言葉と秋
「60年も過去のことになる。違う高校に進学してからは遠い人になった。秋が来れば思い出す、というよりも私にとっては、彼女を思い出すときが秋なのだ」。
(9月19日毎日新聞朝刊、「初恋の秋」金内二郎さん)
毎日新聞の「女の気持ち/男の気持ち」欄をいつも楽しみに読んでいる。
昨日の朝刊には、75歳の男性が中学生の頃の初恋について綴った投稿が掲載されていた。
この文章の最後の一文に私は胸をつかれた。彼女を思い出すときが秋、なんと美しい表現だろう。
人生の黄昏時を迎えたときにその人の心を彩るのは、若い頃の充実した思い出の効果ばかりではないのだと思う。
他者との出会いと別れ、それに自分自身がどんな意味付けをしたかということ。瑞々しい感性を失わないままに、成熟した穏やかさを獲得していく醍醐味。
ある人が選ぶ表現に、その人の人生と精神世界が見事に結実する瞬間を見るとき、ああ、人間とはかくも魅力的な存在なのだとハッとする。
言葉は不思議だ。子育てをしていると日々実感することだが、言葉の表出の前には必ず理解があり、かけられたことのない言葉は決して身につかない。恐ろしい言葉も美しい言葉も、他者から学ぶことでその人のなかに蓄積されていくのだ。人を欺く言葉も癒す言葉も、罵る言葉も誉める言葉も、憎しみも愛情も必ず「誰か」との相互行為のなかで獲得されてゆく。その事実を噛み締める日々である。
私は自分のなかに溜まっていった言葉を、新しくしたいという強い思いに駆られる。
「使うことのない言葉」として認識していた言葉がいつの間にか自分の外側に飛び出してゆき、自己と他者の理性を損なうとき、その衝動性は信じられないほど、精神を蝕むのである。
言葉を通じて人間性を磨く、ということを改めて思う。未熟さを乗り越えるために、もう一度言葉と向き合うことから始めなければ、と我が身を振り返る。
「初恋の秋」を書いて下さったこのかたに、読者の1人として心から感謝をする。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?