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【井戸尻考古館】縄文ウィークエンド「特別な展示解説」を見に行く

はじめに

 2月23日は令和に入り天皇誕生日ですが、その前から山梨県では「富士山の日」、井戸尻考古館のある長野県富士見町では「ふじみの日」となっています。
 そして井戸尻考古館では、「ふじみの日」の新たな企画として3連休を「223ふじみ縄文ウィークエンド」と称して学芸員が日替わりで、"沼のように深い"展示解説を行いました。そのうち筆者が訪れた初日の模様を紹介します。

初日まさかの雪、最終日はもっと雪

ふじみの日

 これまでも井戸尻考古館では「ふじみの日」付近の土日を入館無料にするなどしてまいりましたが、さらに今年は一味違う展示解説をやってみようと学芸員たちが相談して決めたといいます。
 展示解説の3日間は次のようなラインナップでした。昨年度まで在籍されていたH前館長は退職されていますので学芸員は3人です。
 2/23(祝) S学芸員 縄文トーク
 2/24(土) H学芸員 没後50年企画「井戸尻と藤森栄一」解説
 2/25(日) K館長 縄文トーク

もともとディープな井戸尻考古館が
「ディープな展示解説をします」とは

 2020年(令和2年)2月の緊急事態宣言により、最終回をやらぬまま「井戸尻文化講座」は終了をしました。「井戸尻文化講座」は冬の恒例企画でしたので、なんらかの形で冬に企画があるのはうれしいものがあります。

縄文トーク(展示解説)初日

 しかし、甲信地方では雪・晴・雪であいにくの3日間になりました。

井戸尻史跡公園も雪の中

 筆者が訪れたのは初日(2月23日)でした。雪で道が渋滞し開始数分前に到着してみると、考古館の中は雪だと言ってもたいへんな混雑、これまでは企画展に合わせて展示解説をすると告知してもせいぜい10人も集まればよいほうでした。それが、どういうことか30人以上の人がいます。半分は町内の方、半分は町外の方(県外含む)でした。

雪でも駐車場に車がすらり

 ロビーには、あたたかいハス茶が用意されていました。ハスの葉を乾燥させてから煮出した真っ赤なお茶です。

ふじみの日で入館無料
紙コップに赤いハス茶、甘く少し薬草っぽい

富士見町の遺跡

 さて、お待ちかねの縄文トークです。まず初日はいつもと違う視点からお話をするそうです。何がどんなに違うのか気になるところです。
 町外の人たちにも分かるように、この富士見町にはどのくらい遺跡があるのか、そういった概説から始まります。
 この辺りは八ヶ岳の西南麓で茅野市から富士見町、山梨県北杜市にかけて縄文代中期の遺跡のたいへん多い地域です。富士見町内にある遺跡は204ヵ所で、そのうち8割が縄文時代の遺跡といいます。残りは平安時代以降です。

富士見町の地図と遺跡 (許可を得て解説資料を撮影)

 上記画像の正方形部分が井戸尻遺跡群で、下記画像が井戸尻遺跡群の分布図になります。

井戸尻遺跡群を中心に遺跡の分布図

 このあたりの地層は30センチも耕すと遺跡のあるローム層まで到達してしまうそうです。大正時代に考古学者鳥居龍蔵によるドルメン類似遺跡(富士見町立沢の坪平遺跡)が富士見町で最初の遺跡の発掘と言われているそうです。

ドルメン類似遺跡 出典 : 信州の文化財を探す

 そのような事情もあってか、井戸尻考古館では富士見町の遺跡地図が書籍類と一緒に販売されています。だいたいの自治体は遺跡地図を作っているのですが普通に売っているのは富士見町ならではでしょう。もし、家の新築など土地が遺跡にかかるかどうか確認するだけなら井戸尻考古館(文化財係)へ尋ねれば即答なのですが。

販売用見本のためたいぶ折り目が

井戸尻考古館と発掘の歴史

 井戸尻遺跡群の発掘の歴史にも少し触れています。井戸尻遺跡群の発掘は、現在企画展示をしている在野の考古学者、藤森栄一がきっかけで始まりました。藤森栄一は、1956年(昭和31年)「境史学会」の発会式の記念講演会で「そらそこの、公民館の下の丘の地下にも君たちの祖先の縄文人が掘り起こしてくれるのを待っているんだ」と語りかけたといいます。そして井戸尻保存会の発足へつながるのです。井戸尻保存会には、後に井戸尻考古館の初代館長になる武藤雄六(1930年~2022年、昭和5年~令和4年)もいました。
 もっとも武藤雄六はそれより前に土器を掘り起こしています。昭和23年、鳥居龍蔵の『諏訪史第1巻』を読み黒曜石を探しに歩いていて、地面から飛び出していた土器につまずきました。桑の木の棒を見つけてきてその土器を掘り起こし、薬局で聞いて接着法を考案して接合しました。その土器は「くわんぼう(桑の棒)の土器」(九兵衛尾根遺跡)といわれ、普段は井戸尻考古館の収蔵庫にあるそうです。

