恐竜元年:始まりの三日間の物語

18:タツマとユェズとアトル皇子とショウ・韻

二人の竜の厩はすでに宮廷の裏庭の隅に据えられていた。切り出された巨木を組み合わせ、細い枝を編んで屋根にした厩舎は俄作りにしては良く出来ていて、中に収まる獣竜たちは不安な夜を過ぎて再び主人に会えるのが嬉しいらしく、二人が来てからずっと咽を鳴らし続けていた。
「おはよう。すぐに磨いてあげるよ」
汲み出してきた泉、宮廷の庭にいくつか掘られている井戸の冷たい水が洗う手に気持ち良い。その水源は崖の上、きっとその先の、あの丘の森にまで辿れるのだろう。乾燥させた裸子実は桶にゆっくりと浸すとそれは冷気を吸いこんで柔らかく膨らみ、もう一度手に力を込めて絞ると、晴れた乾期の太陽の光が滴る水がキラキラと真下の波紋に反射した。
「昨日はよく眠れたかい?」
つい、話しかけ、
――ウン、ダイジョウブ、コワカッタケド、ヘイキ
首がゆっくりと上下する。
――ネェ、ハヤク、ハヤク。ソレ、キモチイイノ、ダイスキ!
ねだられ、柔らかい羽根皮をその波にあわせて力をこめて磨くと、拭かれる方も気持ちがよいらしく、
――モットモット、モットモット!
と絶頂の歓喜が流れ込む。村で共に育ち、長く旅をし、やはり、一番解り合える竜は彼らなのだろう。
――シラナイ、ニンゲン、クルヨ
不意に、竜が首を上げた。
「新しい竜はこちらか?」
見知らぬ声がした。立ち働く彼らが頭を上げると、確かに人がいる。透き通るような金髪に深い緑色の瞳。柔らかい線をもつ彼は男性にしては小柄だが、浮世離れした風貌の空気を纏う。身に付けている綾に首周りの飾り羽、頭にある御印までもが派手な色彩を描き、腰の磨石の輝きも町で見かけるものとは大きく掛離れていた。
「始めまして。私はアトル・アトリウム。ここでは一応の皇子ということになっている」
思わずユェズが膝をつき、タツマが同じように付こうとするのを視線で止めながら、二人ともに押し黙る。
「おや、挨拶もなしかい? 随分と連れないね」
崩して意地の悪い言葉。わざとなのだろうか、ユェズは覚悟を決めて
「お初にお目にかかります、私はユェズ、こちらはタツマです。エルデスの高貴な方の来訪、心よりお礼申し上げます。ですが……」
相手、アトルと名乗った皇子はユェズの意図を理解すると、すぐに彼に立つように仕草で命じ
「ああ、そうだね。王族が供も連れずに、こんな所にフラフラと、では確かに様にならない。それに、いきなり奴僕に話し掛けるのも、礼儀がない。君たちは午後には、外の連中の餌にされてしまうね」
立ち上がり膝の埃を払うユェズを見ながら、それこそ王族らしい微笑が返る。
「良い竜が入ったと聞いて、つい、見に来たくなったんだ、許してくれるかい?」
不自然に、二人は頭を下げるしかなかった。朝のせっかくの蒔(まき)の忠告も空しく、間に困るとはこの事。
「あ、アトル様っ!」
走ってきたのはショウ・韻。
「アトル様、このようなところへ!」
かなり慌てている。確かに、王族、それも皇子が宮廷を出て裏庭の厩に一人で何の前触れも無く現れたのだ。焦るのが当たり前だろう。
「ここには調教前の竜をいれておるのですよ! 何かあったらどうしますか! 私以外は寄らぬよう、陛下からお沙汰がありましたでしょう!」
「韻。なかなか良い竜と奴僕を手に入れたね」
悪びれずに皇子が答え、ぐっと詰まったらしい韻は
「恐れ入ります」
両手をそろえて片膝を折り、彼らしいキビキビとした態度で礼を尽くす。満足げなアトルを前に初老は直り、
「……ですが、いきなりにお声がけとは、あまりにも二人が不憫でございます。まだエルデスに入ったばかりで、竜と供にこれからだというのに」
