恐竜元年:始まりの三日間の物語

05:ヴィクトリアス・シージップと華奈と独楽(こま)

エルデスの北は、切り立った崖に掘りぬいて築かれた皇帝の宮殿を囲むように扇状の屋敷群が広がり、石を積み上げた内壁に護られていた。北の崖から吹き降ろす涼しい風は時に焼き尽くすかのような太陽を和らげ、確かにこの囲われた地に住む人々に快適を約束する。その頂上の王宮の真下、天上宮への入り口となる白き門を起点に、太陽へと向かうように整備された通りが五本あり、太陽が頂点となる方位から真っ直ぐに引かれた大通り、昇る東側と沈む西側の最も近い位置と遠い位置、それぞれを刻んで内壁に立つ柱に続いていて、巨大な暦の役割も兼ねていた。もし空を行く者たちにかの文明の記憶があるなら、その形を「日時計」と呼ぶだろう。エルデスではこの柱の真上を太陽が通過する日を季の一区切りとして何らかの行事を行うことが多いのだ。その南の貧民層からかけ離れた栄華の世界、北の暦の地を外側の民たちは「壁向こう」と呼び、内側の者たちはその彼らを「外の者」と蔑む。そんな貴族達が住むこの一角でもひときわ大きなそれは真ん中に並ぶように三つあり、三権者と呼ばれる大貴族、ヴィクトリアス・シージップ、バードル・ダブス、ロード・奥羽が住んでいた。そう、ここには明確な格差社会が存在し、皇帝を頂点としたその社会で、互いに干渉することなく、緊張を隠しながら多くの者たちがその権者や貴族に仕え、庇護され、日々の糧を得て暮らしている。
「独楽(こま)!」
日が落ちて後、希少な灯りの点る屋敷に、明るく透る穏やかな主人の声が響いていた。
「全く、どこへいったのやら……」
呆れたような独り言。
「独楽(こま)!」
再度の声は龍骨と石と木で造られた屋敷内で反響し、不思議な音を伴いながら消えていく。
「先程までおりましたのに……」
その傍らで彼の下女、若く美しい娘も同様に視線を泳がせて目的の男を探していた。
「しょうがないねぇ。お華奈、見つかったら私の部屋へ来るように伝えておくれ」
「はい、お館様」
頭を下げると、その美しい金髪がさらさらと肩から零れ
「お華奈、夜の明かりのお前も一段と綺麗だね。独楽(こま)がうらやましいよ」
恋人の名を告げられて、娘は耳まで赤くなった。それを見てますます主人は面白いのかクスクスと笑いを漏らす。明るく気さくで屈託の無い一面を見せている彼、褐色の肌をもつ老年に手が届こうかという飄々とした彼は、古くからこの都市を護ってきた星見とよばれる種族の末裔で名をヴィクトリアス・シージップと言った。エルデス三権者の一人であり、皇帝から全幅の信頼を得ている宰相であり、現帝の正妃アンナトリアの実兄でもある。
「お館様、お戯れを」
恥ずかしげに目を伏せるのは華奈。先に亡くなったヴィクトリアスの妻が連れてきていた下女で、今も屋敷に勤めている。主が長く可愛がってきた下男の独楽(こま)との許婚が決まり、今はちょうど幸せの絶頂にあるだろう。
「良いねぇ、これからの明るい未来がある若者というのは。幸せそうで何よりだ」
シージップはまぶしそうに目を細めるとイタズラな表情をする。身分差がはっきりしているエルデスでは、主人に仕える者たちは生活の全てが主人の管理下にあり、その振る舞い、心、有り様、人生のすべてを主人の采配によって決められ、それに委ねること、を当然としていた。華奈と独楽(こま)のことも、彼の許可無くしては想いあうことさえも許されない。
「お館様、意地悪はおやめください」
華奈もそんな主人に明るく答える。まるで父娘のようなこんなやりとりも、彼だからできることなのだろう。権力に媚びず、その立場にありながら財を投げ打って幅広い身分の者たちを庇護し雇い入れ、私学校を開き無償で教育してきた彼は都市の多くの者たちに慕われ、三権者の中では最も民衆の支持を得ている。
「悪い悪い。オジサンは退散するとしようか」
お茶目な笑い。そして年には似合わない軽い足取りで廊下を進むと、エルデスで大貴族三家だけに持つことを許された「階段」、裸木で質素だが丈夫に組み上げられたそれを上がる。その先にある屋敷の天窓を通して都市と星空を支配する自らの部屋は簡素で、床に貴重な獣竜の羽毛皮があり、真中に鎮座するのは粗末な椰子の枝と切り出した岩でつくられた机。その机も上も今は亡き妻の遺影の彫り物と、高さの順序に揃えて並べ立てかけられたいくつかの皮の綴本、角を揃えてまとめられている希少な漉き紙の束があるだけで彼の几帳面さをそのままにかなり整理されていた。
