだろうか。言葉は少年にしつこく纏わりつく。もう、十分すぎるほどにお腹がいっぱいなのだ。添加物が沢山入ったインスタントな言葉はもう食べたくない。その言葉達は、口から、鼻から、目から、 耳から、皮膚から、少年の穴という穴から、中に入ってくる。耳を塞ぐ少年の手からもじわじわと入ってくる。そして、少年は気づいている。自らもまた言葉を生み出していることを。少年は、わかっている。逃れられない言葉の世界で生きていかなくてはならないことを。今日もまた、あの空が、色が、温度が、湿度が、少年の元にやってくる。

少年は、虫の声を聴いた。少年は、部屋を見回す。虫は見えない。でも、確かに聞いた。それは、色だった。 恐らくそれを人は共感覚と呼ぶ。そんなことは少年にとってはどうでもいいことだった。パレットに広がる、 色とりどりの絵の具だった。少年は筆を執った。その色で絵を描こうと思った。少年は部屋の壁の前に立った。白い壁の前に立った。一心不乱に色を付けた。何を描いているのか少年はわからなかった。描いているのかどうかもわからなかったし、もしかしたらわかる必要もなかった。意味なんてない。何故、みんな意味を求めるのだろう。何故、みんな価値を求めるのだろう。誰かに説明する必要があるから。誰かに認められる必要があるから。価値のないものは不要だから。そういう世界だから。という思い込みであることをわかっていても、雑多な日常が視界を悪くするんだ。ノイズを生むんだ。異臭を放つんだ。少年のその手にある筆が、白い壁に色を付けていく。何色かだって?そんな取るに足りない質問は、少年の耳には届かないだろう。次第に、少年の指が筆になっていく。少年は自らの体で書いている。それは少年の命か。命で描いているのか。命で描くべき作品は何だ。これを問うことも野暮なことか。少年の一部が壁と一体化している。その壁は少年か。少年は壁か。色か。少年はどんどん手になっていく。少年の腕が筆になった。ますます大胆に壁に色を塗っていく。どんどん筆になる。しまいには、全て筆になった。それは筆か、少年か、それともその両方か。少年を少年たらしめるものは何か。その目か。鼻か。口か。眉毛か。耳か。髪か。頭か。身長か。体重か。手か。足か。お腹か。背中か。皮膚か。声か。脳か。大腸か。息か。血か。心臓か。臭いか。温度か。質感か。思考か、そのバランスか。脳を入れ替えたら、それは少年ではないのか。見た目には少年のまま。脳以外をとりかえたら、それは少年ではないのか。思考は少年のまま。部屋には白い壁と筆があった。

少年は目を覚ました。布団の中で目を覚ました。そこには天井あって、天井が見えた。それが天井であることがわかった。昨日の続きが始まった。少年は体を起こした。カーテンの隙間から朝日が差し込んでいた。あんなに昨晩しっかり閉めたはずなのに、隙間は生まれた。カーテンとカーテンに生じた間を隙間と呼ぶなら、この世界は隙間なのか。閉じられた世界で、何処かに端があるなら、この世界は隙間なのか。その外の世界はどうなっているんだろうか。少年は端を探しに、外へ飛び出した。走った。少年が走る勢いで、道端に生えている草が揺れた。少年は河川敷を走った。ジョギングをしている男の人がいた。ウォーキングをしている女の人がいた。犬の散歩をしているおじいちゃんがいた。サッカーをしている男の子がいた。一輪車に乗る女の子がいた。シートを敷いてお弁当を食べている家族がいた。ただしゃべっている制服を着た高校生がいた。何かの隙間で思い思いに過ごす人々がそこにいた。少年もまた、その隙間を走った。端はどこだ。この川の向こう側か。線路を超えたその先か。前に見えるあの山の向こうか。遙か向こうにある海の中か。この上の空か。雲の向こうか。太陽の裏側か。それとも、今、ここか。もしくはもう通り過ぎてしまったのか。少年は走った。ただ只管に走り続けた。

言葉を無くしたいと願う少年に、伝えたい想いはあるのか。伝えたい想いとは何なのか。想いとは何なのか。想いの成分は何なのか。この想いは少年から生まれたのか。何かが少年にもたらされたのか。だとしたら、少年は媒介者に過ぎないのか。何のために媒介者がいるのか。それは神の仕業なのか。神はいるのか。神は何故、この世界を作ったのか。神は何故、複雑な現象を創造したのか。何故、この感情を生み出したのか。言葉を生み出したのか。この肉体を生み出したのか。そこに意味を見出すことは、神への反逆なのか。生きるとは何なのか。死ぬとは何なのか。それを弁証法的に超越した先にはどんな世界があるのか。それは世界なのか。それは神なのか。正しさのない世界に於いて、何かを伝えたいということは、それは欲なのか。全ては自己満に過ぎないのか。正しさのない世界なんて、それすらも正しいのだろうか。ただ在るとはどういうことなのか。息をするだけで、何かに影響を与えてしまうのだとしたら、この世は一つと言えるのだろうか。一つであるなら、何故、こんなにわかりづらいのか。愛を知るためか。神を知るためか。自らを知るためか。何のために知るのか。理由や価値を考えることは滑稽なのか。滑稽という概念もまた、関係性において生じたものなのか。関係性とは何か。本物とは何か。本当とは何か。事実とは何か。その目に映った事象は確かか。それを証明する術は持っているか。何のために証明するのか。相対するものが存在していることを前提にしているのか。全ては少年の頭の中の世界の話なら、この世界には少年の他に何があるのか。誰かが投げかける言葉もまた少年が作ったのか。少年の意思は何処にあるのか。何処とは何か。少年に自由はあるのか。自由とは何なのか。こうして問うこともまた無機質な何かなのか。問うことは意味を包括してしまうのだろうか。少年は、何故、そこにあったのか。

