「得た」とき

あなたには居るだろうか、ともだち。
最近ともだちの有難みを噛み締める機会が多い。
わたしから感謝の気持ちが溢れるときは、総じて「得た時」なのだが、得たと言っても必ずしも相手から何かをしてもらった時ではない。

例えば人から高価なプレゼントをもらったとして、わたしは真っ先にお返しのことを考えるだろうし、関係性によっては事務的な気持ちになってしまい、プレゼントをもらった瞬間から贅沢ながら憂鬱が炸裂することさえある。女子グループでお祝いのターンが全員に回ってくるあの感じがまさにそうだ。おしゃべり上手なまとめ役により予算が決められ、今月はあなた、来月はあなた、とみんなでプレゼントを贈り合う。最初の1年こそ楽しく過ぎ去っていくものだが、女子グループたるもの、時間の経過と共に仲違いが起こりがち。「私達ってばサバサバしてるしネチネチした女が嫌いだから揉め事なんて絶対に起きないわよね!表面上仲良くしておいて悪口言うとかありえない!揉め事なんて面倒だから本当に勘弁して欲しいわよ」と会う度に言っていた女が先陣を切って実はわたしあの子のああいう所がね…と顔を歪めて話してきたことが何度あっただろうか。女って面倒臭いよね~と言ってくる女ほど面倒臭いのだ、これは人を信じて失敗を重ねてきたわたしの貴重な経験談だ。誰かが誰かを手軽に嫌い始めるような浅い関係には巻き込まれたくないため自然と会う回数も減っていく。半年、下手すると一年に一度集まった際に溜まったプレゼントを一気に渡し合う、更にはプレゼントを考えるのも大変だからと全員に同じ物を贈るという何ともロマンに欠けた構造になることも多い。そうなると義務でしかなく、何の面白みもない。白ご飯のトッピングが塩しかないのと同じである。ゆかりや梅干し、生卵と出汁醤油などバリエーションが豊かであるから人生も豊かに輝くというものである。そもそもの話、予算も決まっているのであれば自分で自分の欲しいものを買った方が良いのでは?と考えてしまうことすらある。ただ当初は仲が拗れることなど誰も予想していない。だからこそプレゼントを贈り合(お)うたのだから、結果的に爆弾の回し合いとしか思えなくなったとて誰を責めることも出来ない。誰か辞めようと言い出さないかな、会う頻度も減って来たし、今年は無しのまま1年過ぎないかな、などと恐らく誰しもが思っているが、何かをはっきり言えるような関係でもなく、輪を乱す勇気も出ず、ただ自然の摂理に従うよう、続く限り続けるのである。

勘違いされたくないのだが、決してプレゼントを贈りたくない訳ではない。わたしはどちらかと言えば贈り物をするのがすきだ。その人の好みをじっくり考えた上で、喜ぶ顔を想像して贈り物を選ぶ。「何が君の幸せ 何をして喜ぶ 分からないまま終わる そんなのは嫌だ!」の歌詞の如く、贈り物を選ぶ時の心はアンパンマンのマーチ そのものである。ただ、喜びよりも憂鬱が勝ってしまうときというのもどうしてもあって、そういうシチュエーションの相手は大抵職場関係のひとだったり本音を語り合えない相手だったりする。そういう相手には遠慮して「プレゼントの贈り合いなんて死ぬまで続けられる訳じゃないし気遣いで義務になるだけだから、わたしはパス!」なんてとてもじゃないが言えないのである。あとこれも強調しておくと、贈り物を頂けるのは本当に嬉しい。真剣に考えてくれた物なのであれば。ただそこにお返しに対する打算であったり、少し手抜きした背景が見え隠れしてしまうと、ちょっぴり虚しくなるのが乙女心というものなのだ。

さて、話を「得た時」に戻そう。
わたしには心底敬っている仲の良いともだちがいるが、誕生日プレゼントを贈り合う習慣もなければLINEでおめでとうを送り合うこともほとんどなく、偶然思い出したら送る程度の感覚である。
ではどういった時に「得る」のか。毎年プレゼントをしてくれたり、わたしの意見しか聞かないまま無条件に味方についてくれたり、いつまでも何があっても友達だよ!と無責任な愛情を押し付けてくる時ではない。わたしはそれらが一番苦手である。「得る」時、それはわたしが悩みをもちかけるとき、自分の言葉がスラスラ出てくる時なのだ。悩みを持ちかけているのだから自分の言葉がスラスラ出てくるのは当然だろうお前。白ご飯のお供やアンパンマンのマーチなんか引っ張ってきて最後にそんな訳の分からないこと言うのかお前。と思った方がどれくらい居るかは分からないが、わたしには昔から自分が思っていることや感じていることは周りの人には理解され難いものだと諦めている部分があり、更に否定されたり合わない人と口論するのが苦手(というか認め合えないのなら対立と同じだし話すだけ時間の無駄だと思っている)なので、自分の話を理解した上で否定せずに認めてくれる人にしか話したくないのだ。書きながら何て面倒で意気地のない人間なんだと我ながら思う。が、子供の頃から散々、あなたの言ってることは分からない、あなたの言ってることは間違っている、変なこと言うね、変わってるね笑笑 とチクチク言葉を放り投げられ鼻で笑われてきた経験により、人前では普通の発言をしなくてはいけない、本心を言っても攻撃されるから隠さなければと必死になり、それがいつの間にか癖づいてしまったように思う。文字に起こすと現役の厨二病みたいで本当に恥ずかしくてごめんなさい。ただ自分と合う人間、受け入れてくれる相手を察知する嗅覚は人一倍優れているようで、気が合いそうだと思う人にはとことん饒舌になるし、この人わたしを好きだろうなと思った人に嫌われていることはほぼなく、頑張らないままでも何となく人間関係は上手くいくので、そういう部分でも我ながら小賢しく格好悪いなと感じる。わたしがいかに情けない人間なのかを分かっていただけたところでまとめると、この世の大半の人は、万が一わたしが本心を隠さずむき出しにして過ごした場合、みんなどこかちょっと敵なのである。明らかに敵であれば最初から関わろうとは思わないのだが、基本的にはみんなのことがすきだし、仲良くなって影響を受けたい部分も多くある。だからこそ厄介なのである。

そんな中で、わたしが臆せず意見を発することが出来る相手というのは、本当に神様みたいに貴重だ。そう何人もいる訳ではない、神様だって何人も居たら有難みが失せる。悩みや自分の考えを、自分に正直に、相手に気遣ったり忖度せずに思いのまま聞いてもらうことで、自分の考えがまとまっていく。こうした状況の中で、わたしは「得て」いる。勿論そんな間柄であり本当に尊敬して認めている相手だから、与えてくれるアドバイスも的確だ。ただ相手の意志通りに行動するのではただのお人形さんと変わらないから、わたしはわたしで考え、話し、結果を出す。この工程を手助けしてくれるともだちにこそ、真に感謝が生まれ、実りのある関係が育まれる。合わない人と話すとき、無駄に客観性や吸収力、共感力があることから(自分は間違っているのか?人としておかしいのではないか?)と頭がぐちゃぐちゃに掻き回されてしまい、自分がどう感じるかよりも正しさとは何か、客観的に見ると正常・普通なのはどういった状態か、に重きを置いてしまうことも少なくは無いため、こういった相手は本当に貴重なのである。みなさんはどういった時に「得る」のだろうか。少しだけ興味があります。少しだけ。

それにしてもプレゼント交換の義務的なあの空気感は本当になくなって欲しいものだ。というより、わたし参加しないよ!と言える勇気が欲しいものである。

最後まで読んでいただき有難うございました。

コーラ