恐竜元年:始まりの三日間の物語

19:蒔(まき)と華奈とヴィクトリアス

バタバタとその門弟はシージップ邸へ走りこんでいた。宰相である師が午前の会議を終えた後、午後からの講義で新しい章の解説をすると前から判っていたというのに、落ち着きの無いこの男は通常運転で時間ギリギリになっていたようだ。
「ちょっと待ったぁ!」
講義室へ続く廊下の扉を閉めようとする下女に叫ぶと、一気に飛び込む、が、無常にも閂は真一文字に走り、彼は直前で見事に重い巨木の扉に遮られていた。
「勘弁してくれよ……」
拳で、コン、と軽く木の扉を叩くと、
「入れてください」
と不機嫌に彼女に頼む。
「お館さまより、遅刻の者には容赦するな、と承っておりますから」
あった視線は金色。シージップ邸の門弟達が「目の保養」と呼ぶこの下女が、主命に忠実で一筋縄ではいかない頑固さも持っていることは先刻承知だが、
「今日のを逃すと、さすがに色々と危ないんですよ、僕は」
「私に申されましても……」
彼女は下女、自分は侍従の家の出にして門弟。立場的には強いはずなのだが
「先生には内緒にしておくからさ」
美女には弱いらしい。いつもの忙しない態度。
「……以前もそのようにおっしゃって、二度としないから、と……」
こうして向かい合ってみると、確かに彼女はとても美しい。亡くなった兄の妻であった人と勝るとも劣らないだろう。エルデスで市居にある評判の美女は多くは無いが、その内の二人とこうして話ができる自分は本当に幸運にある、と思わずそちらへ意識が飛ぶ。
「とにかく、蒔(まき)様、諦めてくださいませ」
しっかりとした物言い。
「いや、そうもいかないんだって」
「きゃ」
彼は彼女を扉に押しつけるようにして、両腕を扉に伸ばして囲い込むと、そのまま閂に左手をかける。
「先生が来るまであと少しの時間はあるのだし、その間に席につけば問題ない。それとも、君は僕の将来に責任を取ってくれるのかい?」
冗談めかして、だが半分は本気で彼は閂をゴトリと抜き始め、
「この扉のことは、お館さまより申し付かっている大切な役目です」
彼女はその彼の腕に手をかけて
「おやめください!」
止めようとした手を身体ごと、逆に門弟は空いた右手で捕らえ
「だから、入れてくれればそれで良いって。君は扉を護ったさ。僕が勝手に開けるだけだし、僕が入った後でしめておけばそれで済む話じゃないか」
すっぽりと収まってしまう程に細い腰。
「お離しくだ――」
「どっちにも悪くないだろう?」
と黙れと言わんばかりに顔を近づけ、その白い肌とほのかな春羊歯の甘い香りに心奪われつつ、
「なっ! それでいいよな?」
悪びれず、笑う。
(全く、これでこの子が下女でなかったらなぁ)
勿体無いのは、彼女が下女であり、自分とは身分が違うことだろう。少なくとも市民の娘か、侍従士の子、侍女であれば、自分が放っておく手はない。彼女の主であるシージップとの顔繋ぎも持っているし、口説くにも有利な立場。それに、主の命令に絶対である以上、うまくやれば、正妻にできなくとも、あわよくば、と想わないことも無い。
「いいえ!」
きっぱりと、そんな彼の全てを否定するように、強く、彼女は自分を見据える。
「どうか、お引き取りを! お館様のお言いつけは、どんなことをしても破るわけには参りません!」
「気が強いなぁ」
参った、という口調だが、
「――でもっ!」「ああっ!」
彼はこなれた動きで彼女を素早く扉すぐ横の壁に押しつけ、腕をねじって封じると、軽々サッと閂を抜きはじめ、
「ってことなので、悪いね!」
「いけません!」
まだ抵抗する彼女を締め上げる。利き手と逆の手では、抜く方向が逆になる。中程まで動かしたところで少しもたつき、その隙になんとか逃れようとした下女に
「すぐ離してあげるから、大人しくしてて!」
「痛いっ!」
想わずさらに強く力を入れて押しつける。相手は下女、無意識に、加減を失っていく。
「いや! やめっ……!」
――独楽(こま)! 助けて!
華奈の形良いふっくらとした唇がそう叫ぼうとした時、
「乱暴だねぇ、君は元々荒っぽいったら……」