「さて……」
何を思うのか。その部屋の主は窓から穏やかな沈み行く紺紫の中にある都市、自分の愛する故郷を見下ろし、表情が曇る。
(どうしたものかな……)
長く仕えている下男、独楽(こま)は亡き妻から預かった子供でその出生はよく判っていない。妻へのこともあって手塩にかけて育て、学は弱いものの、恐竜狩りと自分の護衛を主とする優れた下男として成長し、実際に重用している。だが、街へ出るようになってから、数年前ほどから南のよくない輩と付き合いがあるようだ。ただでさえあの地域は皇帝に従わぬ者やならず者がたむろし、決して良い場所とは言えない。その中には、あの容赦ならないロード・奥羽の間者、バードル・ダブスの傭兵も間違いなくいるだろう。どういうことなのか、どのような腹積もりなのかは本人に問いただせばはっきりとするであろうが、まだその時ではないと目こぼししている矢先に、そこにはもっと危険な種が撒かれ、まさに根を下ろそうとしている……。
「お館様、お呼びでしょうか?」
思考をさえぎったその声は確かに独楽(こま)のものだった。彼は部屋に入るとかしこまり、その膝をつく。荒々しい炎の性格の男も、主人の前ではおとなしい。
「ああ、独楽(こま)、おかえり。友人達とは楽しかったかい?」
さりげなく言葉を心臓に突き立てる。
「……」
用向きに答えられない独楽(こま)を、主人はどう思ったのか
「何をコソコソとしているのやら……。この都市は広いようでとても狭いのだよ。自然と君の行動も見られているのだから、気をつけないとね」
あくまでも静か。
「お館様、……それは……」
縮こまるように、彼は動かない。
「君には可哀相だが、おのずと知れてしまってね。あの友人……スグリム、と言ったかな? この都市には危険な存在であることは判っているね?」
南の無頼漢、都市でも名の知れた賞金首が危険な力を手にしたことは、昨日の星詠から明らかだった。
――――かの森の者によって、門の外から争いの種が蒔かれる
長く保たれてきていた均衡、アーシェント亡き後の平和の均衡を破る凶兆と言って間違いない。今までの多くのこと、その経験と知識と知る限りの情報から導き出した答えに、彼は強い確信を持っていた。
「その彼に起きたこと、私には判っているのだが、お前はそれをどう思う?」
「彼は、彼の良かれと思う道を求めております」
その言葉に、主は失笑した。
「果たして? あの者がどれだけの悪漢かお前も知らぬわけではあるまいに」
答えられないのだろう、下男は両手を下腹にあて、片膝をついて深く頭を下げ、心からの謝罪と服従を示した。主への最敬意である態度を見
「……まぁ、それは、お前を街に出して自由にさせている私の監督不行き届きでもあるから……」
小さな溜息交じりに左手を背に回し、右手で顎を撫でる。困っている態度のようで、実は非常に憤慨している時の主の仕草の一つでもあることは、長く仕えている独楽(こま)には判っていた。
「ただ今回はちょっと、さすがに目こぼしというわけにも行かなくてね。私の星見では……本来あるべきでないところに、あってはならないものがもたらされた、そうだね?」
主に隠し事は許されない。それは幼い頃から骨の髄まで叩き込まれてきた下男の掟。
「それが凶兆である以上、黙っておれんのだ。判るね? 竜子(りこ)の象具はおもちゃでは無いよ。あの不思議な少女が何を考えているのかは判らないが、どのようにしてあれを手に入れたのか……」
エルデスのはずれ、恐竜と共に深い森に棲む少女、少女かどうかさえ本当のところは判らないが、その子供をシージップは「竜の子」を縮めて「竜子(りこ)」と呼んでいた。決して触れることも言葉を交わすこともできない不思議な存在である彼女が人間でないことは明らかではあるが、今その手には、かつて世界を支配した力がある。それゆえに「彼女に触れる人間は正気を保つことができず狂死する、恐ろしい不可侵の存在である」と人々に流布し、守ってきた。だが、その力の象徴である「象具」が彼女の手を離れた。このエルデスにおいて自分だけが恐らく気づいているだろう、あの子供の存在意義、力の存在に言葉が重くなる。