どうでもいいことばかりが、少年の前を通る。芸能人のゴシップ。政治家の汚職。日経平均株価。ありふれたラブソング。炎上するSNS。セレブの日常。食道を通った後の食材の味。パラレルワールド。善か悪か。上か下か。優か劣か。右か左か。前か後ろか。白か黒か。縦か横か。固形か液体化。表か裏か。泣くか笑うか。 勝ちか負けか。ありがとうかごめんなさいか。何を選んだとしても、正しくもあり、間違いでもある。そもそも正誤という物差しで測ろうとしていることが誤りなのか。それは誤りなのか。だとすれば絶対的に正しいものは存在し得るのか。正しさを求めようとするのが、一人一人の正義を貫こうとすることが、人間の性であるなら、それは何故なのか。何故、意味を求めるのか。何故、意味がないことを忌み嫌うのか。何故、ただ在ることが出来ないのだろうか。空疎な心を抱えた少年は、踊る。そこに意味など、価値などない。踊ることが意味になる。そんなつまらない話ではない。少年は踊る。ただそれだけのことだ。それを笑う人がいるだけのことだ。一緒に踊る人がいるだけのことだ。優しい眼差しで見つめている人がいるだけのことだ。踊るという行為を初めて見た人がいるだけのことだ。踊りの概念がないものにとってはただ口をぽかんと開けて、ただ受動的に目に映る画を感じているだけのことだ。ただそれだけのことだ。踊るのはなぜか。少年は踊っている。多くの人がそう言っている。そういう共通認識のもとで、これを踊ると呼んでいる。でも、少年が踊っているかどうかは、少年には関係のないことだ。少年は少年であろうとしている。その意思もなくあろうとしているだけのことだ。言葉を手放した少年は、意味も価値も超越した世界を堪能しているだけだ。それを堪能と呼んでいるのも、また、少年には関係のないことだ。

少年は、また、目を覚ました。続きだと思った。自分の記憶だけを理由に、これは続きだと思った。記憶とは何なのだろう。昨日の自分と今日の自分は同じなのか。そもそも昨日だと思っている昨日は昨日なのか。明日は来ると思っているが、その明日はどこにあるのか。過去はあるのか。未来はあるのか。今だけあるのか。今はあるのか。今とは何か。この瞬間とは何か。瞬間の中の瞬間は今か。瞬間の中の瞬間の中の瞬間の中の瞬間の中に瞬間はあるのか。その先には何があるのか。もしそれが永遠だなんて言うのなら、きっと少年は興ざめするだろう。少年は時間の中に生きている。それは時の間。時の始まりはいつで、終わりはいつなのか。それは、つまりは生死なのか。もし生も死もないのだとしたら、それは時の間ではないということなのか。この世界の始まりは何処で終わりは何処なのだろう。少年は隙間を生きているのか。少年は時計を見た。8時半を少し回ったところだった。短い針は8と9の間に、長い針は6と7の間にある。この動いた針の距離が時間なのか。時計を巻き戻せば時間は戻るのか。そんなことはない。そんなことはないのか。時を計ることなんて可能なのか。みんな時が何かを知っているか。何故、時計はあるのか。何故、時計は生まれたのか。誰と誰かが合う約束をしたからか。規則性を求めた結果か。少年は、時計から電池を外し、その時計をゴミ箱に捨てた。時に支配されたくなかったのではない。その肌で、その目で、その耳で、その鼻で、時を知りたいと思ったの だ。少年は、言葉を介さずに直に事象に触れたかったのだ。それはまるで、虫の声に導かれるままに絵の具の筆になったあの日のように。

少年の母は、全てを少年に与える。そこに言葉ない。何も言わない。母はただ愛を持って少年を見つめる。少年の求めるものは全て用意した。ただ、それを見つけるのは少年だ。母は何も言わない。母はいつでも少年のすぐそばにいる。少年が望む時はすぐそばにいる。望まなくとも、母は少年を見つめる。少年は母が大好きだった。母の温もりを愛した。母とのコミュニケーションにおいて言葉はいらなかった。母はすぐそばにいた。 毎日訪れるあの悍ましい夜を超えられるのは、そこに母がいるから。耳を塞いだとて、この身に入ってくる言葉達を、あの音の連なりを、意味を持ちたがる記号を、体の中から言葉を生み出そうとしてくる意図せぬ衝動を耐えられるのは、そこに母がいるから。少年は母から生まれた。その手にしたりんごも、近所の川を流れる魚も、花に群がる蜂も、身に纏うそのTシャツも、目に見えぬ細菌も、抑えきれぬ好奇心を満たすその本も、何かに向かい歩き出すその足を覆う靴も、旅立ちの時に渡したあの手紙も、助けを求める誰かの声も、噛み締めたその悔しさも、冒涜とも呼べるその罵倒も、逆る誰かへの恋も、もう一度だけ会いたいと願う無茶な夢も、見つけられずに部屋の隅でたたずむペンのキャップも、こうして繰り返す問いも、全ては母から生まれた。母は、憎しみも、僻みも、嫉妬も、執着も、嫌悪も、焦燥感も、苛立ちも、悲しみも、寂しさも、苦痛も持たない。母はただそこにあり、それはただ、愛であった。

