恐竜元年:始まりの三日間の物語

12:アーシェント・祥子と皇帝とアンナトリア妃

エルデスの全てを統べる皇帝は、空へと向かい切り立つ崖をくりぬき、その頂上に置かれた殿堂で多くの者達に傅かれて暮らしている。皇帝の居、エルデス宮は正門である貴族街の白き門から内部に入り、頂上の殿堂までの通路が網の目に張り巡らされ、自然の洞窟を生かして人の手で掘り抜かれた難攻不落の要塞といえた。いくつかの広間に皇家の居室、地中の奥には議会の間があり初見が迷うことは必須、その上、人工の灯の路を抜けた先に現れる頂上の部屋は、たどり着くまでに暗闇に慣れてしまった眼に強烈な一撃を与え、皇帝が太陽の全てを独占しているかのような錯覚にさえ陥る。
「会議なんて、出なくないなぁ、面倒だろ、あんなもの」
その光の間に、甘ったれた口ぶりの声が響く。今恐らくこの世界で最も強く巨大な権力を持つ存在は、二十歳半ば、運動不足から崩れてしまった体型を持て余す贅を身にまとう。
「陛下、ご気分がすぐれないのでしたら、おやめあそばしては?」
皇帝の我侭をきいてくれるのは宰相ヴィクトリアス・シージップの妹、正妃のアンナトリアだけだった。彼女は先の正妃が邪魔だといえば殺してくれるし、かの娘が欲しいといえば、たとえそれがアーシェントの不可侵の巫女姫でも調達してくれ、ほしいものは何でもかなえ、与えてくれる。だからこそ正妃に据えたのだし、自分が何をしても怒ったりせず、誉めてくれる彼女こそが理想の女性なのだ。
「そうだな、全くイヤな気分になる、良くないことだな……」
陽の光が差し込む空に一番近い場所、宮殿最上階の広間には玉座にある皇帝とその膝に抱えられている正妃、そして侍らされた華やかな衣装の後宮の女たち、妊婦となって部屋に引き籠った奥羽のシエラ姫を除く貴族出身の身分が高い選ばれた側室達がいた。それぞれの膳には器も素材も贅沢を極めた料理、皇家専任の職人が時間と労力を惜しまず作り上げ、狩人が命がけで持ち帰り、厨房で手間暇と丹精込め生み出されたはずのそれが手つかずのまま捨てられるのを待ち、生気の無い瞳の楽師と踊女達がその宴を飾っている。まるで人形のように並べられている妃たちの瞳には怠惰と退屈と殺した感情の影が落ちていた。
「陛下。せめてお顔だけでもお見せになるほうがよろしいのでは?」
正妃に甘える皇帝に苦言するのはいつも、末席に背筋を伸ばして鎮座する、皇帝によって汚された巫女、アーシェントの娘、この人だった。
「だって……退屈だし、おもしろくないし?」
上目遣いに答えると、皇帝の筒のような手がアンナの艶めかしい褐色のひざを撫で、その大腿に手を伸ばす。アンナは、まぁ、と俗笑。
「……陛下はこのエルデスの皇帝陛下でいらっしゃいますのに?」
匂い立つ紅髪に黒い瞳、美しい顔立ちに気の強さが色を添え、この見ていられない光景にかなり頭にきている様子だが、その態度を彼もそっくり返した。
「ああ、皇帝だ! だからこそ、世は何をしても良いんだ!」
「……」
相変わらずな、と生まれながらの皇巫女の冷たい目に何を思うのか
「そんな顔するな、祥子。どうせ、夜には……なぁ?」
アンナの首筋を舐めてその甘さを堪能しつつ、眼だけがギョロリと睨む。
「陛下ったら……」
と、アンナは勝ち誇ったように祥子を見ると
「アーシェントのお方。陛下はこの世界の支配者、我らはみな、陛下の物なのですよ。そのようなお言葉は慎まれてはいかがかしら? まぁ牢獄でお育ちですし、致し方無いのでしょうけれど!」
かん高く笑う。
「最近はご無沙汰でいらして、代わりにバードル殿を御召しとか聞きましてよ? 彼はいかがですの?」
「バードル? あんな無粋な男より、世の方がずっといいだろ? 何なら今夜、相手をしてやってもいいぞ。お願いします、と頼んでみろ」
好色な皇帝の表情と、低俗な正妃の表情が重なる。
「……何を誤解していらっしゃるのかは存じませんが」
泣くでなく怒るでなく、冷ややかに祥子は情けない主を見
「今宵のお召しは辞退させていただきます。月の障りにございますので」
立ち上がると、その裾から光が零れた。
「なんだ、障りか。世は子供が好きだ。もっとたくさん欲しいぞ!」
皇帝の呆れた声を背に、
「気分がすぐれませぬ、失礼いたします」
見返り見下ろし敢然としたまま、彼女は汚らわしい部屋を出た。とはいえ、自由になれる場所は多くない、どこ当てと無く少し進み、ふと、何かに呼ばれたかのようにその廊下にある丸窓から遠くを見つめる。
「……もう、だめなのかもしれないわ」
街へ降りていく風に乗る独り言。その先にはかつて、遠い故郷の面影が見えていた。
「私に……私に力が残っていたら、まだ、道は残されていたものを……」
返す流れが、少し細くなった後れ毛を空へと持っていく。エルデスの軍勢によって拉致された自分は、その力、純粋なアーシェントの力故に幽閉の身となっていた。アーシェントの血筋の者はこの世界のあらゆる生命と心交わす力をもつ。王家の者はその上さらに……エルデスの先帝がこの力を自らの野望の為に使わせようとしていたが、頑なに拒否し続けた彼女はそのまま一人牢獄で朽ち果てる運命を選んでいた。まさか……まさか、先帝の次男、今の皇帝がその牢獄に押し入り、こんなことになるとは……。
