恐竜元年:始まりの三日間の物語
01:アーシェント・タツマとシン・ユェズ
荒野。天を覆う蒼穹と中央に鎮座する陽に焼かれ、土の匂いが広がるその灰色の大地は固く、緩やかな乾いた風が、所々にほっそりと痩せた無防備な下草を揺らす。乾期の只中の今、川があっただろう緩やかな流れの後は道になり、草原であっただろう平原は土に覆われて、岩というには小さく、石と呼ぶには大きな塊がぽつぽつと横たわる。そしてその先にある地平線、そこには確かに街の輪郭が黒く滲むように浮かんでいた。
「あれが、エルデス?」
目指していたその街の影を遠く見渡せる位置で、手綱に獣竜と呼ばれている、この世界ではごくありふれた四足の短い羽毛に包まれた大きな生き物、を引き連れた2人の若者が足を止め、旅の終わりを感じていた。佇む一人は体格が良く優しさが自然と覗く漆黒の瞳をした印象深い顔立ちの青年、陽に焼けた細い腕を真っ直ぐに伸ばしてその影を指さすもう一人は、同い年のようだが逆に華奢な体つきをして黒い髪を短く刈り込んでいる。どちらも乾いた砂埃にまみれていて、長旅をしてきたのだろう、それぞれが後ろに連れている頑丈な麻編作りの轡や鐙にかなりの傷みが見て取れた。
「ああ、そうですね、昔、父に聞いたことがあります。エルデスは村の何倍にもなる大きさで、《暴君》(レックス)の攻撃にもびくともしない壁に守られている、と」
どこかその「父」を懐かしむような口調で、華奢な方――少し高い声をしている若者が連れに答え、
「そうか……。ユェズ、ついに辿り着いたね」
「はい、皇子」
即座にこう呼ばれて、体格の良い方――束ねた紅い髪を肩に垂らす青年は苦笑する。
「皇子はやめよう。タツマでいいよ、ユェズ」
自分の名前を口にすると、自身に言い聞かせるように
「……うん、そうだな、タツマ、これで行こう。それから、その言葉遣いも。これからは、主従関係は無しだ」
繰り返した。対する方、ユェズ、と呼ばれた方はちょっと困っているらしい、苦慮するように視線を逸らし、簡単に返事をしなかった。が、そんな二人の間を、フゥーッっと風のような息が抜けてゆく。その主である竜はそれに同意したいらしいのか、それとも甘えているのか主人の肩に鼻面を押し付け、独特な枯れ草混じりの、皮と羽毛の香りが満ちて来る。
――シュジュウカンケイッテ ナァニ? ナニカ ナクナッタノ?
(人間達だけの話さ。なんでもないよ。何も変わらないから)
――ソウ。ニンゲンッテ ヘンナノ。ナニモナイモノヲ、ナクナッタナンテ。ナニモ ナイノニネ
(そうだね、君の言う通りだ。)
無邪気な彼らに苦笑が止まらないタツマの大きな伸びやかな手が、ポンポン、と優しく自分の竜のしっとりとした鼻づらを叩く。彼らの連れる竜は獣竜の一種、アミキスシムス。大柄な方であるタツマの背よりもさらに少し大きく、全身には斑混じりの褐色の密集した羽毛があって毛皮に見える。どっしりとした背と均整の取れた丈夫な四肢は乗用や使役に向き、群を好む従順で温和な性質が後押しして、様々な用途の家畜竜として広く使われている。
(もうすぐ、旅が終わるよ。わかってるだろうけど)
――ウン。ワカッテル。ニンゲンノ ニオイガ タクサンスルモノ。
竜はその分厚い皮膚を通して感じる主の愛情に応え、満足げに小さくフンフンと太く揺るやかな首を上下に頷き、硬い皮膚が下半分だけ露出した、首と同じ長さの太い尾を楽しそうに左右に振る。だがこの竜とタツマのやり取りは、もう一人の人間ユェズに聞こえてはいない。この世界で「竜と話すことができる」のは僅かな残された人々だけであり、タツマはその一人。
「しかし……」
自らの沈黙に耐えられない、といった様相で割り込んでくるユェズの声。
「しかし、それは畏れ多い事でございます、皇子。古き血筋の、それも世継ぎの君にそのような……」
と、ユェズは答える。先程のタツマと竜のやり取りの時間、その僅かな沈黙はユェズにとっては自らの答えを探るための時間でしかない。
「もう、アーシェントは無いよ、ユェズ」
穏やかな口調にあわない、少し厳しい視線。
「それは……っ」
思わず出た口応えにハッとして止まる。タツマはそのアーシェント、かつてこの世界にあった国の皇子にして、自分の主である、ということは判っていても、その本人からの否定に反応せずにいられなかったのだろう。黙ったまま、小さな、謝罪と緊張を伴う呼吸。
「私はただのタツマだよ」
相手は諭すように繰り返すと、ふと表情を崩し
「もう、皇子はなしだよ、……いいね?」
笑う顔。この太陽の表情にはどの家臣も勝てなかった。もちろん、今、目の前にいる乳兄弟もまた同じように彼には敵わない。
「……わかりまし」といいかけて「わかったよ。タツマ」
すこしぎこちなく、ユェズは答えた。その言葉に満足したのか、皇子、いやタツマは獣竜の首を抱き
「お前もだよ!」
明るい声。そんな主人が愛しいのか、
――キミ スキ ダイスキ。
竜も喉の奥で静かに甘えたような低い響きが鈴のようにグルクルと鳴り、柔らかい短羽が頬に触れる。
「さぁ、もう少しだ。後ちょっと、頑張ろうな」
ワカッタ、と獣竜はもう一度大きな鼻息を一つして、
――ダカラ、イカセテ。
ふと、誰に告げたのかその首を振り向くように遠くへもたげる。
「?」
その主人の竜の動きにつられ、ユェズも、つと、その視線の先を自然に追うと
「タツマ、人だ」
言い慣れないその名を呼んで腕をそっと引き、
「? こんなところに?」
2人が見上げるその先、娘というにはまだ少し幼い少女が岩の上にあって確かにこっちを見ていた。空に同化するような長い蒼い髪がなびき、まとう空気は今までの出会った誰とも明らかに違う。
「……子供?」
とたん、岩が動いた。彼女が乗る岩は、岩、ではなかった。頭をもたげたのだろう、天を見据える角が目上に二本、鼻頭に一本。土色のずんぐりとした躯体の巨大な角竜、森の色彩をもつ襟で首を護り、人が畏敬を持ってその名を呼ぶ角竜、《三本角》(トリケラトプス)。
(竜!)
