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「続かない」の続き〈2023〉

「このままでいいよ」とりさ子が言った。
「このままできるだけの事をして行けば」
りさ子は86才になり、いまではすっかり腰が曲がって、心臓も弱っている。
暮れに転倒して背骨を圧迫骨折してしまった。コルセットを装着しているので、車いすにちょこんと収まって少しは腰が伸びて見える。今日は内科の受診で、名前が呼ばれるのを待っている。

一美は母の故障で頻繁に実家に出入りするようになり、父達夫の家族への態度を聞くたびに腹が立って、日中だけでもいいから、なんとかこの2人を別にしておきたいと思っていた。それでいつも、それとなく介護サービスの利用を勧めていたのだった。
診療所に来ている時間は、りさ子は達夫から離れられる。一美が付き添っているから、ぽつぽつと日頃の辛い気持ちを話す。

達夫も体が自由にならず、肺も悪い。耳も遠くなった。機嫌がいい時はおどけたり、昔の話をして2人で懐かしんでいるが、ちょっと意に添わないことがあると、思い通りにするためにりさ子や、一美の弟の稔を脅かすようなことを言う。極端なことを言って黙らせるのだ。「おれが死ねばいいんだ」とか、除雪や畑仕事などについては「じゃあおれがやる」とか。やって欲しいことがあっても、周りが察してすぐに動かないと、「おれがする」なんて言ってりさ子を困らせる。
絶対にりさ子が止めるという計算ずくだ。

こういう達夫のやり方は昔からずっとりさ子を苦しめてきた。
口に出して頼みたくない。でも思い通りにしたい。言わなくても察してくれ。すぐにやってくれ。
除雪も畑仕事も、買い物も、町内の付き合いも、家の中のこまごまとしたこと、食事や掃除、洗濯ものや、ありとあらゆることを自分の気に入るようにしたい。りさ子や稔に任せていては碌なことにならない、とでもいうように。

今は体が不自由で、一日のほとんどは、茶の間に座っている。そこから「指令」が出るのだ。そして機嫌がいい日は、楽しく冗談を言っては笑わせる。りさ子はそれだけでほっとする。稔は腹立たしいながらも、なんとか機嫌を損ねないようにして話を合わせている。

一美はそういう父を思い、母の抑圧の多い日々を思い、稔の我慢を思い、聞くたびに暗く腹立たしい気持ちになる。
父はこんな人だったのかと、情けなくなる。

「私はもうお父さんには愛想が尽きているからね」
一美の言葉に、りさ子はいつものように何も言わない。
「ご機嫌な時は話を合わせているけど。ほんとに子どもより始末が悪い」
こんなことを言っても母を困らせるだけだとわかっていても、言葉が抑えられない。

「このままでいいよ。このままでできる事をやっていくよ。
お父さんの機嫌さえ損ねなきゃ、大丈夫なんだよ。稔も逆らっても無駄だってわかっているから、表面は言うとおりに動いているしね」
一美は何度も福祉サービスの利用を勧めてきたが、これがその答えなのかと思った。


一美は、母には穏やかな明るい老後を過ごしてほしかった。
達夫と2人なら、気まぐれではあっても、りさ子との生活をもっと大事に過ごしてくれると信じていた。
一美は障害のある長男を家で介護してきたが、昨年、施設で暮らすようになった。いつかそうなったら母とあっちこっちと出かけて楽しい時間を過ごしたいと若い頃は思っていた。

しかし、母と2人で出かけるなんてことは不可能だとわかった。
達夫は帰り時間にうるさいし、なにより自分がないがしろにされていると僻むだろう。自分を外して楽しむなんて面白くないのだ。口に出さなくても腹の中は面白くないのだ。結局それはりさ子や稔への態度に表れる。
だからといって、一美にとって、父まで連れ出すのは荷が重かった。父がいるということの気疲れを思うと、億劫になってしまう。
やがてりさ子が病気がちになり、受診以外で連れ出すことは、困難になってしまった。


診察室に入り、少し動いても息が切れると言うと、血管を広げる貼り薬が出た。血圧が下がって不快になるならすぐやめていいからね、と主治医が言う。「あとほかには、どこか悪い所はない?」
医師に聞かれ、りさ子は「はい、ありません」と答える。
いつも一番言いたいことは言えない。

