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自己満足ノベライズvol.1 『パンズ・ラビリンス』ギレルモ・デル・トロ

 苦しげな息遣いが聞こえてくる。それがはっきりと、10歳前後の女の子のものだと推測できる頃、ハミングが加わった。少女の呼吸音の裏拍を取っている。

『España, 1944』

呼吸音とハミングは続く。

『内戦終結後も 山では武装した人々が─
新たな独裁主義政権と戦い続けていた』

暗闇の右斜め上が微かに、青白く色を浮かばせ、それに照らされるようにざらついた輪郭を現した地面が、濡れて輝きながら右から左へ流れていく。その右先に突如、血のこびりついた手、鼻血を流した少女が─いや、鼻血は流れていない─左頬から陣中、小鼻の下、2つの穴へと鼻血が戻っていく、逆向きの時間に置かれた少女の顔とがまず視界に現れた。白い襟と暖色の服が碧白く照らされた彼女の肌と黒い瞳、限りなく黒に近い赤を際立たせている。その赤が黒い穴の中に収まったその時。顔をこちらに倒し、横たわっている少女と目が合った。

「昔むかし──」聞き慣れない言葉が呼吸音とハミングの上に轟く。「─遥か昔─」

言葉が風の唸り声とともに黒い瞳の奥へ吸い込まれる。

「嘘や苦痛のない魔法の王国が地面の下にあった─」

風の唸りが最高潮になったとき、瞳の黒から寂しい風景に出た。
カラスが何度か鳴き、遠くでは鐘の音がしている。碧ではなく青白い岩の渓谷、小さな光の灯った穴、ドーム型の屋根をつけた塔。薄暗さの中になければきっと黄身や赤みのない白色なのであろう。

「その王国のお姫様は
人間の世界を夢見ていた」

岩や建造物が右から左へと流れ、岩を掘って作ったような門が現れた。岩の中─すなわち門をくぐった奥の壁には階段のような凹凸がみえる。

「澄んだ青い空や─」門に正面から近づいていく。「─そよ風や 太陽を
見たいと願っていた」

門の手前がテラスのように出ていることが分かると同時に左から小さな影が走り出てきた。そのまま門を通り、

「そしてある日─」

やはり壁に沿って右上へ伸びていた階段を駆け上がっていく。

「従者の目を逃れ
お姫様は逃げ出した」

壁の明るい部分は上に行くにしたがって碧くなる。

「でも 地上に出た瞬間
光に目がくらみ」

螺旋の階段を小さな影はスルスル駆け上がっていった。

「すべての記憶を失ってしまった」

階段の側面はいよいよ碧白い。
碧黒い壁を辿るように現れた頂点は、五角形のフレアを零して限りなく白に近い光を発している。
白い、そう白い。
目の眩む白だ。

碧か青かもはや分からぬ薄暗さを中心から追いやっていく。

さっきの門だろうか?
いや、違う。ここは出口だ。さっきのは思い違いだったようだ。岩石は赤みと黄みを持った白であった。形をなんとか保って朽ちた建造物は、廃墟と言うには違和感を覚えるほど、明るく、爽やかな美しさがある。