これほどのまでの大きさの、岩と見紛う巨大な角竜をみるのは初めてだった。一瞬身構える二人だが、意に介さないのか、角竜は動く気配がなかった。それに護られるようにある少女、改めて彼女を見たその時、視線があった瞬間、タツマはその紅い瞳に吸い込まれ、
(何?)
耳に静かな轟音が伝わり、厚着の下の肌にじわりと汗がにじむ。
(?)
目を閉じているのか開いているのかさえ判らないほどの暗転した空間が広がると
「アーシェントよ、その盟約を忘れるな。その門をくぐるなら、それも構わぬ。だが、盟約はたがえてはならぬ、我らはそれを願うまで」
聞き覚えの無い声、一つではない合唱ともいえるだろう声が心臓に響き、動悸が唸るように全身をめぐる。
(盟約?)
「アーシェントよ、忘れるな」
目の前に浮かぶのは、あの少女。彼女はすぐ間近で瞳を覗くかのように自分の顔を小さな手で捉えている、が、その手は冷たく、雨、霧、雪、氷、今までに触れてきたいくつかのそれら以上に冷えていく。
(盟約とは何のことだ?)
言いながら、彼女が繰り返す言葉、盟約という響きに震える。彼の問いに少女は微かに笑うと遠ざかり、その影と入れ替わるように目の前の光る闇に一つの小さな丸い宝石が浮かび、紅く、蒼く何度か点滅をしながら近づいてくる。
(星?)
なぜか、理解できていた。今、掌の中で踊る蛍火は幾千もの、いや幾万幾億幾兆ともいえるだろう生命が輝いて塊となったものだと。そして、その光の塊に、遠くから迫り来る鋭く細い光の矢が視界の端にあるのが判る。
「盟約ある限り、お前達の未来は約束されよう。それがいかなるものであろうとも」
何かを答えようとして、喉が渇き、言葉が詰まる。そんな戸惑う彼をあざ笑うかのように一瞬で矢は星を貫き、星はいくつかの光の粒を残して一瞬で消え果てて、
「決して盟約をたがえぬことだ。遥かなる最初にして最後の末裔よ」
静寂がこだました。
(だから、一体……!)
――……ツマ!
「タツマ!」
何か冒涜ともいえるような言葉を叫ぼうとした彼に届いたユェズの声。現実が目覚め、タツマはゆっくりと振り返る。もうそこは暗闇でなく、遠く地平線が見える荒野、ちぎれ雲を従える青空、頬を薙いでいく乾季の風、大地の先でくっきりと異質に浮かぶ街の輪郭。
(あの子は?)
タツマが再び少女を見、そこにあっただろう姿を探すと、ガサリともドスンとも、連続した重い音を混ぜて響かせながら大きな背が彼女を乗せて深き森へと戻っていく。丘の稜線に見え隠れする影は、もはや遠い。
「ああ、すまない。ちょっと見とれてた」
誤魔化すようにおどけると、
「確かに、綺麗な子でしたね」
ユェズも合わせる。が、ちょっと嫌味が入った口調。
「都市の子かな?」
尋ねておいて、違う、と本心は思っていた。あの子供は、違う。
「……でしょうね」
ユェズが呆息混じりに返すと「行きましょう」と栗色の瞳で訴える。この彼の表情をされると、タツマは逆らおうという気になれない。彼にとっては、最も苦手なもののひとつと言っても良い。
「陽があるうちに街に入った方がよさそうかな?」
逃げるようにがっしりした肩が上がり、
「そうですね。この辺りには飢えた《狩人》(ラプトル)の群れがあるようです。夜になったら確実に彼らの餌食ですよ。御免こうむりましょう」
真面目なユェズはそっと風に囁かれているかのような、だが固い表情で答えた。《狩人》(ラプトル)、人よりも大きく、群れて狩りをする華やかな色彩と凶暴な鉤爪の獣脚竜の姿をその脳裏に思い描いているのだろう。
「とにかく、街に急ぎましょう。この辺りはかなり危険です」
「よし、行こう!」
対するタツマは彼らしい快活な言葉。
(あの子のことは……今はまだ言うほどのことでもない、多分)
その裏で少し迷うが、振り払って元気良く獣竜の背に飛び乗り、鐙を蹴る。長き旅の友はその動きに即座に反応するとその大きな四肢をゆったりと、だが心なしか速く駆け出した。大地が揺れ、その足跡は静かに確実に、この世界の最後の都市エルデスへと真っ直ぐに規則正しい弧を描きながら伸びていき、流れを見守る地平線が今は亡き故郷への戻れない旅路を映し続けていた。
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