一美は横から「夜、ちゃんと眠れていないようです」と言った。
医師がはっとした顔をする。「りさ子さん、そうなの?」
「父が、夜中に起き出して新聞を読んだり、洗濯物を始めたり、神棚や仏壇に燈明を上げたり、とても眠ってはいられないようです」
一美は今までに断片的に聞いてきた様子をまとめて、医師にしゃべった。
りさ子は黙っている。
医師は「そうかぁ・・・」と言いながら、カルテに書き込んでいる。
「それじゃ眠れないよねぇ」と看護師が口を開き、「別居がいいな」と冗談ぽく言う。
「ほんと、別居がいいですよね~」一美はすかさず同調した。
「冗談冗談!」と看護師は笑いながらカーテンの向こうへ出て行った。

(冗談じゃない。別居できたらどれだけ救われるか)
一美は本気で言えないのがもどかしかった。
本当に困っていることなのに、なぜ冗談にまぎれさせたのか。
もっと真剣に、訴えることができたはずなのに。
でも、そうしてしまったら、りさ子が追い込まれそうな気がしたのだ。

こういう困りごとはケアマネージャーに相談するように言われるだろう。
それからサービス利用とか、ときどきの家庭訪問などを提案されるかも知れない。それを厭がる達夫はまた不安で不機嫌な人になって、りさ子にも伝染させるだろう。
一美は、りさ子が置いてきぼりになっている気がした。
りさ子のことをまず考えたいのに、その前に達夫のことが問題になる。
こちらのほうは、簡単には対処ができない。
訴えることが苦手なりさ子が、車いすの中で黙っている。

「このままでいいよ。このまま出来る事をしていれば」
りさ子のさっきの言葉が思い出される。
あれこれ考えあわせた末にたどり着いた、りさ子の答え。
家族だけで完結して、終息していこうというのか。
一美はそれを見ているしかないのか?

変化を嫌う父。一つの部屋で、夫婦が朝から晩まで顔を突き合わせている毎日。その日いちにちを、なんとか無事に、穏やかに過ごしたいと願って。
「このままでいい」と言うりさ子に何を提案しても、結局は苦しめるだけなのかも知れない。
今のところ一美は、頻繁に顔を出し、長く関わるようにしていくしかない。

りさ子は今月、コルセットが外れるかも知れないと、楽しみにしている。
達夫は時々りさ子に「あんまりじっとしてばかりだと、コルセットが取れたときに筋肉が弱って動けないぞ。少しは動いた方がいいんだ」という。だから家事をやれということだ。トイレに行くにも息が切れるりさ子にそんな正論を言う達夫を一美は嫌悪した。

もしかしたら入院レベルなのかもしれない。りさ子の様子を見ながら一美は不安になる。しかし、治療はもうない。
今は心臓ががんばれるだけがんばらせている状態といえる。
ある日、起き上がれなくなる。そうなれば終わりが近いだろう。
するとドミノのように達夫が弱る。それだけならいいが、口数は減らないから愚痴を雨アラレと、りさ子や弟にぶつけることは想像に難くない。
何も言わなくなったら、達夫も限界を超えるときだろう。
一美はいろいろと想像しては、人が一生を片付けるのは、なかなか大変だなと思う。


達夫の抱えてきた何か、とにかく自分の満足を最優先したい何か。
あんなにも長男として大事にされて育ったのに、僻みやすいのはなぜか。
凄まじいほどのプライドと意地。意志の強さ。頑固さ。

独身時代、実家にいた頃の一美は父が好きで、尊敬していた。
もの知りで豪快でおもしろくて。正義感が強くて、時々怖くて。
なにより家族を大事にしていると思っていた。
祖父や祖母が留守になると、家族4人の開放的な空気が流れた。
だから年老いてからの、父という像の食い違いが一美には驚きであり幻滅でもあった。
同時に、母はどのくらいこの幻滅を眺めてきたんだろうと、いつも穏やかでふんわりとしているりさ子の心の中を今になって想像した。
それでもりさ子は、どこまでも達夫を悪しざまには言わない。
か弱く見えるりさ子は、達夫のトゲも破れも、どこまでも吸収する。


老いてからも、時おり達夫から聞く昔ばなしは、一美をワクワクさせた。
その達夫がどういう人生を辿って、今の僻みっぽくわがままな、気分屋で家族を困らせる老人になっていったのか。

饒舌な達夫が語らないできたものは何だろう。

親の一生など、簡単に辿れるものではないけれど。
一美はできるところから少しづつ文章にし始めた。



いったん終わります<(_ _)>

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