恐竜元年:始まりの三日間の物語

14:タツマとユェズ

――誰?
薄明かりの中、誰かが自分を呼んだ気がする。タツマはふと目が覚め、顔を上げた。市から帰って皆と夕食を取って湯浴みを終え、ほっとしたのだろうか、背の低い文机に突っ伏したまま寝てしまったらしい。肩に羽毛布が掛かっていたところを見ると、ユェズが気遣ってくれたようだ。
「……ユェズ、いるかい?」
返事が無い。闇に慣れた目で見回す、今はもう日常となった部屋。色々と買い揃えたとはいえ、それでも質素で、無垢な壁には明日から身につける衣服、朝引き取ってきた竜の皮を繋いだ出来立ての奴僕の作業着が二振りかかっている。
(独り、か……)
どこか孤独な影を持つ乳兄弟は時々ふらりといなくなるので、そう驚きはしない。だが、今日はいつもと違う感情が襲ってくる。慣れていたはずの事に対して、恐怖心を覚えた自分に戸惑いながら身体を起こし、すっかり夜になっている木窓を開けて立てかけ、北から吹く、今日歩いてきた通りを抜けて来る涼しい風を吸い込んだ。
「向こうが、宮廷なのか……」
通りに面した窓辺から見える、薄暗い家並みと、遠くの高台の輝きの雫。迷うようにめぐる視線が呼ばれるように、ふと、もう一度空を見、
――やはり、誰か、見ている?
何かと視線があった気がする。が、それはもう、今は捨てると決めたはずの力のなす事なのだと、振り払うように溜息。
「……姉上は……お元気なのだろうか」
今日、さりげなく後宮にいる姉、アーシェントの姫の消息を聞いた。強い力を持つ彼女を恐れた先のエルデス皇帝が宮廷の奥深くに幽閉し、それを恨んで皇家を呪詛したが、今の皇帝がその徳をもって調伏し、改心した姫は後宮に入り皇子を産んだのだと言う。
――――アーシェントに、呪う力などないのに
人は未知と未見を最大と恐怖とする、自らに無いものを持つ者に憎悪を抱く。姉のことは、その感情が生み出した物語のようなものだろう。
「……どんな方なんだろう」
アーシェントが攻められた時、祥子は七歳、タツマは一歳にもならなかった。その姿も声も全く記憶には無いが、恐らくは純粋なアーシェントの姿、自分と同じ髪の色、瞳の色、そして何よりも互いに強く惹きあう力があるはず。それさえも感じない今、姉は力を失っており、その状況はやはり絶望的な未来を示すしかないのだろうか。
(確かに……このまま自分がアーシェントである必要はどこにも……)
昨日今日と知った、都市の日常。人々の暮らしとそれぞれの思惑。正直、ここにアーシェントの居場所があるとは到底思えない、むしろ、アーシェントがいるべき場所ではない、心からそう思う。「人」でなくては、この地で、この世界で生きていくことは難しい、そう判断した自分は間違ってはいなかった。だがその一方で、タツマ自身が、自らがアーシェントであり続けること、を大ユェズから強く言い聞かされてきていた。この世界の希望なのだ、と。遠い昔から、アーシェントはあらゆる生命との間に子を残し、その末裔たちが多くの世界で生きてきた。その中でも人間という存在は、アーシェントの姿を持ちながら力を持たず、心の均衡を保つことのできない、進化という名だけの退化した種族。彼らが増え、あふれ、互いを殺し合うまでに至った今、残された純粋なアーシェント、その世継ぎである自分がその人間と交わり、これ以上この世界からアーシェントの力を失うことはあってはならない、と。
(それが……盟約……)
あの時の少女の言葉。
――盟約ある限り、お前達の未来は約束されよう。それがいかなるものであろうとも
姉が「人」となった今、確かに、残るアーシェントは自分とその皇子だけ。ユェズもアーシェント直系に生まれたが、不思議なことに全く力がなく、姿までもがアーシェントらしくない。異端の子、と影で呼ばれ、そのことは本人の心にも深く根付いている。実際、ユェズという存在自身がアーシェントの終焉を意味するのだとかつて大ユェズが自分に告げたこともあった。もちろんこの事はユェズ本人には決して言えないことなのだが。
――アーシェントはもう……
幼いエルデスの皇子はタツマの甥にあたり、アーシェントの血を引く大切な存在となる。しかし、最後のアーシェントの女性である姉の力と心を簡単に手折ってしまうこの世界で、はたして自分は本当に人としての未来を見つけられるのだろうか。その幼い子は、どんな生涯を……。ふと単純な疑問が湧き出でて、タツマはそっと独り微笑んだ。
「私は……タツマなんだろうか。それとも……」
――アーシェントの将来を憂いている皇子なのだろうか?
「ご本人はどうありたいとお思いなのですか?」
声はユェズだった。湯浴みを終えて戻ってきたらしく、黒く短かな濡髪の艶が月明かりに浮かび、少しほてったかのように頬が赤い。改めて見ると、本当にアーシェントらしくない姿で、華奢な体つきをしている一人の人間の青年にしか見えない。その細い線に蒔(まき)が「女の子みたいだ」と指摘する気持ちも判らなくもなかった。
「ユェズ、おかえり。いつの間に出ていたの?」
「うたた寝しておいででしたので、声を掛けませんでした。すいません」
素直に頭を下げる。
「いや、いいんだよ。いつもお前は独りで行ってしまうから慣れてるけれどね」
