恐竜元年:始まりの三日間の物語

15:アトル・アトリウム・エルデス

気がつくと、彼は星の降る空にいて、その都市を見下ろしていた。柔らかな光、家庭の光、そして穴が開いているかのような南の暗闇。この囲われた箱庭が自分が生まれ育った故郷、今では世界で唯一つの都市であり、それこそ父が望み造り上げた「理想郷」なのだと、人は言う。
「なら、どうして?」
父が不可侵とさえ言われたアーシェントを攻める直前、自分は生まれた。勢力が絶頂期ともいえたエルデスは万全の体制でその聖域を攻めたが、勝利を収めるまでには五年の月日と多数の屍を要した。正妃であった母は、その戦争のさなか、何度も同じ夢を見たのだという。
「たくさんの羽を広げた美しい女神が空にいらして、たくさんの光を引き連れているの。その中にひときわ綺麗な光があって、若者の姿をしていたわ。きっと、これは貴方よ」
「僕?」
優しい母はアーシェントの血を引くエルデスの貴族の出で、その薄い茶の髪は光の具合で時々、紅にも見えた。皇帝の正妃として、聡明で公正で気高く柔らかな彼女は民に慕われ、皇帝の正妻の座にふさわしい女性だったと今でも思う。
「……」
見渡す、夜景。切り立つ崖から星のように光毀れる宮殿とそれを囲む貴族達の館。薄暗くなりながら灯りは徐々に減り、闇しか見えない南端。その全ての空間に人々の暮らしがある。
――たくさんの人の……エルデス……
時々、この世界の人間の全てが、ここを目差し、ここへ集まり、ここに生きる場所を求める、という現実を夢物語に感じる。いや、かつては……。
「遠い昔、アーシェントと呼ばれる人々が女神と共にこの大地に降り、人間を作りだし、その人間たちはたくさんの都市を築いたの。私達は、その中の一つ、このエルデスという都市で生まれ育って、生きているのよ」
「僕も?」
微笑む面影。
「そう、あなたも。皆、アーシェントの子孫であり、友であるものなのよ。私たちは人間同士だと判りあおうとできるけれど、竜達や植物達とはできないでしょう? 私たちがこの世界でたくさんの生命たちとずっと仲良くしていくためには、アーシェントの力が必要なの」
「ずっと?」
確かに自分は竜や植物と話すことはできない。それは自分が人間であって、アーシェントではないからなのだ、と理解することはできても、実際のところ母のいうアーシェントというものが良くわからなかった。
「そうね……私たちが変わらなければ、ずっとそうね。だからこそ、アトル、貴方がエルデスの皇帝になったら少しだけでも良いから、変えていってね。人が争わないように。人とこの世界が争わないように……」
暖かく満たされた日々、彼女の願う争うことの無い平和な優しい世界が続く中、エルデスが満を持して勃発させた戦争。少なくなる資源の確保と独占による豊かさを求め、エルデスが生き残るために、祖父と父はその手に剣を取り、竜を従えて各都市を襲い奪い滅ぼした。日々の戦争に心痛める母の傍で、息子はただ鍛錬と勉学を押し付けられつつ、
――くだらない
戦いに明け暮れる父と祖父を静かに見ていた。やがて時が過ぎ、アーシェントが滅びて直後、エルデス皇帝が二代続けざまに没し、国が揺れる。
「確かに継承順はアトル様、クロトン様と続きますが、立て続いた皇帝陛下のご崩御はアーシェントの呪いだと皆が騒いでおります。この事態の中、アトル様のご即位では問題がありませんか?」
機先を制したのはバードル・ダブス。彼の従姉妹と父の間に生まれていた一つ違いの弟と自分との後継者問題は当然のように起きた。本来であれば、正妃を母に持つ嫡室の皇子、長男である皇子が立太子しているはずであったが、それを決める矢先の早すぎる皇帝の崩御であることが混乱に拍車をかけている。
「クロトン様ご即位の折には、ご正妃はシージップ殿の末妹御、アンナトリア姫が良いとの皇子直々のお願いでしてな」
アトル即位を推すヴィクトリアス・シージップも、バードルが薦める皇帝の義兄という地位を手に入れることに依存は無いだろう。そしてロード・奥羽はそれにあわせるように、娘をクロトンへと嫁がせ、その即位を後押しする。
「はてさて……アトル様とクロトン様、エルデスの皇帝としてふさわしいのはどちらか、明確ではありますまいか?」
微かに笑っていたシージップは、最後まで手の内を見せなかった。三権者のうちの二者が推すスワニーネ妃の息子と我が子、二人の皇子を前にして正妃は首を縦に振らず、
