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少し久しぶりに文章を書いている。と、いうのも、やっと自分の中で整理がついたできごとがあって。
何回かに分けてnoteにも書いているとおり、去年の春まで、わたしには好きなひとがいた。だけど結局何も起こらなくて、というか、わたしが怖くなってしまって。触れたいとは一度も思わなかったし、世の中における恋人らしいこと――セックスとか、そういう。そういうのが、できる気がしなかったから。普通の恋人にはなれないと思って、それ以上関わるのをやめてしまった。
男性が恋愛対象じゃないのかも、とも考えた。それくらい迷った。今もそこは若干迷っているのだけれど、今回はそこじゃなくて、身体的接触について。

Twitter(もうXなんだけど、まだもう少し粘らせてください。)でバズっていた漫画、『アイロン』というタイトルの、短いお話。読み切りかな。

これを読んだとき、傲慢かもしれないけど、わたしじゃん、と思った。ぼろぼろ泣いた。こんな形があっていいんだ、と思った。
主人公はロマンティック・アセクシャル(恋愛感情は持つが、性的感情を持たない)の女性。ヘテロの男性と付き合って、当初は性的行為なしでも上手くやっていけていたのだが――みたいな話。余裕があれば読んで欲しい。

これ以下、少しこの漫画の内容に触れるので、読む気がある人はネタバレ注意です。

さて、わたしの話に戻る。
そもそも、一年前に、彼を好きになれなかった、触れられる気がしない、と周囲に相談したとき、「それはそこまで好きじゃなかっただけじゃない?本当に好きならきっとセックスもしたいと思える」と言われて、そういうものかあと思っていた。わたしは彼が好きじゃなかったのかも、なぜなら好きなら触れたいと思うものだから。そんなふうに誘導されていたように思う。誰に、とかじゃなくて、世間の風潮に? 好きならセックスできて当たり前で、あれが愛情表現の最上級である、みたいな。いやそれは否定しないけどね。

さっきの漫画に、主人公の彼氏が、主人公にセックスできない理由を尋ねる場面がある。「昔 嫌なことがあったとか」「一回やってみれば変わるかも」。これも、わたしが何回か言われた言葉でドキッとした。そういう問題じゃないんだよね。一回やってみればって軽く言うけど、その一回がどうしてもできる気がしないの。

それから、「愛があってもセックスできないのはおかしいですか 愛してないことになっちゃいますか」と主人公が問うシーン。ここで本当に、信じられないくらい泣いた。そうだよね、そう、好きだった。ちゃんと好きだったよ。セックスはできないと思った、触れたいとは思えなかった、その先に進めないと思った、だけど確かに好きだった。
蛙化〜とか、そもそもそんなに好きじゃなかったのかも〜、とか最低なことを言って誤魔化して笑っていたのは、自分を納得させるためでもあった。好きだったけど、接触を許せる相手じゃなかったってことは、そこまでだったのだと。もっと触れたいと思えるほど良い人が見つかる、と。たぶん、そうじゃなかったんだよな。

今は本当にもう、ちゃんと、飲み込んでいる。大丈夫。こんなに何回も色々書いて、わたしをリアルで知っている皆さんはきっと(こいつまだ言ってる……)と思ってるかもしれないけど、大丈夫。引きずっていたのはどちらかと言えば、さきの「そこまで好きじゃなかっただけじゃない?」という発言だったのかも。言われたときはそうかあ、と思っていたし、納得していたけど。でも、そんなことなかった、ちゃんと、恋愛をしてこなかったわたしにとっては、あのとき、すごく大きな存在だった。それを、否定しないでほしかった。だからずっと苦しかったんだと思う、きっと。

というわけで現状、わたしはアセクシャルというやつみたい。自分のことを簡単に定義付けてしまうのも少し危ういけど、とりあえず、やっと今までのことに折り合いがつけられてほっとしている。アセクシャルって言葉は元々知っていたけど、性的感情を持たないというだけで「できない」とはまた違うと認識していて、わたしはそうじゃないから別の区分だと思っていたんだけど、アセクシャルと定義されている『アイロン』の主人公はわたしそのもので――いや一歩も踏み出せてないわたしより、あの主人公は、恋をして、傷ついて、向き合って、余程大人なんだけど。それでも、わたしと同じ考えかたの人がいるということ、そしてそれに名前があるということ、に、酷く安心した。とりあえず。またもし好きな人ができたら、話聞いてください。