「あの男がこれ以上、都市にとって危険になってしまうのは、お前も心苦しいだろうに」
心そこにあらずな言葉。
「それは……」
目の前の下男に、その事の大きさは理解できていないだろう、と主人は一歩近づき、
「独楽(こま)、その者の象具、竜子(りこ)に返せ。抵抗するようなら、その命を絶ってでも彼女に返すのだ。良いね?」
真剣な声と目は、独楽(こま)に反論を許さなかった。
「はい」
無理に発しているだろう言葉。不服であることが全身から溢れている。主とその者は彼の中で天秤にかけるほどの事らしいと気づくと、
「判ったな?」
念を押す。独楽(こま)は意を決したのか
「……お館様」
「何だ?」
「一つ、お教えください」
強い口調。思わず視線で承諾し、続きを促す。
「……その子、竜子(りこ)とは……何者なのです?」
当然の疑問なのだろう。あの子供を知る者さえも少ない今では。
「この世界を、エルデスを護るために必要な子だ。決して汚す事も、手を触れることも許されない、大切な子供だ」
静かに、できるだけの言葉を選んだが、当の下男は不思議そうに顔を上げる。
「本当の意味で気づいているのは、私だけだろうけれどもね。……独楽(こま)、お前はアーシェントのことをどれほど知っている?」
不意に訪ねられ、相手は少し考えてから
「今はもういない、昔にあった人たち、だと聞いています。人を呪い狂わせる恐ろしい力を持つ人たちだと」
言葉を選ぶように答えたが、相手はさらなる答えを求めているらしい顔。促され、
「その恐ろしい力でこの世界を支配していたのを、昔の皇帝が倒して、その支配から私たちを解放した……」
文字の読み書きや算術を学ぶように、エルデスの歴史を学ぶ時に必ず覚えるだろう語句を繰り返し、それを聞いて主人は静かに頷いていた。
「そう、アーシェントは国であり人であった。かつてこの世界にあって、要でもあった。あの子はアーシェントではないがその縁をもつ子だよ。アーシェントが野にあれば、まだ自由にある『純血の』アーシェントがこの世界に残っていてくれれば、また話は違ったのだろうが……」
(最後のアーシェントは後宮に閉じ込められて皇帝の慰み者だ)
ふと北の天窓の遠く、光あふれる小窓が並ぶ宮殿を思わず見つめる。今の皇帝では、という言葉を呑み
「独楽(こま)、私達は追い詰められているのだよ。それも、もはや、逃れる術の無い所まで。我らはね、大切な存在、この世界を護ってくれていた大切な存在を自ら手折って滅ぼしてしまった。だが、だからこそ私はこのか弱い者たちを彼らの代わりに護りたい。自分で自分を傷つけて追い詰めた哀しい私たち人間に、まだ希望があると信じたいのだ。そのためにも、しかるべき時が来た時の為にも、今は禍を呼び込むような事はしてはならない」
守らねばならない。都市も人も。それが自分の使命なのだ、と自分に言い聞かせ、
「支配する立場の者は、支配される全ての者の責任を負う。そのために、私はお前に命じるのだ……必ず果たせ」
再び下男を見ると、彼もまた何かを決意したような表情をしている。
「お行き。お前とて友と戦うのだ、心構えも有ろう。暇をやるから、しばらく街に降りていなさい」
それは、遠回しではあるが彼の大切な恋人との別離を示唆するようなもの。本来であれば、二人には確かに幸せでいて欲しい、が。
「かの力が彼女に戻るまで、この屋敷に足を踏み入れることは許さない。判っているだろうけれど、私に隠し事は不可能だから。事を成したかどうか、自然と私には判るのだからね」
体の良い人質かな、と心は苦笑する。
「華奈は……」
「お前は本当に許されない事に足を踏み入れていたのだよ。本来なら相応の処罰をするつもりだった」
一刀両断。相手は少し身を堅くする。その処罰、の意味が己の命をもってなさねばならない程のものだということを思知ったのだろう。
「だがね、お前の話をする時のお華奈を見ていると、それをためらってしまうんだよ。あの美しい笑顔を失わせる訳にはいかないと思ってしまう」