「言葉は要らない。言葉は副次的なものだ」
少年は言った。否、少年は言ってない。少年がそう言っているように見えた。少年の言葉に出来ぬ想いは、言葉にしない想いは、確かにそこにある。確かにある。そう見える。少年はただ宙を舞う空気になりたかった。小さな川を流れる水になりたかった。小鳥たちが歌う音になりたかった。山の景色を彩る色になりたかった。虫の集う花の匂いになりたかった。冬眠を助ける土の温度になりたかった。少年は、形あることが嫌になった。ただ流れるままに、流動的に、無意識の中に溶けてしまいたかった。少年の意思をなくしてしまいたかった。少年は少年を超えた、この国を超えた、この世界を超えた、この宇宙を超えた、この物理空間を超えた、その何かに想いを寄せた。それに包まれたかった。少年は気がついた。
「母だ」
母はいつでも少年のそばにいた。少年を見つめている。少年の中にいる。少年の一部である。少年は母である。そして、母は少年なのだ。一つになりたいと願うのは、元々が一つだったから?いや、今もこうして一つなのかもしれない。じゃあなんでこんなに一つじゃないように見えるの?それは、一つであるということを教えたいから?強くあるためには色んな形であった方がいいから?問いには何の意味もない。自己満足。僕らの全ては、不快を取り除く行為か、若しくは快を求める行為だ。自己満足。自己満足という概念に何か嫌悪感を抱いたとしても、それにも何の意味もない。ただ、導かれるままに、徒然なるままに、少年は自らをも融解していった。 目の前の景色が静かに溶けていく。各々の輪郭が、真夏のチョコレートのように、静かに溶けていく。溶けたチョコレートは机に広がる。広がったチョコレートに何の抵抗をすることなく、机はそこにある。少年もそれになりたいと思った。溶けてしまいたいと思った。それは消えてなくなりたいのとは違う。ただ、無常の世界で、光とともにありたいと思った。少年は物理的個体でいることが嫌になった。全てと繋がりたいと思った。君が僕で、僕が君でありたいと思った。その境界線は曖昧であってほしいと思った。少年は、静かに全てが混ざり合い、流動的に変化していく世界を想った。自らの意思では到底抗えぬ、何か、規則的なのか、不規則的なのか、それすらもわからないルールの中で、母の腕の中で、在りたいと思った。こんなに溶けることへの憧れを抱いたのはいつからだろう。 ある日、突然、輪郭が怖くなった。固定されることが怖くなった。その決められた枠に収まろうとすること、収まらなくてはならないという強迫観念を覚えた。言葉もその一つなのかもしれない。全ては変化していくはずなのに、エントロピーの法則に従って混沌としていくはずなのに、どこか固定されている感覚が、不自然だと思った。不自然なことは、どこかに歪を生むことは、君の顔を見ればわかった。少年は、結露が滴る窓ガラスと自分の間に何の違いがあるのかわからなくなった。机に置かれた名もなき木彫りの彫刻と自分の間に何の違いがあるのかわからなくなった。木々を揺らす風と自分の間に何の違いがあるのかわからなくなった。白く、白く塗られたあの壁と自分の間に何の違いがあるのかわからなくなった。少年は、ふっと息を吐く。その息は宙を舞った。宙を舞った息は、何か粉のように見えた。その粉は黄色だった。もう一度息を吐いた。次は緑だった。もう一度。碧。もう一度。ピンク。少年の吐く息は、砂となり、浮遊している。それぞれが意思を持っているようにも見えるし、ただ流されているようにも見える。ただ、それを見て、少年は美しいと思った。まるで、何かの図鑑で見た珊瑚礁のようだった。その砂は自分かどうかなんて、どうでもよかった。ただ、その宙に舞う砂を見ていた。

強くありたい。誰かがそう言ってた。強く?話を聞けば聞くほど、少年は、何か違和感を覚えた。その強さは強さなのだろうか。むしろ、どこか脆さすらも感じてしまうのは何故なのだろうか。何故、強くあろうとしているのか。強さとは何なのだろうか。何かに勝つことなのだろうか。打ち負かすことなのだろうか。承認欲を満たすことなのだろうか。自己肯定感を高めることなのだろうか。変わらないことなのだろうか。耐え抜くことなのだろうか。大きな声を出すことなのだろうか。声高々に主張を繰り返すことなのだろうか。その強さは弱さである可能性はないだろうか。その強さによって守るはずが破壊を齎していることはないだろうか。強さとはどういうことなのだろうか。もし、強くあることが永遠を意味するのなら、必要なことは何だろうか。道で涙を流すあの子にハンカチを渡すことだろうか。抵抗できぬまま暴力を振るわれるあの子をかばうことだろうか。ゴミの境界線をずらすことだろうか。不自然なことを不自然と感じる心を養う事だろうか。目の前にある世界がどうやって出来ているのかブラックボックスを覗いてみることだろうか。二項関係をアウフヘーベンすることだろうか。白と黒に優劣を付けない事だろうか。向こう側がこっち側かなんて、空にとってはどうでもいいことを知ることだろうか。ナラティブを体感することだろうか。利己的な遺伝子と対話をすることだろうか。自分なんてものは実にどうでもよく、自分なんてものは存在しえないことを知ることだろうか。世の中に溢れる歌の中から心躍る歌を選ぶことだろうか。過度に欲を生み出すシステムに、物を申すことだろうか。君と君と君と君と君を君を受容することだろうか。ありがとうとごめんなさいを繰り返すことだろうか。少年は、空から降ってきた雨に濡れた。水に溶けていくのを感じた。少年は、強くありたかった。少年は、しなやかでありたかった。少年は可変的でありたかった。少年は雨に歌った。