その口調は自然にかつての皇子のもの。
「……皇子。これからどうなさいます。このまま、ショウ・韻の部下として、竜使いの下僕として一生を終えるおつもりなのですか?」
返すユェズの言葉もまた、侍従のもの。
「ああ、そうかもしれない」
ふと、遠い視線。
「実際には……判らないがね。嫌かい?」
「まだ、覚悟がありません」
覚悟? と尋ねたタツマに、相手はゆったりと口を開く。
「奴僕として働くことは、それこそ……どんな屈辱や侮辱が待っているのか……」
視線を外したユェズの気持ちが、タツマは理解できた。最初にエルデスに入ったときの兵達の嘲笑と、その時に見たユェズの表情は確かに、強い覚悟を持ってこれからも耐え忍ばねばならないと教える。だがそれ以上に、タツマの中に生まれていた想いは哀しく、そして強い。
「私は……タツマでありたいんだ」
「皇子!」
「アーシェントであることは、同時に人では無いと言う事だろう? 大君の話を借りれば、『アーシェントは全ての生命に対して平等であり、媒体であり、導き、見護り、その生涯を終えなければならない』」
詠うような言葉にふと吹き込む微かな風。タツマは少し耳を傾けてから続ける。
「今日、街へ出たときにね、韻様、蒔(まき)や棗(なつ)さん、ここの皆、市の人たち、出会って良かったと思った。そしてこの感情が、アーシェントには許されないと言う事も、わかった。これが、人としての枷、なんだと、今日初めて理解したよ」
「枷、ですか?」
ユェズは少し驚いて相手を見る。
「君は私がエルデスに行くことを反対してた、理由は判ってるつもりだし、その通りだとも思う。エルデスの近く、あの丘に来たときも、心のどこかで迷っていたのも事実だ」
「……皇子……」
「でも、不思議なのだけれど、あそこであの蒼い子に会って、私はアーシェントでなくタツマとして生きることを選んだような気がするんだ、人として生きる道があるはずだ、と」
あの時に見た一粒の宝石と心に響いていた叫び、貫いた光の矢が何を示すのかは判らなかったが、とても愛しく、大切な事なのだろうと本能が理解している。だがその想いが、タツマが人でありたいと思うたびに悲鳴を上げて血を流す。
「……何を見たんです。あの子供に」
痛むような傷は、もう一度眠る街角を見ることで不思議と収まっていた。今まで気づくことのなかった願いが、今ようやく形と色を見せ始めたのだろう。
「改めて考えてみると……ユェズ……」
いつもの屈託の無い笑顔でタツマは少し近づいてじっと相手を見つめた。
「君が好きだよ」
ユェズは少し後ずさりすると、
「え、……それは……」
「エルデスの人達も好きだ!」
相手の反応も眼中になく、無邪気に皇子は被せて続ける。
「自分の生きている今を、全部が大好きだよ、私は!」
が、すぐに言葉を落とし
「この思いが、……人の枷、なんだ。アーシェントが恐れる、枷だ」
その時、風が確かに何かを囁いた。受けたタツマは静かにまた空、星空を見る。人の枷を知ることは、同時に人への無防備を呼ぶ。開いた心には様々な人の心、生命の声が次々と流れ込んでくるだろう。それはまさしくアーシェントにとって自身を切り刻む刃にして纏わり付く毒。それを朝に実感し、身体で理解して、それがきっと自分の背中を押したのだ。
「けれど私は……タツマは、この枷を望んだんだ」
語りかける夜空。ユェズがただ静かに傍らのタツマを見たが、その横顔は確かに王のものだった。
「私は、アーシェントでは無く、人としての一生を歩んでいきたいと思う。それが盟約を違えるというのであれば、それはいつの日か私でなくとも誰かがなすだろう事。私は、人が好きだ、この世界が好きだ。だから、私は、人も、竜も、この世界にある生命全てを好きでいたい、信じたいと思うんだ」
(この空のような闇に、何も見出せないとしても。やりたいことを、やれるだけ、やって生きたい。決めるのは、自分だ)
「明日になれば……もう、アーシェントは……無い」
姉という巫女が失われた今、最後のアーシェントの望みはもはや、ない。
(盟約を、たがえてしまうのかもしれないけれど……)
窓から囁くものと同じ優しい手がゆっくりとタツマの心の涙を払う。
「皇……いえ、タツマ」
ユェズにその叫びが聞こえたのか。
「どんな時に、どんな立場でどんな生き方をしようとも、あなたがあなたである限り、これからも……シン・ユェズは、生まれた時より、あなたの友であり、『しもべ』です」
「ユェズ……」
その彼の表情、切ないまでに悲しげな顔、に、タツマは言葉を捜せなかった。
(ありがとう……)
「ユェズ、もう一眠りするよ。君も休むだろう?」
気を取り直した言葉尻は友人に対するものだった。受けたユェズもそれを理解すると、迷いを振り切る。
「ああ、そうしよう。明日は早い、今日みたいに寝坊しないでくれよ、タツマ」
「う……やぶ蛇だ」
そして笑いあい、また窓は閉じられた。

街の明かりは少しずつ減り始める。見慣れない星座達が都市を見下ろす漆黒の夜は、張り詰めた静けさを隠すように時を刻んでいた。

Next>>

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?