その通りだった。独楽(こま)にとって大切な彼女は、自分にとっても大切なのだ。妻亡き後もこの家に残り、働き者で美しい下女はそのまま捨て置くには勿体無いほどの娘。主人としての気持ちと、父親のような気持ちが入り混じり、目の前の下男にはどうしてもつらく厳しく当たってしまう。
「こんな言い方はしたくないが、無事に戻ってきたら祝言を挙げると良い。この屋敷で二人が暮らしていくに十分な事を私からさせてもらうつもりでいるから。お華奈にはお前に大切な任務を任せたと言っておく」
けれど、彼女の悲しむ顔は見たくない。ふとあった視線に、主人の精一杯の選択肢を嗅ぎ取った下男の尊敬が混じる。
「……賜りました。より良き道へ向けて、これより参ります」
独楽(こま)が深く頭を下げ、
「頼んだよ。これは、この世界のため、とても大切で、重要なことなのだからね」
自分の表情がどれだけ硬いものなのか、シージップには良くわかっていた。だが、その賭けを降りるわけには行かない。アーシェントが失われた今、では。

「独楽(こま)!」
主人に呼ばれた彼が心配だったのだろう。華奈は主人の部屋から降りてすぐの廊下に控えていた。
「華奈」
申し訳なさげにあげた顔に
「……何か、良くないこと?」
悟ったらしい彼女の表情も曇る。
「いや」
似合わないほどに穏やかに独楽(こま)は頭を振り、
「大丈夫だ。心配するな」
と言っても無理だよなぁ、と自然と甘えたような瞳。華奈はそんな彼に走り寄るようにして困る手を握り
「お館様、何か怒っておいでだったの……。だから、私……」
さすがに良い勘をしている。長く仕えているだけのことがあるのか、華奈は主人の心の内を見透かす行動が多く、それゆえにまたシージップの信頼も厚いのだ。
「ああ、怒られた」
笑うようにごまかす。が、
「まぁ……」
冗談でしょ?と優しい笑み。二人は自然と廊下を歩き出し、家畜竜の脂を燃やす灯篭の仄かな灯りがジジと低い音をたて、二つの影を作り出しながら追う。
「……華奈」
なぁに?と彼女は無防備な返事。
「俺はしばらく、屋敷を離れる」
沈黙。通りぬけた廊下の先、よく二人が語らっていた庭の片隅の木陰。生い茂る歯朶葉(シダ)の若い香りと濃色棕櫚の巨木の葉陰に囲まれたとても静かな逢瀬の舞台は、半月の下の薄明かりに隠れている。
「……そう、なの?」
太い鱗に覆われた幹にもたれるようにして、二人は寄り添い
「……ああ」
握ったままの小さな手。すぐ傍にある恋人と知り合ったのは、スグリムや六郎佐に出会う前、屋敷を出たこともなく、この庭と屋敷が彼の全ての世界だった頃。庭の常緑に囲まれていた華奈は、流れる金色の髪も、整った顔立ちも、細く小さく儚げ姿も、全てが遠い世界の女神のようで、独楽(こま)には遠い憧れの存在だった。まさか、ここで、ここまで、心開いてお互いに想い合える時が来るなんて思ってもいなかった程に。
「華奈、俺は、お前に幸せになってほしい」
遠く重い言葉。今こうして向かいあう彼女はその時から全く変わらない。息が聞こえるほどの沈黙に、名も知らぬ虫達の配偶者を求める恋歌が高く低く、さまざま音色で飾られていく。
「独楽(こま)が私を幸せにするのでしょう?」
柔らかく返す、彼女。真っ直ぐに見つめてくる金色の瞳に戸惑う自分が映る。思わず伸ばす両手。腕の中に引き寄せる暖かく嫋やかな、大切な、華奈。
「華奈! ごめん!」
戻ってくる、という言葉が言えなかった。こんな時、気の利いた嘘の一つでも言えたなら、どれだけ彼女を悲しませずに済むのだろう。そんな贖罪がますます力を強め、ただ、ただ抱きしめたまま
「華奈……」
繰り返す、名前。
「独楽(こま)」
彼の不器用さを、彼女は良く判っていた。ただひたすらに真っ直ぐで、荒々しい気性に眠る優しさも激しい熱さも。
「独楽(こま)、大丈夫よ。……私を幸せにできるのは、貴方だけなんだから」
その耳元に届く、囁くような彼女の声。
「大丈夫」
愛しい声。震える逞しい背中をぽんぽんと母のように撫でる小さな手。ほんのすこしの間の、会話。ざわざわと葉が揺れ、虫達が歌い、夜闇は一層色を濃くして降り積もっていた。

Next>>

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?