今日も、少年は、耳を塞ぐ。一体、毎晩毎晩何の用なのだ。ただ、少年は最近変化があることに気がついた。その体に染み入る言葉達もまた、よく見たら砂のような形をしていたのだ。あれ?僕なのか。少年は息を吐く。すると、少年の吐いた息と、言葉が、静かに、ゆっくりと混ざり始めた。それは、初めて会ったとは思えないほど、お互いを尊重しあいながら、溶けていった。そのノイズは少年だったのか。誰かが吐き出した言葉は、少年の声だったのか。少年はしばらくその画を見ていた。しばらくすると、その混ざり合った何かは、何か形作っているように見えた。その輪郭はいまだ曖昧で、そこからが始まりでど こからが終わりなのかはわからない。でも、一部、その中央らしきところにおいては形が生まれた。それが何なのかはわからない。個体?物体?液体?生命?有機物?無機物?
「こんばんは」
その音は突然聞こえた。
「ああ!」
少年は驚きのあまり、音を発した。
「驚いたよね。何も言わなくていいよ。君が言葉をなくしたいことは知っているから」
少年は、その声が聞こえる、目の前にある、ゆらゆら揺れる何かを、頭から被った布団の隙間から見つめた。
「それはそういう顔にもなるよね。ごめんね。全然驚かせるつもりはなかったんだよ。なんというか、いい加減前を向いてほしいなぁと思って。まぁ、前がどこかもわからないけどさ。あ、わたし、真夜中の少女って言うの。なんかダサいでしょ」
少年は、耳を塞いでいた手を下ろしていたことに、今、気がついた。
「私が一体何者かって思ってるでしょ。本当はそんなことはどうでもいいんだけど、君が安心してくれるなら言うよ。私は君なの。君の一部なの。だからその逆も然り。兄弟と言ってもいいかもしれない。だからね、毎晩君が耳を塞いでいるのも知ってたんだよ。でも、助けてはいけないと思ったの。それは君のためであり、私のため。助けたことが助けにならない時もあるでしょ。でも安心して。本当にピンチの時には必ず助けるから。お母さんもそう言ってたでしょ」
少年は兄弟がいることを初めて知った。というか、君は僕だと言った。というか、君は一体誰なんだ。
「それじゃあ、また来るよ。もし君が求めるなら。おやすみ」
その浮遊した何かは、強い光を放ち、消えた。少年は、いつの間にか寝ていた。こんな自然な流れで寝られたのは、思い出す限り、しばらくなかったように思う。

少年は夢を見た。夢は抑えられていた無意識が現れたものだと、とある心理学者が言っていた。無意識はこんなにも、整合性のつかないものなのか。そもそも僕らが一貫性を持とうとし過ぎているのかもしれない。何故、こんなに矛盾に厳しいのだろう。みんな分かっているはずだ。この世は見渡す限りの矛盾だらけだ。夢の中で、少年は、旅をしていた。だだっ広い荒野に一本まっすぐに続く道を歩いている。見えるのは、草と山、歩く度に舞う砂埃と痛さすら覚える太陽。少年は何処から来たのか。少年は何者か。少年は何処へ行くのか。前が何処かもわからない。後ろがどこかもわからない。上と下もわからない。でも、歩みを止めようとは思わなかった。思うことも憚れるような気がした。そこに強制感もない。能動的な義務感のようなものだと思った。これは真夜中の少女と出会ったからなのか。彼女は言っていた「いい加減前を向いてほしい」って。僕は前を向いていないのか。前を向くことはいいことなのか。前を向かねば生きていることにならないのか。前には何があるのか。何もかもわからなかったが、少年は、歩みを止めなかった。それだけが、その時点における正しさだと思った。

朝を迎えた。それは朝と呼べるようなものだと思った。真夜中の少女に会った。昨夜は、 真夜中の少女に会った。夢では、何故か旅をしていた。彼女に会ったのも夢の中だったのだろうか。もしかしたら、目が覚めたと思っている今が夢なのかもしれない。少年はカーテンを開けて、窓をあけた。空気が一気に部屋に入ってきた。それは、まるで百貨店のセ ールの開店時のお客さんが駆け抜けるシーンのようだった。少年はふっと笑った。こんな穏やかな気持ちで朝を迎えたのはいつ以来だろう。そして、思わず笑ってしまったのは、いつ以来だろう。

