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条理の世界から俯瞰で眺める美しき不条理の樹

ふ‐じょうり 【不条理】

①物事のすじみちが立たないこと。
道理に合わないこと。また、そのさま。

②人生に何の意義も見出せない人間存在の絶望的状況。

本来は〈非論理的な〉〈分別を欠いた〉〈ばかげた〉などを意味する一般的な言葉だが、
フランスの作家A.カミュが『異邦人』『シジフォスの神話』(ともに1942)で、この言葉に独自の哲学的な意味をもたせ、第2次大戦後の世界に広く流通することになった。

コトバンクより引用

自分の中にあったバカボンのイメージでその世界観を眺めているのだと気楽に読み進めていたら、強烈な右ストレートが真正面からその世界を突き破り、その拳にそのまま顔面をぶん殴られたくらいの衝撃だった。


これは今回の公演フライヤービジュアルを目にしてから、別役実著『天才バカボンのパパなのだ』の戯曲を予習も兼ね読み終えた直後、頭の中に湧いたイメージだ。


出演者全員がコメントの中で共通して「難しい作品」と口にしていた事が引っ掛かり、理解力のない身からしたら「これは事前に作品に触れておいた方がいいのでは」と思い、目を通した次第。

フジオプロデザインの可愛さ溢れるビジュアルを目に入れてしまったことで、尚更にパンチの強さを感じた。

正直な話、目を通していなかったら、劇場でポカンとしたままその後の一日を何も考えられずに過ごすことになる気しかしていなかった。
そういう意味では目を通しておいて正解だったのかもしれない(あくまで自分の話になるけど、実際に観劇する前に読んでおいて正解だったと感じた)…クライマックスが全てを持っていってしまって、ほとんど記憶が朧気だけれど。
それと同時に、「令和のこの時代に本当にこの作品を舞台でやるのか…?」というのが、活字で読んだ時点での率直な感想だった。
前述したクライマックスに、ドラマの中などといった特定の状況くらいの、耳にする機会も近年ではそう多くない(個人比)、あるアイテムが突如出てきて、そこを起点に転がっていったラストまでのクレイジー過ぎる展開に完全に面食らってしまったからだ(観劇された方は「ああアレね」となると思う)

ただ、観劇前に観に行った方々の感想を覗いてみると「面白かった」「楽しかった」といった声が並ぶ。
確かに読んでいるだけでもクスッとする場面はあるにはあったけれども…と訝しがりつつ、やっぱりどこか楽しみにしている自分が居た。


先ずは自分自身が作風に少し刺激的で澱みを感じる作品が好きな傾向にあること。
そして、いちファンであるということもあり、「浦井さんがあの本多劇場の舞台に立ち、演劇のお芝居をやる」という事が本当に嬉しかった部分が大きい。
『浦井が一人』という公演で、落語の『しじみ売り』や、一人芝居でもト書きがほとんど無い25分の一人芝居をやり切ってきた方なので勝手に信頼している部分があるし、「この人は、いつかバイプレイヤーとして名を馳せる時が来る」と、そんな戯言を3年前ほどからずっと宣ってきたくらい頭がおかしい人間なので過信と言われてしまってももうどうしょうもない(初日終了後のポストから察するに、おそらく御本人は不安だったであろうと感じている、それはそう)…そして今まで観てきたようなコントやコメディ舞台ではなく、しっかりと演劇作品でのお芝居が観られることが嬉しくて嬉しくて、楽しみで仕方なかった。
今まで観てきたコントとは違う、ちゃんとしたお芝居をやるとどうなるのだろうと、ずっと思っていたしずっと観てみたかった。

そんな念願叶ったり、共演者の方々も好きな方たちばかりで、観ないという選択肢は無いと即決でチケットを取る。閏日という、4年に一度のタイミングで観劇するに至る(気づけば閏日)


