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苦手な3月がなんとか終わった。

去年と一昨年の2年間、大きく体調を崩して鬱っぽくなるのはたいてい3月だった。だから今年は、主治医の先生にその傾向を伝え、事前に薬を増やしてもらった。そしてできるだけ"止まらないように”動き続けた。(相変わらず休むのが下手なだけ)

結果的には大きく崩れることもなく過ごすことができた。

できた、のだけれど、やっぱり春は感情がよく動いて波打つ。もう2年、またはそれ以上の付き合いだから、自分のなかに留めるか昇華させることだけはできてしまう。またいろんな人格の自分が出てきては引っ込み、を繰り返す。怒り悲しみで支配されたとしても、冷静沈着な自分が出てきて沈めてくれる。そんな調子なので、自分がなにを思ってなにを望んでいるのか、分からなくなることがよくある。良く言えば自分のことが理解できてきて、制御できるオトナになったのかもしれない。慣れない環境で未経験の仕事と生活を両立して、生き延びる術は身につけてきた。苦手な3月を克服してきた。

きっと、社会復帰への1歩目を終えたのだと思う。

それには、周りの人の存在が欠かせなかった。夜遅くに帰ってくるのを待っていてくれる恋人。サポートしてくれる家族。見守ってくれる友達。思えば、体調を崩していた去年一昨年はひとり暮らしをしていた。ひとり暮らしは経験してよかったと思う。ただ、”帰ったら誰かがいる”という環境はわたしの心の傷の治癒にはかなり重要なことだったのだと後から知った。結果的に同棲をしてから9ヶ月、大きく体調を崩すことはなかった。




3月

鮮やかな黄色のミモザを買った。行きつけのイオンのなかのお花屋さんに入荷しているのを発見して、なるべくお花がふわふわのものを選んだ。その帰り道、ひとりでウキウキしながらミモザを持って歩いた。

ミモザを部屋に飾る。
でも、話に聞いていた通りミモザの花はすぐに枯れて小さくなってしまった。まもなく乾燥してぽろぽろと花が落ちてしまった。

それは、とても儚かった。
以前は儚さに感動したり嬉しく思ったりした。
だけれどなんだか、今はそれが悲しかった。


友達と1日おでかけした日、こじんまりした道の途中にすてきな花屋さんがあった。どうやらご夫婦で営まれているらしく、ドライフラワーをメインに扱っているそのお店はわたしの好みのど真ん中をついてきた。最近は生花を買うようにしていたのに、部屋の中で静かに散ったミモザの姿を見たとき、やっぱりドライフラワーを手にとってしまった。

同棲をしながら、壁の飾りなどは無理を言ってわたし好みにさせてもらっている。美術館のポストカード、ドライフラワー、ハーバリウム。それはおしゃれに見えるから飾っているのではない。ふと見えるところに飾ることで、自分を見失わないようにしているのだと思う。

そう、自分を見失わないように。

自分がなにを思ってなにを望んでいるのか、
好きなもの、感動すること、ときめくこと。
それらにすがりつくことで、自分を見失わないようにする。休むのが下手なわたしが生き延びるための大切な術。



春、やっぱり苦手だ。
それでもこの春空の下でだれかが生きたいと願っていて、だれかが愛しい人の帰りを待っていて、人が想い想われている限り、わたしはその事実に癒やされていくのだと思う。

春のうちに行っておきたい土地がある。その土地の空気を吸って、海を眺めて、わたしを充電したい。それにはきっと、春がいちばん最適な季節だ。


だからわたしは、春を嫌いになれないままでいる。


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