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JR東日本列車内に掲載中の東京女子大学の広告に対しての感想⑥

前置き

 思ったよりずっと早くに下書きが出来てしまったので、いきなり翌日の公開となった。以前からそうだが、筆が乗れば早く書けるのだがやる気が失せると全く書けなくなる。こうしてブログを更新するのも、2019年にはてなブログを更新して以来であり、かなり長期に渡ってブランクが出来てしまうのが困りものである。かく言うこの論評――失礼、あくまで「感想」だったが、これも文章のリハビリのために書いているものなので、更新したと言えるかどうかは微妙なところだが。閑話休題。
 今回は問⑥の広告について感想を述べていく。いくのだが……正直意味不明な質問内容なので感想も「意味不明だった」というのが正直なところ。ただそれで終わっては仕方がないので、ちゃんと読了し、がんばって(本当にがんばって)感想を記していきたい。

問⑥ なぜメディアで恋愛は推奨され、恋愛しないことは推奨されないのでしょうか。(現代教養学部社会コミュニケーション学科)


中央総武線E231系の車内にて

何のこと?

 ふむふむ、なるほどなるほど…………は?
 恋愛が推奨されている? 何のことを言っているのだろうか。皆目見当がつかない。恋愛を推奨する番組など放映していただろうか。いや待て、私はテレビを持っていないし、ティーバーも最近は碌に見ていないので、私が知らないだけで頻繁に放映されているのかもしれない。ふむ、ならば仕方がないか…………。
 と納得しかけたところで、そう言えばこの広告には詳細な説明も付属していたことを思い出す。見出しのインパクトが強くてすっかり忘れていたが、なんだちゃんと書いてあるじゃないか。なになに、「ドラマや映画、漫画など、恋愛をテーマにした作品は広く親しまれています」だと。はーあなるほど、ようやく合点がいった。質問者は恋愛ドラマのことを言っているのか。せっかく恋愛バラエティーなるジャンルの番組があることを思い出したところだったが、どうやらこれは徒労に終わったようだ。
 いや、待ってくれ、何も解決していない。「恋愛を推奨」とは一体何なのか。えーと、「主人公が恋愛することが前提に作られている」だって…………?

 え? あたり前やんけ。

 恋愛小説、恋愛映画、恋愛ドラマ……何でもいいが、ジャンルが「恋愛」であれば、必ず「恋愛」しなければならない。誰も恋愛しない恋愛ドラマは、チーズバーガーからチーズを抜いた状態やたこ焼きからたこを抜いた状態と同じであり、そのアイデンティティを著しく欠いており、最早別のサムシングエルスである。まさにミルコ・クロコップ曰く「おまえは何を言っているんだ」である。

「恋愛」してはいけないということ?

 そしてようやく見えてきた「推奨」の意味だが、どうやら質問者はメディアが恋愛というジャンルを扱うということは、我々に恋愛することを推奨しているということになる、と主張しているらしい。

 ?????

