等伯を書きたい
https://bushoojapan.com/scandal/2019/03/27/122535
先日、武将ジャパンさんに掲載された、この永徳の記事について。
この記事を書く事は、私にとっては永徳との取っ組み合いでもあった。
何故、と私は奴に組み付きながら問うた。
―――何故あんなことをした。
―――あんな事とは?
―――御所の対屋の件だ。長谷川等伯一門を頭ごなしに潰そうとした…
―――………ああ、あれか。
―――絵師なら、男なら、真っ向から絵筆で勝負して叩き潰そうとは思わなかったのか?
―――………
信長、秀吉と天下人に仕え、彼らのために絵筆を揮ってきた永徳は、名実ともに「天下一の絵師」だった。秀吉はもちろん、他の大名たちも、彼の絵を欲しがった。
1590年、豊臣秀吉が後陽成天皇のために新たに御所を造営した時も、当然内部を飾る障壁画は、永徳とその一門、狩野派が独占するはずだった。
しかし、そこに割り込もうとした異分子があった。長谷川等伯率いる一門である。
北陸から出て来た等伯にしてみれば、この京で大きく飛躍するための足場として、何としてもこの仕事は手に入れたかった。うまくいけば、秀吉たち権力者の目に留まることもできよう。
永徳はそれが許せなかった。あの男を、何としても除かなければならない。その思いにとりつかれて、人脈をたどって駆けずり回り、ついには長谷川一門を閉め出すことに成功する。
書いていた当初、私はこの永徳の行動が理解できなかった。
何故、そのような手段を取った。自分の腕に覚えがある絵師なら、堂々と叩き潰せば良いのに。なぜ、権力者の威を借りて、そんなことを。
反発はしこりとなり、足かせとなった。私はなかなか先に書き進めることができなかった。永徳という男の姿が歪んだ醜い影となって、常に頭の中にあった。
ただの嫌な奴、として彼を書くのは如何なものか。
唸りに唸って、何回も彼の生涯を辿った。
絵師の名門の家に生まれ、幼いころから才能を評価されてきた少年。9歳にして、幕府のトップという、雲の上の人物(足利義輝)と対面した時、どれほど胸が高鳴ったことだろう。
20代で、この将軍のために仕事を引き受けた時。そして、その将軍が壮絶な最期を遂げたと知った時。彼のために描いた<洛中洛外図屏風>を前に、どんな思いを抱いていただろう。
その次に現れたパトロン織田信長も、彼の才に眼をかけ、安土へと招いた。晴れがましくも、同時に、命を賭けて取り組まなければならなかった仕事。だが、もっとも充実していただろう時期。
それが、信長の横死によって終わった時、そして安土城と共に、彼の描いた作品群が灰になってしまった時。どれほど打ちのめされただろう。
それでも、彼は生きてひたすら前へと進んだ。振り向かず、ひたすら前だけを見続けた。
やがて、名実共にトップの地位を手に入れた時、かつてパトロンたちを襲った下剋上の牙が自分にも迫っていることに気づく…。
そこまで来て、ようやく少しわかってきたものがあった。
狩野派の統領として、一人の絵師として、この男は、必死に生きたのだ、と。特に等伯に脅かされはじめた頃の、内側から焼かれていくような苦悩。負けたくないし、負けてはいけない。
妨害に成功して間もなく、永徳は仕事中に倒れる。それから死に至るまで、苦悩から解放されることはなかっただろう。
床の中で、彼は、ひたすら絵のことを考えていたのではないだろうか。
絵は、彼にとって全てだったはずだ。描くことさえできれば、道は開ける。彼は、そうして生きてきた。ひたすら前へと進んできた。だが、もうこれ以上先に進めない、とわかってしまったら―――。
そんな永徳の内面を書きたい。
原稿を書きあげて、先方に送り、机の上に突っ伏しながら、そんなことを思った。この記事に書ききれなかったことを、書きたい。彼の内面を深く掘り下げてみたい。
そして、最近同じように「書きたい」と考え続けていることがもう一つある。
長谷川等伯を書きたい。
立場は違えど、敵対する形にはなったとしても、彼もまた乱世を必死で生きた一人の人間だった。
彼とも、向き合ってみたい。
そして、その成果は、このnoteに書きたいと思っている。
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