「許せない……力ずくでアーシェントを、この世界に生きる生命達を汚す者達」
――全ての生命はアーシェントが齎し、アーシェントが促し、アーシェントが終わらせる……
その力ゆえに、進化していく生命たちを見守る役目、その盟約を、アーシェントの自分とその一族はずっと護りつづけていたのだ。少なくとも、あの時までは。
――祥子! 生きよ! アーシェントはまだ滅びてはならない!
最後の父の言葉。だが、もはや、アーシェントは失われていた。持つはずのない感情、湧き上がってくる憎悪と恨みを覚えた巫女に力は無い。それは、自分が一番判っていた。
「かーたま」
幼子の声が、祥子の足元に聞こえた。見下ろすと今年三つになったばかりの我が子が自分を見上げている。
「かーたま、おかお、こわい」
息子、トキヤ。あの時の牢獄で身ごもった子は、耐えられない事に皇帝にとても良く似ていた。アーシェントの女性全てが等しく生命の巫女、女神と呼ばれる所以は、望む望まざるにかかわらず、どの種族、生物が相手であろうと必ず子を設けることができる能力があるからに他ならない。そしてその力ゆえに、彼女は皇帝の子、この皇子を産んだ。
「トキヤ……」
溜息。
「どうして部屋から出たのです?」
そういうと、追ってきた息子に付き従う女官を見た。エルーメラという名の彼女は失われた都市の姫であった娘で、生まれつき子供を産むことができない身体であったことから、側室から祥子の女官へと格下げされていた。彼女にはかえってそれが良かったのか、生来の穏やかな気性と真面目な性格も手伝って、トキヤと祥子の世話を取り仕切っている事実上の女官長である。
「エル。なぜこの子を出したのです?」
「申し訳ありません。母君さまの元へ行くとおっしゃって……」
エルーメラはそっと腰を落とすと深々と頭を下げた。
「我慢することを教えるのも、そなたの役目ではないの?」
厳しい口調。
「かーたま、いっしょ」
それでもトキヤは彼女の裾をしっかりと握り、母を放すまいとしている。
「皇子様は、お方様をずっと探しておいででした」
侍女は母とは逆に深い愛情で子供を見る。
「独りに慣れてもらわねば困るのです」
しかし、后はますます冷めた目で
「これでもエルデスの皇子なのですから」
――そう、アーシェントではないわ。私が、決して認めない
見下ろすと、トキヤは少し怯えるような瞳をしたが、小さな手がその布の波の中に隠れてしまいそうになりながら、だが、それでもただ何も言わず静かにすがり付いていた。
「……トキヤ。いつまでそうするのです?」
「かーたま、いっしょ」
「ここは王宮の廊下。いつまで私を立たせておくつもりなのです?」
「さ、皇子」
思わず抱き上げようとするエルーメラを
「自分の足で部屋に戻しなさい」
彼女は毅然と制し、その声に顔を上げた皇子と再び視線が合うと、
「トキヤ、私は後から行きます。先に戻りなさい」
「……あい。かーたま」
幼子は寂しげに手を離す。
「よろしい。自制することが、王として必要なことですよ」
抑揚のない、言葉。
「そして、この王宮で、そのような真似は今後しないように」
意味が判るのか判らないのか、皇子は悲しげに頷く。
「皇子、参りましょう。お方様はご用事がおありです」
エルーメラが諭すと、潤んだ瞳が振り向き振り向き歩き出す。
「……あの男の子供」
祥子の呟き。
「おぞましい血を受けた、私の子」
蘇る屈辱の記憶。その母親である自分が彼女にとっては最も憎く許せない存在だった。自ら生命を絶つことができないアーシェントである、臆病な呪わしい自分が。
――汚らわしい……。
寒気が走る身体を自分で抱きしめて、もう一度祥子は空を見た。かつてこの空から、女神がアーシェントと共にこの世界に降りた。そしてアーシェントの姿を模した力なきアーシェントの子孫、その力の代わりに創造と破壊の力を得た《人》という種族が生まれ、その時にその盟約をあるものに、生命を犠牲に生まれる有機物と星の息吹となる無機物を糧とした、諍いと争いの象徴である剣という存在に刻み、意思を吹き込んだ。
「そう……あの剣……」
アーシェントだけが持つ封印とそこに約束された盟約は大切に護られていた、あの時までは。あの時、盟約は、剣の姿から三つに分かれて、さらにそれぞれに自らの意思を持って姿を変え、この世界へと解き放たれて簒奪者達の手から逃れた。もう一度、全てが集まり、生まれた時の姿に戻ってアーシェントの手に戻る時……。かつて自分が父とユェズの長から聞かされた、遠い世界と時間の先の、そこにある希望への、「最初の世界」の物語。
(あれは……今……どこにあるのだろう……それとも、もはや……)
そっとその上空を、一頭の翼あるもの、《空王》(ケツァルコアトルス)と呼ばれる巨大な翼竜が、人のような影を掴んだまま、高く長くその声を響かせながら影を映して、喰える喜びを謳歌して横切っていく。その向かう先、果てが静かに、アーシェントの色、その紅に染まろうとしていた。

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