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婚活サイトと単独性(または、届かない想定の手紙)

 前回はオンラインでの学習について書いたので、今回はオンラインでの恋愛について書いてみたい。僕と妻は、婚活サイトで出会い、今年で結婚10年目だ。完璧な夫婦とまでは言わないが、なんとか上手くやっている。ここ数日、twitterで出会い系サイトと恋愛についての話題が流れているのを見て、ツッコミをしたくなったのでこれを書いている。かといって、偉そうに一般化して語るつもりもない。完全にn=1の体験談だと思って読んでほしい。

1.    イデアを捨てる

 出会い系サイトによって個々人の属性が数値化することで、真の恋愛ができなくなったという論調は多い。それに関連して思い出すのは、柄谷行人の『探求Ⅱ』における単独性と特殊性についての議論だ。少し長いが引用しよう。

”恋愛”においてある個体にこだわることは、その個体を単独性においてではなく、一般的なもの(イデア的なもの)のあらわれにおいてみることである(中略)次々と相手を変えながら、そのつどこの女と思い込むようなタイプは、フロイトがいう「反復強迫」である。実は、反復強迫は、キルケゴールのいう反復ではなく想起であり、同一的なものの再現なのである。ここには、この他者は存在しない。たんに、法則的(構造的)な再現(表象)があるだけだ。
 ある個体への過剰な固執は、したがってその単独性とはむしろ無縁であるといわねばならない。プラトンが言ったように、エロスとは一般性(イデア)への愛である。一般的にいって、情熱恋愛(passionate love)は単独性とは無縁である。たとえば、ヘーゲル=ルネ・ジラールが明らかにしたように、欲望とは他者の欲望つまり、他者に承認されたいという欲望である。(中略)要するに、情熱恋愛においては、この相手(他者)が問題なのではなく、第三者(他者)あるいは一般者が問題なのだ。そこでは、この他者というこだわりがあるようにみえて、実はこの他者が徹底的に不在である。

(柄谷, 1994, p.15-16)

 この文の初稿は『群像』に1986年から1988年に掲載されたものだ。執筆時おそらく40代中盤、僕より少し年上くらいと思うと、「恋愛に単独性は無い」とサラリと言い切るその姿勢には、「やっぱりカントを読むとそうなるのか・・・」と思う所はあるが、言いたいのはそこではない。これは、インターネットの登場以前の発言だ。出会い系云々以前に、もともと、そんなものなのだ。それから逃れる手段は、端的にいって、イデアを捨てることだ。

 例えば、僕は自身のYouTube上のバ美肉アバターに赤いフチの眼鏡をかけさせているくらいにはメガネっ娘好きである。ギャルゲーをやるとしたら眼鏡キャラが最優先だ。しかし、妻は眼鏡をかけていない。40代でも視力2.0をキープしており、老眼にならない限り眼鏡をかける気配もない。また、DMM.comの履歴を見る限り、僕は恋愛相手には「先輩♥」と呼ばれたいと思っていたはずなのだが、妻は1歳年上であり、僕のことは「おまえ」と呼ぶ。いや、そんなことはどうでもいい・・・。僕なりの、イデアを捨てる方法について、順を追って説明しよう。

2.    システムを無視する

 30歳を過ぎた頃、サービス残業ばかりの生活を変えるため、僕は当時最大手の婚活サイトに登録した。そして、そこで最初にメッセージを送ってきてくれた相手が今の妻である。登録後にプロフィールに応じたリコメンドが数件送られてきたが、その中の誰とも合わないまま妻と結婚してしまったので、実は僕は、システムによるマッチングを体験していない。これはシステムからすれば想定外の動きだと言っていい。それは妻の方も同様だ。そもそも妻は、1,000km近く離れた地方都市から突然アクセスしてきたのだ。

