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自らに由る

「自由になりたい」

きっと、誰もが一度は思ったことがあると思う。

じゃなければ、こんなに自由に関する歌も本も、この世に溢れる必要はないのだから。


では、自由とは一体何なのだろう。

少なくとも、今、自由を感じていないから、「なりたい」と願っている。

その、なりたい状況は、どんな状況なのだろうか。

おそらく、多くの人は、日々、「しがらみ」や「強制感」みたいなことを感じていて、そこから抜け出すことをイメージしていると思うし、僕もまた同じ感覚である。


では、今、僕らは、自由ではないのだろうか。

きっと、そんなことはない。

こうして、誰からも強制されることなく文章が書け、喉が乾けば水を飲むことができ、何より、「自由になりたい」と思うことが、誰にも邪魔のできない思想の自由である。

でも、それでは満足できないから、更なる自由を求め、しがらみを抜け出そうとしている。


では、仮に、そのしがらみを抜けたとして、その先に、完全な自由は存在するのか。

きっと、そんなことはない。

どこまで行ったとしても、共同体の中で生きるのならば、少なからず、その組織におけるルールが存在する。

それは、明文化されていないものかもしれない。

でも、それは、生きていく上で、守らねばならぬルールである。

たとえ、自分の意思に反していたとしても。


そう考えると、自由というのは、濃淡の世界のように思えてくる。

0か1かではなく、有るか無いかではなく、白か黒かではなく、その間に存在するグラデーションの世界。

だから、僕は、自由を考える時に、「自由度」というものをイメージしている。

完璧な自由もなければ、完璧に自由じゃないこともない。

その間の度合いの世界。

僕らが、自由を求めているというのは、この自由度を上げることを願っていることなのではないだろうか。


では、最初の疑問に戻ってみる。

「自由とは一体何なのか」

辞書を開けばそれなりの答えはあるのだろうが、抽象度の高い概念が故に、人それぞれの解釈の余地があるというのが、個人的には何とも好きである。

僕は、自由とは、読んで字のごとく「自らに由ること」だと思っている。

「自らに由る」とは何なのか。

それは、「自らの意思で決めること」とも言えるのかもしれない。

「自らの意思で決める」というのは、この世では0からは何も生み出すことができないことを前提とすれば、それは自らの意思で「選択する」ということと同義のような気がしている。

つまり、自由とは、

「選択肢を知っていて、且つそれを選べる状況にあること」

であり、その状況を拡大していこうとすることこそが、自由を求めることであると、僕は思っている。

そして、自由が度合いだとするならば、選択もまた度合い。

それを僕は「選択度」と呼んでいる。

その選択度を上げるということが、ひいては自由度を上げるということなのではないだろうか。


さらには、自立に関しても、僕は同じようなイメージを持っている。

仮に、自立が、誰かによって立たされているのではなく、「自ら立つこと」だとするのなら、それは「自らの意思で決めること」とほぼ同義のような気がしている。

「選択肢を知り、且つそれを選べる状況になること」を拡大させればさせるほど、きっと、僕らの自立度は増していく。

もっと言えば、これらは、きっと「幸福」にも繋がっている。

もちろん、幸福の形は人それぞれで、それは無限にあると思う。

でも、その一つの大きな要因に「自分の意思で決められること」、つまり「自由に選択できること」というのがある気がしてならない。

「自由度」「選択度」「自立度」「幸福度」

これらは、どう考えても、僕の中では切り離すことができない。

大げさに言ってしまえば、同じことを、名前を変えて呼んでいるだけのようにも思えてくる。


一つ、面白いことがある。

これを面白いというのも変なのかもしれないが、すごく矛盾という混沌を包括した人間らしくて僕は好きだ。

「自由からの逃走」

これは、精神分析学者エーリッヒ・フロムの代表作である。

要約すれば(こんな簡単にしたら怒られそうだが)、

「自由すぎるとそれはそれで、孤独を感じ虚無感が生まれるので、自らルールのある不自由な世界に飛び込んでいく」

というものである。

つまりは、何事も程度を知るということが大事とも言えるのかもしれない。

でも、基本的には、自由度は高いに越したことはないとは思っている。


たまに、友人に、相談事をされたりする。

冷めているようだが、結局その答えは、その人自身にしか出すことは出来ず、この世に正解がない以上、僕には何もしてあげることが出来ない。

もしかしたら、それを、力不足と言うのかもしれない。

でも、その中で、自分の考え得る、可能な限りの選択肢の提示はしたいと思っている。

その中から選ぶかどうかは、その人が決めることであり、そもそも大した選択肢を提供出来ていないということも大いにある。

ただ、そこに、相手の中で「選択するという自由」が少しでも生まれたとするならば、大事な時間を使って僕に相談してくれた、小さな意味ぐらいにはなるのではないかと、そんな淡い期待を抱いている。

見ていただけたことが、何よりも嬉しいです!