また、夜はやってきた。夜がやってこない日がないということは、少年にも、何となくわかった。「今までがあったら、次もあるとは限らない」という人もいるが、もちろんそれはそうなのかもしれないけど、往々にして、次もある。みんなそうやって生きている。少年は構える。いつものとおり言葉がやってきた。あれ。なんだか、いつもの不快さが軽減されている。まさか、これも真夜中の少女が齎したものなのか。もしかしたら、また会いたいのかもしれない。少年はそう思った。でも、昨日がたまたまだったのかもしれない。 恐る恐る、口を尖らせてそっと息を吐きだす。少年の口からでる色とりどりの砂のような粒は、やわらかく空気中を漂う。ふっ、ふっ、ふっ。誰かが生み出した言葉と、また、静かに滑らかに交わりながら、それが渦になっていく。何故、言葉と僕の息が交わるのか。少年には全然わからなかったが、ただただ、自立性を保ちながら混沌に向かうそれを見つめていた。
「また、会えたね。あれ、もしかして、実は結構会いたかったりした?ごめんね。そんな意地悪な話はやめよう。今日は何の話をしようか。あ、そうだ。なんで、空中に漂う誰かの言葉と君の息が混ざりあってわたしが出てくる話をしようか。どう?」
少年は、顔を小さく縦に動かした。本当はもっと縦に動かしたい気分だったが、気持ちが悟られるのを恐れたが故に、その小ささに留めた。
「前に言ったよね。私は君で、君は私って。語られる言葉なんて、言葉でしかないの。人は懸命に言葉を使ってコミュニケーションしてるけど、言葉に限界があることは、どこかで感じてるでしょ?だから君は言葉と距離を置こうとしてるんだよね。言葉が色々な問題を齎したりするでしょ。もちろん愛を生み出すこともあるけど、言葉に力が加わると、コントロールに苦慮するよね。もしかしたら、刃物みたいなものなのかな。愛する誰かに食べさせてあげる料理の時に使うこともあれば、誰かを殺す時に使ったりもする。要は使い方次第。しかも刃物も色んな形しているから、その用途を見つけるのが大変。でも、それをだれも教えてくれないの。だれも正しい使い方を知らないの。自分で見つけるしかないの。じゃあ言葉に出来ないものは無かったことになるかとい うと、きっとそれは違う。君もそれは体感しているよね。言葉にならないことにこそ重要なことがあるの。重要というか、そのものがある気がするの。だから、君の息はそういうことなんだと思うよ。だから、私は君で、君は私。伝わった?」
少年は、少女を見ていた。少女は、昨日よりも発光しているように見えた。緑、ピンク、黄色、碧、オレンジ。 集まった砂から何か蒸気のようなものも見える。これは一体何なんだろう。少年は、少女の言ったことのほとんどがわからなかったが、ただ、その少女が、美しいと思った。静かに消えゆく光を見た。光の後ろには白い壁があった。少年は、決めた。もし、また、明日が訪れるなら、この白い壁に絵を描こうと。

明日は訪れた。明日が訪れたのか、自分が迎えに行ったのか。昨日にとっての明日は、今日にとっての今日。明日にとっての昨日は、今日にとっての今日。結局、自分がいるのは今日なんだろう。少年は壁の前に立っている。少年は右手に筆を持っている。少年はふと、自分が筆になったことがあったような気がした。それは前世の記憶なのか。夢の中の出来事なのか。でも、確かに筆になったことがあるような気がした。少年はパレットに絵の具を出し、筆につけ、壁に描き始めた。何を描こうとしているのかわからない。でも、描き始めてしまった。それは少年の意図なのか。全くゴールが見えない。そもそもゴールなどあるのだろうか。少年が存在し始めたその瞬間から、この絵は始まっていたのかもしれないし、それは少年がいなくなっても続いていくものなのかもしれない。少年が自分がいなくなることを想像した。でも出来なかった。自分はどっかにいるような気がしたから。それは物理的身体を超えたものなのか。宗教とか、哲学とか、アートとか、そんな概念はどうでもいい。その枠に収まることに我慢が出来なくなったのだ。その溶ける輪郭を堪能したかったのだ。少年は、描き続けた。もはや描いているのかもわからなかった。もしかしたら何も描いてないのかもしれない。それもどうでもよかった。少年は、自分の右腕が筆になっていることに気がついた。やっぱり、以前にそんな自分があったような気がする。次第に左腕になった。今、絵はどうなっているのだろう。少年の体がどんどん筆になっていく。そして、あろうことか、徐々にその筆になった少年が壁の一部になっていく。少年は抵抗もせず、ただ壁と溶け合っていく自分の身体を見ていた。これは絵なのか。僕はどうなっていくのか。少年は成す術もなく、ただ成るがままであった。頭、首、胸、お腹。ついに足も壁に溶けていき、足のつま先まで溶けた。壁に描かれていたのは母の絵だった。そこには全てが描かれていた。