 都内から地元に帰った彼女は、両親に勧められて婚活サイトに登録させられたらしく、そのプロフィール写真は、サクラだとしたらありえないほど不満げな表情をしていた。彼女は、最初の検索時、推奨されたその地方在住の何名かのリコメンドを無視し、「誰か同窓生が登録していたらウケる(笑)」という理由で、昔住んでいた杉並区の住所を検索したらしい。その検索で近所に住んでいる僕が最初にヒットし、「まあ、友達にはなれそうかな」と思ったのでメッセージを送ってみたそうだ。

 最初のメールでは共通の話題として、冨樫義博とTHE YELLOW MONKEYの話をしたと思う。しかし、会ってみると、二人はとても違う人間だと分かった。結婚後に二人の本棚を整理したが、重複していたのは上記の他にはRadioheadと荒木飛呂彦くらいで、同世代の文化的感覚から言えば、ほとんど何も重なっていないに等しい。同じ町に住んでいたとはいえ、かなりの偶然が重ならなければ、二人が出会うことは無かっただろう。そして、そうやってシステムを無視して出会った二人だったからこそ、この10年の結婚生活が続いたのだと僕は思っている。

3.    ぜんぜん違う人と暮らす

 妻と僕はとても異なる人間だ。プロフィールに大学院卒と書いてあったので、最初僕は衒学的な会話が楽しめるタイプかと期待したのだが、彼女が持っていたのは油絵科の修士号だった。しかも、よくよく聞いてみると、美術大学というのは決して文化系ではなく体育会系で、本を読むよりも森でフットサルをする方が楽しいという奇人ばかりらしい。美術大学の方がもし読んでいたら申し訳ない。n=1の偏見だ。

 彼女はサッカー観戦が好きだ。ワールドカップでは、青いタオルを振り回して日本代表を応援している。試合を見ていると、プレイヤーの筋肉の動きが体に伝わってくるらしい。僕はそのような感覚を持たないので、サッカーをあまり楽しめない。それを将棋の駒のように見ることはできるが、身体感覚を伴って見ることができず、あまり動きに追いつけない。あれは戦略と運動神経の両方の視点が必要な競技だ。彼女は相撲やオリンピックや芸能界にも興味があるが、僕はそういった世界の有名人の名前を知らない。

 彼女は右翼で、僕は左翼だ。言葉を厳密に定義しないと誤解を招きそうだが、例えば、出会った当初、ニュース番組を見た僕が日本社会に対して否定的なことを言うのを彼女は嫌がった。彼女は陽気で、外に出て人と話さないと機嫌が良くならない。僕は陰気で、部屋にこもって本を読まないと気分が回復しない。僕の好きなバンドも、マンガも、彼女は好きではない。僕は『フリクリ』とthe pillowsが好きだが彼女から見ればガキ臭いらしいし、僕は松井優征のマンガが好きだが、彼女は「絵がちょっと」と言って読まない。彼女はブランキージェットシティーや電気グルーヴが好きで、魚喃キリコを読んでいる。たぶん文化的には、僕は実年齢よりも少し年下向けのものを摂取していて、彼女は少し上の世代と話題が合うはずだ。ポール・グレアムの書いた『ハッカーと画家』という本の帯には「普通のやつらの上を行け」との煽り文が書いてあるのだが、プログラマと元画家志望の二人の共通点と言えば、就職氷河期の中で普通の道から外れてしまったことくらいだ。とにかく、趣味嗜好は何から何まで嚙み合わない。

 それだけではなく、彼女は僕の知的好奇心にも興味はない。大学院を出て個展を開いた後、簿記の資格を取って会計の仕事をしていたらしいのだが、会計の知識にもあまり興味がない。最近も、「中古で購入したこの部屋を個人事業主として事業転用したら家事按分後の減価償却費がいくらになると思う?」との話題をふっても「んなことは忘れた」と言って子供の世話をしている。そして最も重要なことだが、彼女は僕の仕事にも趣味にも興味がない。だから、僕の作品も文章も一切見ようとはしない。もしこのブログが彼女に見つかったとしても、冒頭の柄谷行人の引用を見た瞬間に「話がなげーよクソが」と言ってブラウザバックすると確信している。だから彼女が「先輩♥」のくだりを読むことはない。大丈夫だ。問題ない。