「自分が誰で
どこから来たのかも忘れ」

だが、カメラがフラッシュを炊いたかのように一瞬にしてそれは陰影を濃くしてしまった。
廃墟。
その言葉がふさわしい姿に。

「寒さや 病や
痛みに耐えながら」

「やがて お姫様は死んだ」

裏には黄色い土と赤茶けた壁に囲われた空間、そこに髑髏が転がっている。
まるでお姫様を示唆するかのように。

「だが 父王は信じていた」カラスが鳴いている。

「お姫様の魂が いつか必ず─」

壁の向こうにはさらに朽ち、天井の落ちた建物が見えた。

「別の肉体に宿り 別の時代に
戻ってくることを」

さっきの黄色い土よりも茶色く、石の多い地面を黒い車が踏みしめて来た。
車体には金色の紋章が入っている。
それが2台続き、最後に

「その日まで
たとえ世界が終わろうと─」

枯草色のホロ布をかけた大型車が走り抜ける。

左に孤を描き続く道の先には黄土色の建造物とはっきりした碧色の山がそびえている。

「父王は命の限り
待ち続けるのだった」

小気味よい音を微かに立てて捲ったページには、髪の長い女の子とその周りに浮かぶ妖精のようなもの数匹のシルエットが焦げ茶色の薄い黒インクで描かれていた。
その挿絵を撫で、またページをめくった女の子は黒いベレー帽を被り、緑の服の上にコートを着て後部座席に座っていた。窓の外を若草色の風景が流れていく。

少女の隣にはお腹の大きな女性が座っている。
ハンカチーフを口元に当て、気持ち悪そうにしているのは、やはり妊娠しているのだろう。

「オフェリア 山へ行くのに
本ばかり持ってきたのね」

母親は腹の下あたりでハンカチーフを右手の中に押し込めると、娘─オフェリアの本に手を伸ばした。

「おとぎ話?」

オフェリアは窓の方へ顔を背けたが母の手がそれを阻む。

「もう こんな本を
読む年じゃないでしょ?」オフェリアは顎に添えられた手のなすがまま、母親にその黒い瞳を向け直した。

と、母親は呻き、パッとハンカチーフをまた口元に当てた。
さっきよりも辛そうだ。

「車を止めさせて」

オフェリアは表情をあまり変えず、しかし急いで運転席とこちらを隔てるガラスをノックした。

すぐに止まった車から2人は降りた。

花粉か虫か、それとも雪か光か、山の中を何やら白っぽいものが飛んでいる。

「オフェリア 待っててね
お腹の坊やの具合が悪いの」

オフェリアは素直に、周りの探索を始めた。
見上げるとやはり木々の間を白いものが神秘的に飛んでいる。

軍服を着た男に水を頼む母の声を背中に、オフェリアは山道を見渡していたが、数歩も歩かないうちに何かを踏む高い音がした。

拾い上げて見ると、目のようなものが彫られている。歪だがやや整った形─何かの一部だろうか。

オフェリアはキョロキョロとして間もなく、風が吹き付けてくるとその方向へ足を向けた。

シダ植物の中に石碑のようなものを見つけたオフェリアはその正面に回り込んだ。
古い壁画や建造物にあるような顔が彫られていた。その片目がえぐれている。
オフェリアが手を伸ばし、そこに拾った石を嵌め込むと、チチチッ!
石碑の開いた口の中から、大きな昆虫が出てきた。カラカラ、カタカタという音を鳴らし、石碑の頭部に上がっていったカマキリのような昆虫。顔をほころばせたその時

「オフェリア」母親の声で昆虫は羽を鳴らして飛んでしまった。

「いらっしゃい」
「妖精を見たの」オフェリアがそう報告すると母親は肩に手を起き、「靴が泥だらけだわ」そう言って近くに寄せ、肩を抱き直して車の方へ連れて行った。

「行きましょう」

車の周りには銃を構えた軍服の男たちが数人、待機していた。

「着いたら
大尉に ご挨拶して
"お父様"と呼ぶのよ
あなたの
新しいお父様だから」

飛んでいったはずの大きな昆虫が羽音を立て、彼女らの背後にあった木へとまった。興味を持っているかのようにカタカタ鳴き、触覚を震わせて、車の方を覗き見ている。
車がエンジンをふかし始めると、昆虫はそのまま幹の裏側へ、裏側から車が走り出した山道側へぐるりと巡り、3台目の荷車が走り抜けると飛び立ってその後を追いかけた。


