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春に降る雪を横目に思う

最近、ぼんやり考えていることがある。
というか、もはや、ずっと考えているのかもしれない。

「どんな世界が理想の世界なのか」

人に話せば、「壮大な話だ」と嘲笑すらされるわけだが、まぁ、その反応も分かった上で話しているわけだし、そんな相手も別に嫌いじゃないし、話せる相手がいるだけで幸せなことなのかもしれないし、いろんな人がいるのだと思うと、どこか愛おしさすら覚える。


理想とは誰にとっての理想なのか。

自分にとっての理想は、誰かにとっての理想なのか。

自分とは何か。

誰かとは何か。

人類にとっての理想は、全生物にとっての理想なのか。

生きるとは何か。

死ぬとは何か。


そもそも、この世界が決定論だとすれば、僕らには自由意志はなく、ただの地球に於けるいちマシーンとして存在しているだけになる。

理想を探そうとしている僕自身もまた、何かによって「探ささせられている」に過ぎない。

更に、それが独我論だとすれば、この世界はすべて自分の観念が作ったものであり、自分が死ねばすべて終わる。

もちろん答えはわからないが、おそらく、実在論且つ自由意思論として、この世は回っているように、僕のこの目には映っている。

と、何一つ正しいことが存在しない世界に於いて、一体何を目指して生きていけばいいのか。

そんな世界における「理想」とは一体何なのか。

この地球は、明確な理想もないまま、一体どこに向かおうとしているのか。

世界を知ろうとすればすればするほど、僕の世界に対する認識は混沌としていく。


近頃、「多様性」という言葉をよく耳にするし、それこそが素晴らしいことであるという、社会の風潮になってきている。

僕自身もそう思っているし、何か意見を問われた時には、より多様性が尊重できそうな解や新たな問いをすることが多い。

ただ、改めて、「なんで多様性がいいの?」と問われたとしたら、いよいよ困る。

「多様であることで、危機が起こった時に、種の絶滅のリスクヘッジができる」

「相対的なものが多くあることで、自己というものが認識できる」

などの、取ってつけたような解はあるが、本当のところは全くわからない。


今日、朝、目が覚めて、カーテンを開けると、そこには白銀の世界が広がっていた。

ちょっと、目をずらせは、そこには、葉桜になりかけている桜。

僕は直感で思った。

「そもそも、多様であることがこの世界のデフォルトなのではないか」と。

この世の生態系を司る「何か」は常に多様性を保とうとしているのではないかと。

生態系ピラミッドの、人間の部分が多くなれば、それは、間違いなく他の生物にも影響が及び、いずれそのピラミッドを正常なものにするために、廻り廻って人間に返ってくる。

その世界のバランスを保つために、もしかしたら、人間を絶滅させるようなこともあるのかもしれないと。

そこには、人類がいない、地球にとっての多様性の世界が存在するのかもしれない。

だから、もしかしたら、僕ら人間がやることは、実はシンプルに「人類を未来永劫残していこうとすること」なのかもしれない。

それは、実に動物的本能であり、リチャード•ドーキンスのいう利己的な遺伝子なのだろう。

人類が生き残ろうとすれば、人類が生きていける環境、多様性を保つ必要がある。

それは、地球のためではない。

他の生物のためではない。

我々、人類のためだ。


この世の生態系を司る「何か」が一体何なのかは、もちろん僕にはわからない。

それを、ある人は神と呼んでいるのかもしれない。

いずれにせよ、人間なんぞでは逆らうことのできない「何か」がそこにはあるような気がしてならない。

バベルの塔のように、その「何か」に抵抗しようとすることで、我々は自らの首を絞めることになり、また実際に絞めてきたのだ。


理想の世界とは何か。

きっと、僕はこれからも考えていくし、答えが出ることもないのかもしれない。

それでも、地球における生物多様性、人類における多様性、そして自己の中に存在する多様性、それを尊重して生きることが、動物としての人類を存続させていく方法なのではないかと、春に降り積もる雪を横目に、そんなことを思った。


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