 つまりこの文章は、結婚10周年に際して書いた、届かない想定の手紙といってもいい。僕は、そんな彼女と暮らすことで、視野を柔軟に広げることができたし、立場の違う人と話す能力を高めることができた。そして多分、人に理解されることを過剰に求めなくなった。

4.    理解されることに甘えない

 「理解のある彼くん」というネットスラングがある。精神疾患などの困難な状況に陥った女性が、それを包摂する恋人によって救われるというストーリー全般を揶揄した言葉だ。「白馬の王子様」の現代版のようなものだろう。だが、そこで言われている、「理解」とは何だろうか。その彼くんは、その人の心の、何を理解しているのだろう。率直に言って、人間が本当の意味で理解されることなどありえない。いつか、その理解が不十分だと不満を持つことになる。それならば、むしろ、理解されたいという欲望すら持たない方が健全なのではないだろうか。冒頭の柄谷行人の文章を思い出してほしい。

 そういえば大学生の頃、僕は仲良くなった女性ほぼ全員に柄谷行人の『内省と遡行』を読ませたがるウザい学生だった。よく分からないが、それを読んだうえでなければ、僕を「理解」してもらえないなどと考えていたのだと思う。感想を書いてくれた人もいたが、僕は「自分が理解された」とは思えなかった。大学卒業後、恋人と一緒に同人誌を作ったこともある。その女性は、僕のことを深く理解していたと今でも思うが、暗い部分に同調して一緒に社会を憎んだし、その関係は長くは続かなかった。

 10年前、ゴールデン街の飲み屋で、結婚を決めたことを友人に報告した。彼は僕のそれまでの恋愛遍歴を知った上で、その理由を僕に問い質した。「・・・なんでかって言われると、俺と違う人だから、かなー」と答えた。彼は「んー。いい返事だ」と言っていた。

 それから10年間、僕の妻は、毎朝たいてい同じような顔で起きる。僕の調子が悪くても、喧嘩をした翌朝でも、何もなかったかのように快活な空気を保ち、日常の雑事をこなす。その無関心さに、どれだけ僕が救われてきたか、言葉で表現するのは難しい。「愛の反対は無関心」という言葉があるらしいが、僕は、無関心は一種の愛でありうると思う。

5.    多様性を称揚する

 子供が生まれる前に、一度だけ妻と血液型の話をしたことがある。お互いの両親の血液型を双方聞き出した結果、僕と妻の子供は、Rh-を除き、A, B, O, ABのどれでもありうるということが分かった。その時に、「すげー! 全ての可能性がありうるね」と言ったのを覚えている。最近の産婦人科や小児科は、差別を避けるために子供の血液型を両親に伝えない方針のため、僕たちはまだ、二人の子供の血液型を知らない。

 子育てについては、また別の記事を書いてみたいと思っているが、二人の兄弟は全く違うタイプの対照的な人間で、見ていて面白い。

 世の中には、いろんな人がいる。政治的な立場や、趣味嗜好は千差万別で、完璧に理解しあえる人などいない。そして、そういう人同士が、理解しあえないまま共に作っていくのがこの社会だ。婚活サイトについてtwitterで文句を言っている人は、適当に検索して、最初にアクセスした人と結婚したらいいのでは、と思うことがある。

 もちろん、僕は決して人生の成功者ではないし、上記の経験は何の参考にならないかもしれない。それでも、n=1の事例として、婚活サイトについて考えているひとの参考になれば幸いだ。

「うるせーよ。成功者じゃないっていうか無職だろうが。早く働け」と言われれば、「すんません、ブランクあると書類通らないんす・・・」くらいしか、返す言葉は無い。

Reference:
柄谷行人.(1994.)『探求Ⅱ』. 講談社学術文庫.


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