少年は、光と共に目を覚ました。でもいつもの朝の陽とは何か違うのを感じた。ここは一体どこなんだろう。横になった少年の目に、何か動いたものが見えた。ミミズだった。少年はミミズを見ていた。パッと見た限りだと、どっちが前かわからない。でも進んでいる。少年は自分みたいだと思った。匂いがする。草の匂い、土の匂い、花の匂い、太陽の匂い。少年はゆっくり立ち上がった。そこに広がっていたのは、野原のような世界だった。今どこにいるんだろう。昨日がどこにあったたかも思い出せない。でも、そんなことを考えることも出来なかった。この世界が、考えることをやめさせてくるような気がした。少年は息を吸った。すぅー。甘い味がした。もう一回。すぅー。今度はちょっとしょっぱい感じがした。もう一回。今度はなんか香ばしい。少年は、この世界を味わった。お腹いっぱいになった少年は、ふぅーっと息を吐いた。すると、口の中から、何か羽が生えたものが飛んで行った。蝶々だった。少年は驚いた。ふぅー、ふぅー、ふぅー。蜂が飛んだ。雀が飛んだ。てんとう虫が飛んだ。今度は手を叩いた。ぱん。すると、カブトムシが飛んだ。もう一度。ぱん。今度はクワガタだった。少年は頭を叩いた。コツ。すると、種が落ちて、そこに菜の花が咲いた。もう一度。コツ。チュウリップが咲いた。少年は夢中になって、色んなことをした。りんごがなった。虹が生まれた。川が流れた。魚が生まれた。
「随分楽しそうだね」
突然、声が聞こえた。少年は驚いた。そこにいたのは真夜中の少女だった。
「そんな驚かないで。私だって驚いてるんだよ。だって君がいるんだから。まさかこんなところで会うと思ってなかったし。あ、その顔は、真夜中じゃないのに、なんでいるのって顔してるね。うーん、なんて説明したらいいんだろう。ここはね、真夜中とか、昼とか、朝とかないの。いや、あるよ。もし君が望むのなら。でも、昼とか夜とか、そういう概念もないの。いや、概念はあるかもしれない。でも名前がないの。でも君の世界だと、あるでしょ。だから、この名前は向こうの世界で、つけてもらった名前なの。私にとってはどうでもいいんだけど、なんか名前とかあった方が、どうやら便利なんでしょ?」
少年は、息をしている。少年は少女を見つめている。
「ここはね、お母さんの腕の中なの。居心地いいでしょ。君のいる世界もお母さんの腕の中なんだけど、色んなのノイズが邪魔をして、それが見えなくなっちゃってるだけなんだけどね、本当は」
確かに、暖かい世界だった。何でもある世界だった。もうそれ以上何もいらない世界だった。
「まぁ、せっかく来たんだから、居たいだけ居てね。こうしてここで君と一緒に居られるの、私も嬉しいかも。だって、本当はいつも一緒何だけど、君、最近まで全然気づいてくれてなかったらさ」
二人は、寝転がって、空を見上げた。雲があった。溶けた雲は、綺麗なハーモニーを奏でていた。少年達はそれに聞き入った。ずっと、ずっと、聞いていた。

少年は目覚めるとか、目覚めないとか、どうでもよくなっていた。どうせ、どっちが現実でどっちが夢かを証明することなんてできないのだから。それは生死も同じ、死んでいるのも生きているのも証明なんてできない。だから少年は全てであろうとした。母と共に全てであろうとした。真夜中の少女と共に全てであろうとした。だから、何でもいいのだ。何にでもなれるし、何処へでもいけるのだ。時に電線を飛び交うカラスに、時に雲の向こうに隠れた夕日に、時に懐かしいあの日の午後のコーヒーに、時に僅かながら残ったポテトチップスに、時に遥か向こうの丘にさく赤い花に、時に懸命に戦うあの子の汗に、時に珍しくもないほど見飽きた写真に、時に軒並み使い古された皿たちがある食器棚に、時に全てに共通する素粒子に、時に過去に答えを求めようとしている未来のあの子の心臓に、時に生物多様性という言葉も生じ得なかった色とりどりのあの世界に、時に何かに突き動かされるように駆け出しだあの少年に、時に目が眩むにほど美しい雫に。母は少年を抱いた。少年は、ふと笑った。それを見て母も笑った。

もうすぐ夏がやってくる。少年はこの季節の間が好きだった。誰が決めたかしれないけど、カレンダーには、季節の境目が書いてある。でも、そんなことは、世界にとってはどうでもいいことだった。輪郭のない季節は溶け合い、またオリジナリティを出していく。全ては繋がってしまっているんだ。何一つ、綺麗に取り出すことなんて出来ない。この溶ける季節には、どこか違う世界に繋がっている扉があるというのを、少年は何かの本で見た。いつかそこにも行ってみたいと思った。もしかしたら既に行っているのかもしれず、少年が気が付いてないだけかもしれない。往々にしてそういうものだ。なぜ、こんなにも、物事が見えなくなっているのだろう。なぜ、「何か」は僕らに狭い視界を与えたのだろう。なぜ、忘却を与えたのだろう。なぜ、欲を与えたのだろう。なぜ、心を与えたのだろう。なぜ、力関係を生じさせたのだろう。なぜ、相対性をもたらしたのだろう。なぜ、矛盾を与えたのだろう。なぜ、差異を与えたのだろう。なぜ、生を与えたのだろう。なぜ、死を与えたのだろう。なぜ、言葉を与えたのだろう。もしかしたら、そう思っているだけかもしれないが。少年は口笛を吹いた。少年は気分が良かった。家の外に出た。目的地はない。歩き始めた。足元にはお気に入りのスニーカー。少年は、もう、迷うことはないと思った。迷いというものがないということがわかったから。そして、迷いを作りたければ作れることもわかった。歩くということに、そこに意味があろうとなかろうと、それは関係なかった。常ならぬ世界で、消えられないのなら、歩みを止めてはならない。形を変えて、姿を変えて、色を変えて、動き続ける。流れに、逆らうこともなく。流れる歌を止めることもなく。煌めく星を遮ることもなく。少年の歌声に合わせるかのように、空は、木々は、鳥たちは、世界は、歌を歌った。