「立太子を認める権限は正妃である私にあること。私は皇帝陛下よりエルデスを預かる身です、立太子なく皇帝とするのであれば、成人した者が立つべきと考えます」
その言葉には、確かに年長であるアトルの成人を待つことを含み、決意を覗かせていた。が、このエルデス皇家と貴族達を真っ二つに割った泥沼は皇帝となる者の成人を待つことなく、ほんの数ヶ月であっけなく決着する。突然の正妃の死、頓死によって。
――后妃さまのご逝去もきっとアーシェントの呪いでしてよ、恐ろしいことですこと!
――アトル。皇帝はこのクロトンだ。お前はもう兄でもなんでもないんだからな! この親殺しめ!
そう、あの女と弟の高笑いと共に、母の鼓動は止められた。
(アンナトリア、あの女は自らの欲望のためなら手段を選ばない)
母の死の真実。それを知る自分にはあの宮廷は魑魅魍魎が跋扈する喜劇にしか見えなかった。その中で皇帝として飾られ、我慢を覚えず、節度も知らず、ただ本能のままに生きる愚かな弟。
――ばかばかしい
彼は今、街を見ながら、その先の眩しい頂上の光を見つめながらそう思っている。その嘲笑の棘はそれ以上に深い悲しみと絶望と悔しさに撃たれる心に小さく疼く。
――母は国を思っていた、誰よりも! なのに……
「本当にアーシェントの呪いだとお思いなのですか?」
その茶番、正妃呪殺の首謀者として、かの牢獄から詮議の席に引き出された美しいアーシェントの巫女。
「アーシェントには、呪う力などございません」
長く牢獄に繋がれていたとは思えない、強い意思を抱き、母の色を思わせる紅の姿。三権者と皇帝に囲まれる中、粗末な綾に包まれて後ろ手に捕縛されながらも、怯む事無く彼女はそこに毅然と佇み、気高い瞳で彼らを射抜いて気圧される程の凄味と共にあった。
「アトル様、貴方もまたアーシェントの血を持つもの。真実はご存知でしょう」
末席で独り、呪殺の共犯として親殺しの汚名と共にある自分に投げられた辛辣な言葉。たった一度きりだけ垣間見た彼女は時を重ねても褪せることなく深く強く焼き付いている。
――その通りだ
判っていても、自分は逃れることだけを考えていた。咎を受け入れて流されるままに、その争いの網から抜け出すために、蟄居を承諾して宮殿の外、北西の端に建てられた屋敷にこもり、慣例を無視し、儀礼を外して、自らを演じようとしている彼を、彼女だけが見抜いていたのだ。
――祥子様……
たった一人で戦っていた巫女。宮殿の地下奥深くに閉じ込められている聖なる女神にさらなる悲劇がある事を、どうしてその時まで考えることができなかったのか。
――アトル、あの女は良いぞ。男を知らぬしたり顔で、いざ事となるとなんと乱れることか! 世の子を産むのだぞ!
その宴のさなか、玉座で笑っていたのは愚帝。そう、彼女は無理矢理に蹂躙されて後宮へと堕ちた。
――エルデスは世のものだ。お前じゃない。
彼はどこまでも突き進む。それを操り、奴らはほくそ笑む。
(誰を護ることもできず、誰を信じられるわけもなく……こんな世界で……)
自らの命さえも薄氷の上にある今、ぶつけようの無い空しさと哀しみと怒りは、この美しい星空の上にあっても消えそうにない。
(この世界が許せない)
その許せない世界に、なぜ、まだここにいるのか、なぜ、絶望した自分がまだ生きているのか。
「アトル、貴方がエルデスの王になったら少しだけでも良いから、変えていってね。人が争わないように。人とこの世界が争わないように……」
虚しく繰り返す、母の遺言。
――いや、もう、いい……
閉ざす心。空回りする想い。いつもいつも、まとわりついて変わらない悪夢はここで終わる、はずだった。昨日までは少なくとも、ここで終わっていた。
「だったら、ここへ来るといいわ」
光指すように響く少女の声。その方向は都市のはずれ、深い森から聞こえた。
「貴方を待っているから」
どこか懐かしいような、全く知らない呼び声。その口調は何か、優しい期待に満ちている。
――君は……誰?

 目が覚めた。降り注ぐ光は朝が来ていることを知らせる。宮殿のはずれの片隅のいつもの変わらない朝にして、少し違う朝。
(夢?)
耳に残る、かの少女の声。
「……あの森を……確かに私は知っている……」
呼ばれたのだろうか? 身体を起こした彼はすこし鳥肌を立て、それでも、判っている気がしていた。そう、自分は呼ばれたのだ、あの丘の向こう、あの森に。

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