【感想】シミズくんとヤマウチくん 我ら非実在の恋人たち
本文は「シミズくんとヤマウチくんわれら非実在の恋人たち」(山内尚/清水えす子)についての感想文です。
軽やかで繊細でシフォンケーキのような、どんな味も内に含んで、そのまま実体を変えてしまいそうな軽やかな不安定さと、コミカルだけど誌面にしっかりと線を刻んで清水さんの軽やかな文章を繋ぎ止める山内さんの漫画が絶妙な作品だった。
名前をつけてしまうと取りこぼしてしまう存在について、「非実在の恋人たち」という秀逸なタイトルをつけてラッピングされた本は、どうにかこうにか学生を生き抜いて社会に放り出された自分に軽やかなレースの鎧を授けてくれるようだったのだ。
先に述べておけば、自分自身は山内さんとは違った形のノンバイナリーである。自分でもいまいちよくわかっていないが、今のところは無性に近い自認だ。星屑よりも多くある性の形の中で、無性の者の無性性も無限のバリエーションがあるから、ここでの仔細な説明は割愛する。
また、この文は本書の具体的な内容よりは本書に触発された自分自身に関する話であることを先に断っておく。
「生活に必要ないものこそ愛さないでどうする」と、清水さん同様にいつからか思って生きてきた。生活に必要のないもの、生きるに必要のないものはどうしても切羽詰まった社会では蔑ろにされてしまう。件の疫病の最盛期に「生きるに必要ないもの」を愛することの重さと足元の不安定さを痛感した。それからより意識的になったように感じる。
それから少しして、大学で「生産的であること」の呪縛の話を聞いた。パノプティコンで有名なミシェル・フーコーの理論である。彼はちょうど100年くらい前の思想家であ李哲学者であり同性愛者だ。彼の理論を聞いた私はたかだか数百年くらいの歴史と価値観に自分たちは縛られていることの馬鹿馬鹿しさを感じた。同時に、たかだか数百年くらいの価値観で世界はこんなにも窮屈になってしまうなら、きっとたかだか数十年でこの世界も壊せるのでは……?と思いたくなった。
自分の持つ苦しさの源泉が「生産的であること」の呪縛であると確信を持ったのは、いよいよもって卒業論文に取り掛からなければならなくなった頃だ。自分の愛するもののことをそっと取りあげて、ぞんざいに扱う人々のことを冷静に分析する。そんな論文を四苦八苦して書き上げた時、教授から「あなたの愛するものを愛してるって叫んでも大丈夫だっていう、盛大な確認作業だったね」と声をかけられた。そこでようやく、言葉になっていなかった自分の絡まった生産性という言葉の解き口を見つけたのだと思う。
残念ながら自分はまだこの再生産の糸を解ききれていない。まだまだ自分が勝手に抱え込んでしまっている息苦しさの手放し方を模索している最中だ。同時刊行の山内さんのノンバイナリースタイルブックで触れられていた、ノンバイナリーが働くことの難しさに、今まさに直面しそうになっているくらいなのだ。それでも、大学時代に自分のことを「なんて扱ったらいいかわからない」とこちらを思い遣って悩んでくれた同期の存在や、服を通じて同じ方向を向いてくれる方々、そして自分に巻き込まれてくれている相方の存在の貴重さを支えにしていけると今なら思える。
お二人の書いたこの作品は、こうして右往左往している自分の道で戯れる人懐っこい鬼火になったと残して、筆を置く。
余談ながら自分の卒論のURLをここに記載しておく。
誰かの救いになれば幸いである。
https://drive.google.com/file/d/1a3xrmKIpXRnl6ogD3hKohThEfsdAtcYA/view?usp=sharing