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あの子、きちんと家に帰ってきてる?(別居嫁介護日誌#01)

普段はセールス電話ぐらいしかかかってこない固定電話に繰り返し、繰り返し着信があった。10回ほどコールした後、切れる。留守電にメッセージはない。でも、数分も経つとまたかかってくる。受話器をとると、義母だった。

「あの子はいるかしら……?」とおずおずとした感じで聞かれる。「今はいませんけど、あとで電話するように言いましょうか?」と伝えると、「いえ、いないなら、いいんだけど……」と黙りこむ。気まずい。

結婚して10年ぐらい経つけれど、夫の両親と10数回しか会っていない。年に1回、正月の家族の集まりに参加し、あたりさわりのない近況報告をし、新年の抱負を言い合う、程度の関係だ。実家とのやりとりはもっぱら夫の役目で、義母と私が直接電話でやりとりすることも、それまでは一度もなかった。

「おかあさん、どうしましたー? 何かありました?」

少々わざとらしいぐらい、明るい声を出してみる。何もないなら早く電話を切って仕事に戻りたいのが本音だった。

「あのね……あの子、きちんと家に帰ってきてる?」

「多分、帰ってきてると思いますけど……おかあさん、何か見ました?」

思いがけない質問が来て、声が裏返る。我ながら、その切り返しはないだろうと思うが、義母の声はあまりにも切羽詰まっていた。

素直に考えれば「友達か、仕事相手か、とにかく、誰か女の人とふたりで歩いてたのを見かけて、勝手に浮気だと思い込んだ」説が有力。でも、ここで「駅の改札で抱き合ってキスしてたの……」なんて聞かされた日にはどうしたらいいのか。場所ぐらい選べ! そんな話を姑から聞かされるこっちの身にもなれよ、バカ!! 結構うまくいってるような気でいたけど、終わるときはあっけないもんですね……とかなんとか原稿に書くぞコノヤローと、こちらはこちらで妄想が暴走。

「あの子には絶対言わないで欲しいんだけど……この間、3月に旅行に行ったでしょ? 帰ってきたら、あったはずのお金と通帳がなくなってたの。主人は警備会社が怪しいって言うんですけどね、玄関に見覚えのない男ものの傘があって。それで私、もしかしたら、あの子かなって……」

えーっと、男ものの傘? いやいやいやいや、おかあさん! いろいろ話すっ飛んでますよ。どう考えても濡れ衣だろうと思いながら、こちらもつい聞いてしまう。

「ちなみに、お金っていくらぐらいなくなってたんですか?」

「3万円ぐらい……。通帳はそのあと、別の引き出しから見つかったんですけどね、現金はどうしても出てこなくて。それでもしかしたら、あの子が何か困っているのかと……」

「おかあさん! 大丈夫です。彼のしわざではないです」

キッパリ伝えると、電話の向こうで義母の緊張がとける気配がした。本人に確認するまでもなく、さすがにそれはないだろうと思った。

百歩譲って、浮気をしていたとしても、たかだか数万円のために、遠く離れた実家に忍び込むのはあまりにも効率が悪い。さらに、もう百歩譲って、浮気相手がものすごく金のかかる女で、ブランドもののバッグか何かをねだられ、まとまったお金が必要だったとしても、親の通帳と印鑑を持ち出し、見とがめられない程度に少額ずつおろす…………という作戦は無理がある。そもそも、夫が、親の通帳や印鑑のしまい場所を知っているとは到底思えない。それぐらい疎遠な親子関係だった。

「あら、そう? あなたがそう言うなら、きっとそうね。よかった。胸のつかえがとれたわ」

急に声が明るくなった義母は「あの子には絶対言わないでね。きっと怒るから……お願い、言わないで」と繰り返し、電話を切った。私は「大丈夫ですよ。言いませんよ。ご安心ください!」と安請け合いし、帰宅した夫にすぐ報告した。こんな素っ頓狂で面白い話を、夫に話さずにいられるわけがなかった。

「浮気をして、金に困って、実家に忍び込んで年寄りの財布から数万円盗む…………って、どれだけダメな男だよ!」

「しかも、なぜか傘を忘れて、侵入したことを母親に勘づかれたっていう設定だよ。マヌケすぎる!」

大笑いする私に、意気消沈する夫。信用がないにもほどがあるだろう。

「おふくろ、勘弁してくれ! だいたい、お前も『何か見たんですか?』じゃないだろう。ひどいよ……」

こちらにも、火の粉が振ってきた。いや、だってそれぐらいおかあさん、深刻だったんだってば。一応検討した上で弁護したんだからいいじゃない。それにしても、お金どこに行っちゃったんだろうね。どこかにしまい忘れたかな。ふたりとも80代だもん、忘れても不思議はないよね。

その夜は【結婚しても尚、親に心配され続ける素行の悪いドラ息子】を酒の肴に笑い転げ、ほんの少し親不孝を反省し、疑惑が晴れたことに乾杯した。事態の深刻さにはまだ、気づいていなかった。

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