署長役・浦井さんと巡査役・佐々木さんの台詞量と熱量、そして掛け合いのテンポ感…あれを全て頭に叩き込むのも、12日間15公演やるのもかなり大変だったろうし、現に大変だろうなとシンプルに思う。

佐々木さんは本編のほとんどを、顔が真っ赤になるほどの温度感で演じられていて、稽古終盤に喉が飛びかけたと話していた事にも納得の熱量だった。本を読みながら、署長と巡査のやりとりはどちらかと言うとフラットなものを想像していたのだが、序盤にしてふたりのやりとりはボルテージが高く、ここから80分弱突っ走っていくことがにわかに信じられなかった。

けどしっかりと突っ走っていた。休みなく毎日これをやってるのすごすぎる。

かみちぃさん演じるバカボンがとても良かった。
個人的にたばこを吸う場面がすごく好きだった、めちゃくちゃ吸い慣れている人のたばこの吸い方。あれ、バカボンって子どm(それはこの世界からしたら野暮ってなもんで)
浦井さん・佐々木さんと比較すると台詞量は少なめだが、とても目を引くお芝居をしていたなぁと感じた。他の舞台作品でもどんなお芝居をするのか、ちょっと観てみたい。

音声データで浅野千鶴さんの声を初めて聴いた時、「ママだ」と思った。
自分の幼い頃に観た記憶の中にあった、バカボンのママだった。だけど別役ワールドのママなので、当然ながら記憶と違うところがある、この世界のママは少し、いやだいぶ温度が高い。華奢なビジュアルとは裏腹にとてもパワフルなママ、市川しんぺーさん演じるパパとの掛け合いも好きだった。

市川しんぺーさんのパパを観た時、どことなく赤塚不二夫のような雰囲気を感じた(本当に観ながら感じた事をそのまま書いているにすぎないので異論は認める)、登場時の姿勢は腰が辛そうと思いつつも、突飛な無邪気さ加減は赤塚バカボンのパパのようにも一瞬見えた気がする(お前ちゃんとバカボン観てないだろ)
川面千晶さん演じるレレレの”おじさん”ではなくレレレの”おばさん”も、歯切れの良さを感じる反面、繊細な側面も持ち合わせていて、キュートな印象だった。けど、言ってる事はまあまあヤバい。

レレレのおばさんに限らずだけど、言ってる事は全員総じてヤバい。

女1役のはるさん、「芝居をしないで(要約)」とご指摘されたとのことで、作中の署長の如く意識をしない事の方が逆に難しそうな気がするのだけど(署長は相手にしちゃう)、それを感じさせずサラリとお芝居をされていて、それも才能なのだろうなと感じた。あのわちゃわちゃした中で「お~い!!」って叫ぶの、大変だ。

女2役の西出結さんは、映画やドラマ化もされた『デンジャラス・ドア』という作品でお芝居を拝見したことがある。その時とは真逆で淡々とした中にとても冷たさを感じる役柄に、なんだかとても格好良さすらも感じていた。
日替わり出演のライス田所さん演じる男と西出さん演じる女2には、その場で起きている光景を、よくあるごく当たり前のものとして見ているというよりは、その事象自体に関心が無いという表現の方がしっくりくるかもしれない。

田所さんのあのサングラスずるい。


終始「なに言ってんだこの人」「違う、そうじゃない」とツッコミたくなってしまう挙動と言葉たちの応酬。
この作品の登場人物たちは、署長の言葉の意図を『汲み取る』という事をせず(もしくは出来ず)、更には倫理観も持ち合わせておらず、それでも自分たちの中で通る理屈はあるように見えた。

自分達が生きていく中で、生きている人の数だけ
其々に其々が小さな常識を抱き、其々のこだわりや理屈が存在する。
それは他人に理解されようがされまいが平等に存在している(と思っている)

物事の道筋は酷いくらいシンプルなのに、私情だったり思い込みだったり、勘違いだったり、思惑だったり…そういっただれかの都合みたいなものが、幾重にも重なり絡み合って縺れに縺れていくことで、段々と複雑になっていく。
なんだか、現代でも感じるようなそんな事をふと思いながら観劇していた。