少年は森の中のコテージにいた。木の匂いがした。カレーの匂いがした。そこには少年しかいなかった。視界に映るのは木の机、木の椅子、暖炉、ソファー、窓、机の上には黄色い花が花瓶にさしてあった。天井は高く感じた。天井にも窓があった、そこから射す光が、少年を照らした。少年はソファーの上に座っていることに気がついた。そっと目を閉じる。瞼の後ろに、真夜中の少女がいた。
「あら、こんなところで会うとはね。おはよう」
少年は心穏やかだった。また、会えたのが嬉しかった。少年は目を開けたくなかった。ずっと真夜中の少女と一緒にいたいと思った。
「カレーの匂いしたでしょ。あれ私が作ったの。まぁ、君が作ったとも言えるけど。母の味。あれ母の味だからね。あとでゆっくり食べて」
少年は、目を瞑ったまま頷いた。
「私、君のこと好きだよ。何が好きって言われても困るけど、君が思っている以上に君が好き。まぁ、兄弟だし、私は君だから、何のこっちゃわからないと思うけど、そういうこと。だから安心して。冷めないうちにカレー食べてね。食べ終わったら、片付けお願いね」
少年は、目を開けたくなかったが、瞼の後ろの真夜中の少女は次第に消えて行った。少年は目を開けた。少年はキッチンに向かった。鍋が2つあった。一つ目の鍋の蓋を開ける。カレーだった。たくさんの野菜が入ったカレーだった。もう一つの鍋の蓋を開ける。水蒸気が立ち込める。水蒸気は踊っていた。一つ一つの粒は、皆自由に、思い思いに、体を揺らし、踊っていた。その先に見えたのは、白いごはんだった。少年は棚から皿を出し、ごはんとカレーをよそった。それを持って椅子に座った。少年は目を瞑って、手を合わした。目を瞑っても、そこには暗闇はなかった。何か優しい光が、瞼の世界に差し込んだ。少年はカレーを一口くちにした。美味しかった。ほっぺがとろけるとはこういうことかと思った。少年は、ほっぺに手を当てた。とろけていた。少年はカレーを口にする。徐々にとろけていく少年の体に、虫が止まった。鳥たちがやってきた。そこに花が咲いた。少年が見ている世界と、実際の世界にどんな違いがあるのか。この眼に映る世界はこの世界なのか。この眼は世界を正しく認識しているのか。自分が世界であるなら、世界を終わらせることもできるような気もするが、それはきっとできない。世界は終わることができない。なぜなら、始まりがないからだ。それを永遠と呼ぶのは些か陳腐な気もする。そういうことじゃない。だから、言葉をなくしたのだ。でも、少年はふと思った。世界を構築しているのが自分だとするなら、僕は、言葉を愛しているのかもしれない。愛の形とは。愛の数とは。愛の種類とは。愛の味とは。愛の匂いとは。愛の温度とは。愛の音とは。愛の明るさとは。愛の色とは。愛の長さとは。愛は問いなのか。問いは愛なのか。愛は問うことをやめることなのか。愛は何でもあることなのか。愛は何もないことなのか。愛は見つめることなのか。愛は母か。母と食べる、真夜中の少女と食べるカレーは、この上なく美味しかった。

ある時から、少年は、夜の声が聞こえなくなったことに気がついた。夜の声がいなくなったわけではない。そこにいるのはわかっている。でも耳に届かなかった。入ってこなかった。少年は、不思議な感覚に陥った。あんなに嫌だった、あの音が、あのノイズが、どこか愛おしく思う。また、耳に入ったら、それはそれで嫌なのかもしれないし、また耳を塞ぐのかもしれない。けど、この胸の、どこか切ない感情を抱いている少年はそこにいた。何よりも、あの声がなければ、真夜中の少女に会えなくなってしまうのではないかと、そんな不安があった。少年は真夜中の少女に何を求めていたのだろう。それは依存だったのか。終わりなき信頼を気づこうとしたのか。意味のないダンスを共に踊りたかったのか。少女の言葉だけが言葉であるように思ったのか。少女が自分だと思ったのか。無くした一欠片を少女に探そうとしたのか。少女は言っていた。
「いつでもどこでも、すぐ君のそばにいるから。母と一緒にね」
少年は、試しに、息を吐いた。ふっ、ふっ、ふっ。出なかった。あの時のように、少年の口から、砂は出なかった。蝶々は出なかった。次の日の夜も、その次の日の夜も試して見たが、何も出なかった。少年は、ずっと夢を見ていたのだろうか。部屋を見渡せば、机、椅子、ベット、本棚、クローゼット、白い壁。何も変わらない。長い年月をかけけて、これらも朽ちていくのだろう。少年はよく眠った。そして、毎朝目覚めた。

少年は今日も、目が覚めた。腕を伸ばし、背中を伸ばす。大きく息を吸う。そして吐く。胸は大きく膨らみ、そしてゆっくりと沈んでいった。
「ほら、ごはんできたよ!早く起きてきな!早くしないと遅れちゃうよ!」
下から声が聞こえた。少年は布団から出て、部屋の扉を開け、階段を降りた。リビングの扉を開けると、湯気が立ち込めるテーブルがあった。そこから薄っすらと見えるのは、白いごはん、茄子の味噌汁、その奥にはほうれん草の煮浸しと納豆、そして沢庵が見えた。でも、1食分しかなかった。そこには誰もいなかった。少年は、席に座り、手を合わせた。
「どうぞ、召し上がれ」
どこから声が聞こえた。少年は、辺りを見回す。やっぱり誰もいない。少年は、箸を手に取り、味噌汁のお椀を持ち上げた。お椀を口に近づける。次第に、湯気が少年を包む。味噌の香りが近づいてくる。口をつける。口の中に、味噌の味が広がる。玉ねぎ、茄子、そしてしめじの味がした。その味噌汁は、少年の喉を通って、食道を通って、胃に達した。吸収している。少年の体が、これらの要素を吸収している。吸収して、少年の一部になっている。目の前の食事は、これから少年になるのだ。かつては、すでに少年だったのかもしれない。巡り巡って、またここにやってきているのかもしれない。そして、少年もまたこれらの食材だったのかもしれない。全ては巡り、形が変われど、差異はあれど、何も変わらないのかもしれない。沢庵を口にした。カリッ、カリッ、カリッ。歯応えがある。応えるための歯がある。僕がいる。君がいる。もう一つ口に、カリッ、カリッ、カリッ。その沢庵も、少年の喉を通って、食道を通って、胃に達するのだろう。もちろん、それは少年の一部となる。味噌汁とはうまくやってくれるだろうか。こんなに色々なものを食べているのに、みんな身体の中で喧嘩しないのだろうか。どうやったら、そんなに仲良くできるのだろうか。ほうれん草も白いごはんも、全て、その一部は少年になった。食べることは生きること。生きることは食べること。それ以上も以下もあるのだろうか。それ以外は全て、付属品なのではないだろうか。食べることで、世界は循環している。無常の世界においては、その循環こそが世界なのではないだろうか。