さりげなく気を配る。奴僕が主の許可なく宮廷の敷地内で皇家の者と対等に目をあわせ、ましてや言葉を交わすなど、その場で処刑されてもおかしくない程の事態。が、韻はエルデスでの厳しい身分制度に慣れていないだろうタツマとユェズをさりげなく庇った。
「ああ、それなら気にしないよ。かえって新鮮だった。韻が彼らを許してやるというなら、私はお前にそれを許すよ」
相対して、皇子の方は楽しいらしい。
「私にまだ権力というものがあったなら……二人とも私の下男にもらうのだがな」
そう言って大人しやかに、どこか謎めいて皇子は微笑んだが、その視線はしっかりとタツマを見ている。
――その髪の色はアーシェントかい?
「!」
心に流れ込んできた、アトルの言葉。タツマは瞬間で、彼に僅かながらもアーシェントが息づいている事を知るが
――いえ、私はもうアーシェントではありません
思わず否定した。が、その声は相手には届いていないようだ。一瞬の戸惑いと共に、
(そうか……彼は……)
恐らく、この皇子はアーシェントの血を引いている。だがその力を秘めながらも、自分に力があることにさえ気づいていない。タツマらしい機転で状況を理解すると、押し黙る。
「皇子!」
ショウの叱責に近い声に、一方通行だった流れが遮断された。
「韻、私は……」
静かな皇子の
「今では後見も権力も無い蟄居の身だよ。何もしないし、できない。そんなに怒ってくれるな」
自嘲。
「タツマ、ユェズ、良い竜を有難う。これからも弟を助けてやってくれよ」
――あんな男でも、皇帝なのだから
タツマに流れ込んでくる深い憐れみ。そのさらに内に広がる、星空の闇と、空虚のような絶望の心と、失いたくないと足掻く哀しい想いが重なってくる。
「では、退散だな。韻の次の雷が落ちる前に、ではね、ごきげんよう」
軽く手を振ると、皇子は肩を竦め、来た道へと身を返す。規則正しく上下左右に揺れる飾り羽の小柄な背中を見ながら
「……全く。困ったお方だ……ここに来る必要はないと申し上げた途端にこれでは……手筈がくるってしもうた……」
韻の深いため息。
「あの方はアトル・アトリウム・エルデス様、皇帝陛下の兄君でな、かつて私が剣指南としてお仕えした方だ。ご自由な方であるがゆえに自ら皇家世継ぎの位から退かれてな、皇家の席を下げて今では一下貴族として西のお屋敷に蟄居しておられる」
――いや、彼は王族としてあるべき人……国を憂い民を思う心がある……
タツマはそんな印象を本能で嗅ぎ取っていた。彼、アトル・アトリウムは天分を持っている。それは王家、王として生きる人間だけが感じ取ることのできる感覚に似ていた。
「タツマ、困らせてすまないな」
韻は考え込むタツマを困っている、と取ったようだ。
「二人とも、あのような時には、とにかく、膝を折って頭を下げ、そのままじっとしておるのだぞ。これからしばらく、ここでのしきたりや作法について教えることにするから、下宿に戻る前に、私の屋敷に寄りなさい。許可証を渡しておくから」
二人に手渡される、彫り物の小さな骨盤の欠片。韻家の紋章、角竜の嘴の形が丁寧に刻まれている。
「これを持っていれば兵たちが案内をしてくれる。屋敷には侍従士と侍女が常に詰めているから、その者達から教わると良い。その時になって慌てても困るからな、しっかりやってくれ」
「はい」
両方からの返事。
「……近いうちに、この竜を下賜することになるやもしれんのだ。色々とやっておかねばならん」
「下賜、ですか」
「うむ、ユェズ。エルデスでは、陛下から位を賜る時には必ず竜を添えるのが慣わしなのだよ」
(あのバードルのことだ。このまま引き下がりはすまい)
この杞憂がそのままであってくれれば、と思いながらも、ショウ・韻には判っていた。傾かない天秤など、この世界には存在しないのだ、と。

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