そして、ラストシーンを観ながら「自分は今、【演劇を観ているんだなぁ】」と感じていた。
テレビドラマではなかなか感じることのない、映画でもあの様な場面や演出を目にする機会はあれど、肌で感じるシュールレアリスム的なあの感覚は、生の舞台でしか感じる事ができないものなのかもしれない。

それに加えて、学生の頃に授業で寺山修司の『書を捨てよ町へ出よう(1971年)』を観た記憶があるのだが、【演劇を観ている】と感じたラストシーンを観ている中で、その作品の面白さを理解できなかった当時の記憶が何故か蘇った。不条理とアングラ、性質は違うものだと思うのだが、それは同じ1970年代の匂いが引っ張り出してきたものなのかも知れない(『天才バカボンのパパなのだ』は1978年)


「完成形がドリフのコントみたいになればいいなと思って演出しています。真ん中にいる人がひどい目にあわされていって、でもそのさまが笑えるものになれば。浦井さんがいかりや長介で、いろいろやられていく」

お笑いナタリー編集部:ゲネプロ&取材会記事より引用

演出の玉田真也さんが取材会でこう話されていた。

幼い頃、テレビで観ていたドリフのコントは「だめだこりゃ」とオチで匙を投げるイメージだ。
署長は振りに振り回され、諦めというよりは無の境地に陥ってしまう。

そんな浦井さんのお芝居に全体を通して「太い木の幹」の様な、そんな空気感を纏っているような、そんなイメージが頭に浮かんだ。そういう意味では長さんなのかもしれない。

浦井さん演じる署長というどっしりとした「木の幹」がそこにあり、物語が進んでいくうちにそこから各キャラクターが登場し、其々の「枝」が伸びていく。そしてラストには華やかで狂気的な「花」が咲き、次第に散り養分を吸い尽くされた「枯れ木」と化す…シームレスに始まった舞台は虚無と静寂に包まれシームレスに終焉を迎え、あっという間に80分が溶けてしまった。
初めて触れた不条理劇というものに、まるで樹木の一生を観ているかのような、そんな感覚を味わっていた。

舞の場面から終演まで、あの状態でまばたきも殆どなく微動だにしなかった署長すごかったな。


出演者全員のファーストインプレッションが「難しい」だった事は戯曲本を読んで同じく感じていたことではあった。それは観劇した後も変わる事はない。こうやって感想を書く間にもすごく頭を抱えている。
そんな中でも、署長が「条理」と仮定すると、巡査やバカボン一家、レレレのおばさんと女1は「不条理」、男1と女2は「無関心」の象徴的存在なのかもしれないなどと、なんとなく振り返る。

そろそろ自分で何を書いているのかが分からなくなってきた。今までになく頭がぐるぐるしている。なのに、観劇を終えた後は何故だか「なんか楽しかった」が最後に残っていた。
観劇後の帰宅途中、電車の中で後から後から、じんわりじんわりと「楽しかったなぁ」が湧いてきて、終いには活字で読んだ時の印象とは180°変わっていた不思議。実になるかならないかは別として、この作品の事を考えるのはなんか楽しいなと、今そんな状態に陥っている。

そして、その「なんか楽しかった」という感覚が何だったのかを確かめたくて、気づけば衝動で千穐楽のチケットを買っていた。

多分、その感覚が何だったのかすらも分からないまま終わっていくのだろうに。それでも、わたしは皆さんが突っ走ってきた1ヶ月とちょっとの終わりを見届ける中で、少しでも自分の中でしっくりくる答えを見つけられるならば、「それでいいのだ」と思う。


最後に全く関係のない話になるのだが、ほぼほぼ同じ時期に公開されていた平井さん出演の短編映画作品集も、取り扱っているテーマは『不条理』だったらしい(追加上映観に行きたい)

2024年前半にして、奇しくもふたりから『不条理』を投げかけられている。

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