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高校生に整形を勧める広告の是非

ルッキズムという言葉はすでに一般化していてもう説明の必要はないと思いますが、外見至上主義や外見差別というのが意味として近いと思います。

先日、未成年に美容整形を訴求する広告が話題となり、ルッキズムの助長ではないかなど賛否両論の議論が起こっているのを見ました。


「未成年をそそのかす大人が悪い」「コンプレックス広告は制限すべき」「若い女性は整形なんて必要ない」「自己肯定感を高めたい気持ちは分かる」「好きにやればいい」などさまざまな意見が見られます。

議論が収束していく気配があまりなく、発言者の立場によって意見が異なるようにも見え、多くの人が違和感を抱えつつも着地点を見いだせない難しい問題だと感じました。

なぜそのように難しいのか、ではどうしたらいいのか、未成年の子供を持つ自分も他人事ではないこの問題について、自分なりに考えてみました。


ルッキズムはなくならない


まずルッキズムというものについて、
「誰もルッキズム的な思考から逃れることはできない」
と私は考えます。

そもそもの話ですが、人は本能的に視覚に大きく影響されます。
人間が赤い色に対して興奮するのは、怒って赤らんだ顔や痛みを伴う出血と同じ色だからとも言われ、その感情は意図せず自然に生まれます。

さらに人は五感のうち8割が視覚で占められているので、対人のコミュニケーションにおいても見た目が重要視され、実際に現代のネットには人の容姿に関する情報があふれています。

人によりある程度の差はあっても、ほとんどの人にとって外見や容姿が重要な位置を占めるのは当然だと思います。


また世間に「優れた容姿」という評価基準が先にあってそれに合う人を求めるのではなく、特定の社会で優位とされる人の状態があり、それに合致する見た目が「優れた容姿」として評価されているのだと思います。

狩猟民族なら狩猟が得意そうな体格や表情の人に惹かれ、情報社会の今ならSNSの画面上で映える人が人気になる、ということです。

レヴィ・ストロースの「野生の思考」という本をご存じでしょうか。そこから発想して、欧米人の美の定義、例えばEラインの美しさは欧米社会のものであって違う社会では異なりますし、優劣もないはずと考えます

つまり、見た目で判断する比重が高いという人間の性質から逃れられる人はいないし、どれだけルッキズム的思考を否定しようとも、その人が属する社会には特定の容姿に対する評価の偏りがそれぞれに存在します。


ルッキズムの程度をめぐる問題


そういう意味でルッキズムに関する議論は、あり・なしを問うのではなく、「容姿優遇の程度問題」を決めるのが落としどころではないかと思います。

過度な優遇は不公平なのでその度合いを変えたり、別の基準も採用したほうが公平性が保たれるといった調整が必要で、容姿いじりやいじめのような暴力、また学力試験などに容姿の評価が強く影響してしまう状態はルールを決めて防止しなければいけません。

しかし現在はそういった理性的な対応ではなく、それこそ「何でもOK」から「すべてNG」まで極論が行き交っているように見えます。


その極論のひとつの例として「反ルッキズム」が広がってきていて、「容姿に関する話題も出せない」といった、本能的で自然な反応や評価の存在まで否定する方向へ進みはじめているように思います。

二重まぶたという美が求められている社会では若者がそれを欲しがるのは当然で、それを理屈で止めるのは難しく、そういった社会や人の欲求まで否定するのはさすがに無理があるのではないでしょうか。


ルッキズムに対抗する力をつける


では冒頭に述べた、未成年へ整形を訴求し若者にルッキズムを刷り込むような広告に対してはどうしたらいいでしょうか。

私は、美容整形自体や未成年でも美しくなりたいという欲求は肯定しますが、判断力が未熟な未成年者に必要以上に変身願望をかきたてて売ろうとする広告は規制されるべきだと思います。

ちなみにもう一つ、
「美容整形するなら自分の判断と責任でしないといけない」
と言いたいです。

変わりたい、美しくなりたいという気持ちは分かる、ただし容姿を手術で変えるのはメリットだけでなくリスクも必ずある、だからそれは自分の判断と責任で行わなければいけないということです。


最後に、おそらくどんなにルッキズムに抵抗しても、社会における相対的な「美男美女」という存在はなくならず、彼らへの優遇は形を変えて常に現れるでしょう。

そして残念なことにその真逆、美男美女から遠い存在に対する否定的な感情もなくすことはできないと思います。

容姿に魅了されたり容姿で差別したりするという性質はすべての人が持っていると自覚しながら、それを放し飼いにせず自分自身の責任でコントロールすることが強く求められている。

というのが、少々理想論的ではありますが、今のルッキズムをめぐる議論の着地点としてふさわしいのではないでしょうか。




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