呆れたような、いつもの飄々とした口調。
「あ、せ、先生!」
争う廊下に、竜皮の上質な書物と幾つかの巻物を手にしたいつもの侍従士を一人引き連れて、師が立っていた。
「蒔(まき)、お華奈を離してくれないかな?」
あくまでも優しいお願い。
「今この子に何かあると、君が明日の朝を迎えられなくなるよ……」
(この場に独楽(こま)がいなかったことを感謝したまえ)
主の脳裏には相手の身分など論外に逆上したあの熱い下男が無慈悲で容赦ない手段に出ていただろうことが浮かんでいるらしく、それを代弁するかのように穏やかな脅し。生徒は、急ぎ、彼女から離れて姿勢を正した。
「い、いつもの入り口からでは、無いのですかっ!」
師であるヴィクトリアス・シージップに現場を押さえられてしまったのは、何よりの失態、だろう。直立したまま顔から血の気がひいている。
「誰かさんがまたしても遅刻の気配だったものでね」
いかにも宰相らしい洞察力と嫌な笑い。
「全く、こんな事は言いたくないけれど、これでは君の兄君の名誉も危うくなってしまうよ?」
蒔(まき)の兄、碕(さき)、はシージップが将来は右腕にと賞した程の優等生で、上貴族のショウ・韻には跡継ぎにと気に入られ、彼に請われて侍従となり、彼の一人娘を娶った男だった。思慮深く勇気があり人の為にと行動する兄と、短気で落ち着きが無く何かと人の上に立ちたがる弟。どこかの兄弟と同じだな、と苦笑しつつ、
「華奈は下女だから、お前からすれば格下なのはわかる。だが、だからこそ、やってはならないこともあるのだと、心しておかねばならないのではないのかい?」
あくまでも諭す。一方の華奈はその細い腕についた赤い跡をさするようにしてから、怖かったのだろう、震えるように主人を見あげていた。
「お華奈、痛い思いをさせてすまないね。怖かったろう、もう大丈夫だから」
優しく肩に手を置くと
「この失礼な男には私から、よぅく、言っておくよ、」
父親の笑み。念を押した、よく言っておく、の言葉の真の意味を知る彼女はすこし憐れみの表情で
「大丈夫でございます、お館さま」
伏せる視線と安堵の表情。
「ああ、一応のこともあるから、怪我がないかどうか、膳所のゴローに見てもらっておきなさい。その後でここを閉めに戻ってくれば良いから、無理をしないでおくれ」
行って良い、という主の視線に促され、下女は、ありがとうございます、と一礼して屋敷のその場所へと向かい、
「蒔(まき)」
その遠くなる金色の影をみつめたまま、師は静かに門弟を呼ぶ。
「とりあえず、今日の講義は受けなさい。本当なら、お前の兄がしたやもしれぬ講義なのだから」
「え?」
「あの事故さえ無ければ、碕(さき)は間違い無く私の代わりに講壇に立てた男だったのだよ」
二年前、彼は街の大通りで起きた奥羽夫人の角竜の暴走に巻き込まれた子供を救い、死亡した。ショウ・韻の一人娘、都市でも評判の美姫と結婚して僅か数か月目の出来事で、その悲劇は親族友人は元より都市の人々の涙を誘い、後、都市の竜はすべて皇帝の所有物として監視下におく、と律が改正されたほどの影響力を残している。
(……兄さん)
そう、その兄を慕い、兄に憧れて、蒔(まき)はシージップの門弟となり、兄の妻であった棗(なつ)の下宿へと移って来た。兄が何を見、何を目指し、何をやろうとしていたのかを知りたかったから。
「先生」
うん、と受けた師の視線に
「申し訳ありませんでした!」
両手を下腹に揃えて膝を折り、深々と頭を垂れる。クスと師は笑い、
「今度やったら、破門だよ、さすがに」
「はい」
「おやおや、大人しく素直だこと。いつもそうだと、こうも心配しないのだけれど」
明るい嫌味とも冗談とのつかない言葉。
「せ、先生……」
困る門弟。
「さて、少し遅れ気味だが、始めるとしようか」
シージップはその飄々とした動きそのままに、半分ずれて外れかけた閂に触れ、
「あ、やります!」
蒔(まき)が奪うようにしてその閂をどけると、講堂への廊下の扉を開いた。


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