懐中時計がチッチッチッチッと0.5秒を刻んでいる。

「大尉殿 車です」

男は時計から顔を上げた。
鼻背部から頬骨のあたりが赤らんだ男の目つきは静かで険しい。

「15分遅れだ」

最小限に動かした口から紡がれた声は冷たかっ
た。


「カルメン」

大尉は笑みをつくり、車から降りるオフェリアの母に手を貸した。

そしてすぐにその腹部に手の平を添わせた。

「よく来た」大尉は振り返り、初老の男に合図した。
「ちゃんと歩けるのに」そこに用意された緑の車椅子をみてカルメン婦人は眉をひそめた。 
「医者が"ムリをさせるな"と」

首を振って尚渋る婦人を見る大尉の顔色が変わった。

「乗ってくれ」大尉は耳元に顔を近づけて続ける。「私のために」

婦人は初老の男─ムリをさせるなと言ったらしい医者に支えられ、車椅子に腰を下ろすと、オフェリアに声をかけた。

「降りて。
ご挨拶なさい」

オフェリアは本を胸に抱え、車から降りた。大尉はまた笑みをつくって名前を読んだ。

「オフェリア」

オフェリアは左手を本から外し、おずおずと伸ばした。
大尉はその手を握るでなくただ強く掴み上げ、押し戻すようにして言った。

「もう片方の手を出せ」

それから投げるようにその手を離し、「メルセデス」2台目の車の側で荷降ろしを手伝っていた女性に言いつけて行った「荷物を運べ」。

オフェリアは怯えたような表情でじっと大尉の方を見ていたが、羽音に気づき、さっきの昆虫が近くの麻袋にとまったのを見て顔を明るくさせた。メルセデスと呼ばれた女性が自分をじっと見ていることにはもちろん気がついていない。
オフェリアがゆっくりと麻袋に近づき、さっきまで大事に抱えていた本を落としてパッと飛び付くと昆虫はその手の間をすり抜け、誘うように森の中へ飛び立った。
オフェリアは小走りで付いていく。

すると、弧を描いた門が現れた。
その下をくぐるとき、やぎのような顔の彫刻が半円の一番高いところに付いており、その彫刻がさっきの石碑の顔のように口をぽっかり開けていることに、オフェリアは気がついた。
くぐったその先に目を向けると、石の壁が通路のようにそびえ立っていた。
オフェリアはゆっくりと進み、すぐ正面の突き当たりの壁までつくと、壁の続く先を覗き込んだ。

「奥は迷宮よ」

突然の声に引き戻されたかのように振り向くと、女性が立っていた。
メルセデスだ。
オフェリアは笑みを浮かべた。まるで女性の優しさや温かさを嗅ぎ取ったかのように。
実際、メルセデスはその通りの女性だった。柔らかい表情でこう続けた。

「大昔から岩の壁があったの
製粉所ができる前から」

オフェリアは興味深げに周りを見渡した。

「入らないで
迷ってしまうわ」メルセデスはお話の怖い場面を聞かせる時の母親めいた言い方で囁やき、オフェリアがさっき落としていった本の束を渡した。

「ありがとう」
「全部読んだの?」

オフェリアが何か返す前に後ろから声が呼びつけた。

「メルセデス」軍服の1人が門の前にいた。「大尉殿の所へ」

メルセデスは頷き、先に戻っていった男からオフェリアへと目を戻した。

「お父様が お呼びだわ」

歩き出したメルセデスにオフェリアは着いて行こうとせず、絞り出すようにこう言った。

「父親じゃない」

オフェリアは本の束を両手でしっかり持ち、メルセデスの横に歩き寄って訴えた。

「大尉は違うの
パパは仕立て屋で
戦争で死んだわ
大尉は父親じゃない」
「わかったわ 行きましょう」

メルセデスはハッとした顔で見ていたが、オフェリアの肩を抱いてそう言った。

「ママに会った?
美人でしょ?」

オフェリアはメルセデスの言葉に気を持ち直したようだ。

「具合が悪いの
お腹に赤ちゃんが」

2人が歩いていくのを、門の上に飛んできた昆虫はじっと見ていた。ヤギのような彫刻の、角の間に降りて。


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