 意味が分からない。ジャンルを扱う”だけ”で無意識に推奨されているだって? それは刷り込みだとかサブリミナルだとか、そんなチャチなもんじゃあ断じてねえ……もっと恐ろしい類の手法だということか。一体何処のDIOなんだそれは! もしくは、メディアが国民に恋愛を強要しているとでも言いたいのだろうか。だとするとそれはかなり重篤な被害妄想である。第一、メディアと言っても一筋縄ではいかない。各社様々な主義主張(本来マスメディアは須らく公平公正をモットーとすべきところだが)を持って取材し報道を行ったり、取材の記録をドキュメンタリーとして公開したりしている。しかも質問者が示しているのは、ドラマ・映画・小説といった個々の作品によるものである。いよいよ以て訳が分からない。この世に何人の小説家と漫画家と脚本家がいると思っているのだろうか。もし仮に一致団結できるならば、つい先日起きた「セクシー田中さん」の作者である芦原妃名子氏がドラマの脚本を巡って命を絶つなどという事象はそもそも起こりえないし、これこそまさに個々人の思惑が入り乱れた結果の悲劇ではないか。というかそもそも、小説家も漫画家も脚本家もメディアではない。メディア=「マスメディア」が指すのはマスコミュニケーションを行う媒体、即ち新聞・出版・放送などであり、従って該当するのは新聞社・出版社・放送局ということになる(ウィキペディア参照)。「メディア」と言う割に槍玉に上げているのは作品群の作者及び関係者であり、いったい誰に対して問いかけ、あるいは批判しているのかが分からない。そして多種多様人それぞれの価値観を持った筆者達が、一堂に会し、足並みを揃えて恋愛を「推奨」しているかの如き質問自体が奇怪な発想としか言いようがない。
 あるいは「恋愛」してほしくない理由でもあるのだろうか
 この辺は前回の質問「光源氏が現代に転生したら、モテると思いますか。」の内容にも被ってくるのだが、なぜこうも男女が交流することに対して過敏に反応し、批判とも取れるような質問をするのだろう。それが”リベラルアーツ”ということなのだろうか。”リベラルアーツ”というのは男女間の分断を深める学問だったのか。そうすると、積極的な交流である「恋愛」は絶対に阻止しなければならない行為になるというのは理解できる。だからこそ、「恋愛」を出版、あるいは放映するメディアの行為は明らかに問題だし、むしろ「非恋愛」について積極的に発信する必要がある、ということだろうか。なんて恐ろしい。高卒の私には正直ちんぷんかんぷんでさっぱりだが、恐らくそういうことなのだろう。”リベラルアーツ”とは、なんと恐ろしい学問なのか。くわばらくわばら。

需要と供給がものを言う

 ……なんだか腹一杯なのでもうこの辺にしたいのだが、もう少し読み進めてみよう。質問者はメディアが営利目的で恋愛を商品にしているとしている。恋愛が商品……また気持ちの悪い言葉だが、では実際にメディアが「恋愛」という商品を売っていると仮定として、例えば日中に放映されているいわゆる「昼ドラ」と呼ばれるジャンルがなぜ人気なのかを思い出してほしい。これは男女間のドロドロした複雑な「恋愛」模様を描く様が視聴者にとって需要があるからに他ならない。つまり、その先には買い手がおり、市場が成り立っているからこそ「恋愛」を販売し続けているのではないか。少年漫画だろうと少女漫画だろうと、読者の需要があれば「恋愛」漫画の連載は継続するし、読者に好評なら「恋愛」小説は売れ続け、やがてベストセラーとなる。結局のところ「恋愛」という需要があるから供給しているに過ぎないわけで、需要が収まれば供給も縮小する。資本主義経済としては至って健全な動きである。これに対して彼らが「恋愛を推奨」してきている(だから不愉快だ、と続きそうな雰囲気だが)というのは全く的を射ておらず、お門違いというほかない。嫌だと言うならば話は簡単で、自分から見なければいいし聞かなければいい、これに尽きるのではないか。
 当然この後に続く「個人化する社会」を憂いて、「国民よ、もっと恋愛しろ!」という意図でもって筆を執ったり、あるいはカメラを向けたりということもほとんどない。強いて言うなら、作り手が見てほしい、聞いてほしい、読んでほしいと思ったから作った、そして世に送り出した。それだけである。つまり質問者が恋愛しないことを推奨するストーリーを欲しているなら、自分で書けばよいのだ。自身がその先駆者となって作品を世に送り出し、読者、あるいは視聴者に向けて「非恋愛」を広く訴えかければ良いだけの話である(無論、”リベラルアーツ”の代表として)。もちろん、その思想がどれだけ他人に受け入れられるかは別問題だが、そんなことは気にせず、ぜひ作ってほしい。もし完成したのなら、私も積極的に本を購入、あるいは映像を視聴し、またこの場でレビューしたいと思っている。

結論

 さて、それで……恋愛しないことを推奨されない理由だったか。ようやく何が言いたいのかが30%ほど見えてきたところで、答えは簡単。需要がない、または作り手がいないから、である。これは私からの要望だが、もう少し我々にも何を言っているのか分かるように質問をしてほしい。俗に言う「日本語でおk」という奴だ。そしてこの疑問(?)を機に、質問者の中に創作意欲が沸々と沸き上がり、日本にまた新たな物語のジャンルを生み出してくれることを願って、私の感想とさせていただく。


答え おまえは何を言っているんだ

おまえは何を言っているんだ


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