少年は、畑に種を植えようと思った。その種は、昨日、突然、空から降ってきたのだ。何の種なのか、それは果たして種なのか、それもわからなかったが、それは見て少年は種だと思った。家の後ろに小さな畑があったことを思い出した。土を耕した。山でたくさんの微生物を連れて帰ってきた。その途中で、微生物たちは歌を歌っていた。少年はその歌が好きだった。少年もつられて踊った。その微生物を畑の土に混ぜた。しばらくすると、土はふかふかになった。ふかふかな土の間から、微生物たちの歌が聞こえた。少年は、種を蒔いた。踊りながら種を蒔いた。そして、水をあげた。雨が降らない日は水をあげた。雨が降った。少年は部屋の窓から、畑を眺めた。土は、微生物は、緑の葉は、雨に歌を歌っていた。少年は傘もささずに、長靴を履いて外に出た。ピチャ、ピチャ、ピチャ。少年も、一緒に踊った。それが楽しかった。みんなと一緒に楽しむのが心地よかった。

畑が緑でいっぱいになった。雨上がりの空は、葉っぱに滴る水滴を照らした。少年は、試しに、一つ葉っぱを引っこ抜いてみた。人参だった。隣の葉っぱを引っこ抜いた。じゃがいもだった。もひとつ隣の葉っぱを抜いた。玉ねぎだった。少年は、決めた。カレーを作ろうと思った。あのコテージで、母と、真夜中の少女と食べた、カレーを作ろうと思った。野菜を持って、キッチンに立った。野菜を洗った。土についた微生物たちは少年にお別れを告げた。
「今までありがとな。君の踊り最高だったぜ。また会おうね」
土は排水溝に流れていった。少年は、人参の皮をむいた。人参の皮は、少年にお別れを告げた。
「私たちは、また土に帰るから、また君に会えるよ。」
じゃがいもの皮は言った。
「人参さんと一緒に、待ってるね。また歌おう」
玉ねぎの皮は言った。
「来世は、一番外の皮じゃなくて、中の方で生まれたいと思ったよ。君の一部になりたかったよ。まぁ、すでに一部ではあるけど」
少年は鍋に、油を敷いて、野菜を炒めた。部屋の中に湯気が立ち込める。水蒸気は踊る。火が通って、水を入れる。野菜たちは、水の中を泳いでいる。灰汁をとる。
灰汁は言う。
「俺たちそんな悪いものじゃないぜ。善悪なんて、そんな単純なものじゃない。君はそれをわかってくれてるから、僕らも嬉しいよ。次は違う形で会いたいぜ。あばよ」
少年はしばらく火を通したのち、カレー粉を入れた。
カレー粉は言った。
「カレー粉なんて、自分で言うのも何だけど、俺たち本当に便利で優秀だけど、俺たちだって元は違うものからできてるんだぜ?便利の後ろにあるものを、君は知ってくれてるから、君みたいなものに食べてもらえるのは、最高だな」
グツ、グツ、グツ。
少年は、ゆっくりと火をかけながら、鍋を回す。すると、お米が言う。
「あれ?私たちのこと忘れてない?」
少年はハッとした。お米を研いで、鍋に入れて、火を通す。
「カレーだけでもいいけど、やっぱり、私たちお米は必要でしょ」
はじめちょろちょろなかぱっぱ。
少年は皿を持って、炊き上がったごはんをよそった。そして、グツグツ煮込んだカレーをその隣によそった。少年はスプーンとカレーライスがもられた皿を持って椅子についた。少年は、背筋を伸ばした。少年は手を合わせ、目を瞑った。瞼の後ろには、野菜たちが踊っている姿があった。母の姿があった。真夜中の少女の姿があった。川が流れていた。木々があった。鳥が泣いていた。花が咲いていた。少年は目を開けて、言った。
「いただきます」
久しぶに口にした言葉は、どこか自分じゃないような気もした。こんな音だったかと、かつての記憶に思いを馳せた。言葉は敵ではなく、味方でもなく、ただ、あるものなのだ。言葉に罪はない。言葉を信じる必要もなければ、疑う必要もない。ただ、言葉は言葉でしかないんだ。その姿が君なのだ。その言葉に色をつけるのも、自分次第なのだ。言葉に形などない。いつも流動的なものである。それを檻に閉じ込めていたのもまた、自分だったのかもしれない。少年は、カレーとごはんの境界線にスプーンを入れた。そのスプーンに境界線を乗せた。少年はそれを口にした。
「ありがとう。そして、ごめんね」
口の中で、命の輪郭は融合していった。命のハーモニーが、そこにあった。

見ていただけたことが、何よりも嬉しいです!