 また、昨年(令和5年)まで調査のための発掘をしていた考古館北側の曽利遺跡についても紹介しています。
 ドローンで撮影した発掘現場の画像があります。赤い屋根の建物が考古館と収蔵庫です。その北側の私有地にトレンチ(試掘溝)を2本掘ったことが分かります。

ドローンで撮影

 さらに2本トレンチ近くを撮影した画像です。発掘調査では、住居址が6軒確認されました。下のトレンチの左側の住居だけが平安時代のものだといいます。

中心で見上げる発掘スタッフたち

 この発掘調査からは、見事な完全体で知り出された大きなこぶのある竹筒形有孔鍔付土器が完全な形で発見されました。

竹筒形有孔鍔付土器、曽利遺跡(井戸尻I式、中期中葉) 2023年7月

 現地で説明会も行われています。その時の模様は拙稿をご覧ください。

井戸尻編年

 S学芸員は土器の編年について、車の年式をたとえに説明を続けます。
 車の車種と年式を見ればいつの時代の車か調べれば分かります。家電なども、デザインを見れば何年ごろの商品かは分かります。土器も模様や形を見れば時代の新しい古いを判別して土器の年代を判別できます。そのためものさしとなるものが「編年」です。
 井戸尻考古館では、中部高地の縄文土器について井戸尻遺跡周辺で見つかった土器の文様とその変化を遂げていく様を整理して「井戸尻編年」として縄文時代中期の編年を完成させました。編年を作り上げるということは、それまでの発掘調査の積み重ねがありました。
 考古学を学ぶときに「井戸尻編年」の名前だけは登場するほど今では有名な中部高地縄文の「土器編年」とされています。
 余談ですが、筆者も学生時代「編年」の課題があり「井戸尻編年」をテーマに課題を提出しました。

最新の井戸尻編年 2023年4月

 井戸尻考古館の展示方法は、編年に沿って時代の古い方から新しい方におおよそ時計周りに展示されています。展示室中ほどに重要文化財の「藤内遺跡」、終盤になると曽利遺跡などは縄文時代後期に入っていきます。

縄文前期(左)から中期(右)と年代順の並び
藤内遺跡の展示の前で解説

農耕論

 井戸尻考古館は土器の展示もさることながら石器の展示が大変多い特徴があります。とくに土堀りの石器について種類が多いのだといいます。これだけ種類の多い土堀りの石器は農具であり農耕文化があったと考えているのです。

農具であろう石器
石包丁
摺り石
黒曜石

本物の土器にさわる

 さて、いよいよこれまでの展示解説にない内容に突入します。土器片の入ったコンテナがスタッフにより運び込まれました。参加者全員、参加者は土器片を1つずつ手にとり戻ります。
 土器の模様を観察します。縄文時代の縄文は縄目の模様からの命名は有名なことですが、縄で模様をつけた土器は中部高地地方には少ないのです。

補修穴のある土器片を説明
足元には土器片のコンテナ
 土器片の山
もうひとつ分あります

 筆者の手にした土器片は、深鉢形土器(バケツのような形をした土器)の一部だと思います。ひも状にした粘土が貼ってあり、その周囲を竹で小さく弧を描く刻み文様を付けた土器です。

筆者の手にした土器片

似た土器を探す

 なぜ先に井戸尻編年や、展示方法が時代の古い方から新しい方に並んでいる話をしたのかというと、手にした土器片と同じ文様のある土器を展示室で実際に見つけようというのです。そうすることで井戸尻編年を体験するのです。

この辺りか

 するとありました。このあたりが近いでしょうか。縄文時代中期の土器です。

この辺りか

答えあわせ

 用意された土器片はすべて藤内遺跡のものでした。藤内遺跡の展示の中か、それに近い年代の辺りに土器片と同じ文様がみつかるはずです。
 これらの土器片は、藤内遺跡にある畑の持ち主(故人)が保管していたものです。その持ち主は、茅野の尖石遺跡の発掘などで知られる考古学者宮坂英弌ふさかずの元で発掘を手伝ったことがあり、井戸尻遺跡群の調査にも作業員として手伝っていた方でした。自身の畑(藤内遺跡)で見つかったものを保管しており、その方が亡くなり現在は富士見町の所有になりました。

藤内遺跡の展示

 縄文トークの終了後、コンテナの土器片を物色させていただきました。たとえば、土器に中央にある双眼部分など面白いものがいっぱいでした。

双眼部分らしき破片
区画文の一部らしき破片
 こんなのが畑から出てきたらびっくりです

 これが、説明にあった補修孔のついた破片です。浅鉢の破片と思われます。縄文人は割れた土器は穴をあけて紐を通してつなぎ合わせて使っていました。また、壊れた土器の底だけ再利用することなどもしていました。

補修孔のついた破片

 ちなみに土器の文様についても井戸尻考古館には深い深い研究があるのですが、そのあたりは今回の解説にはありませんでした。「最終日の館長が語るかもしれない」とS学芸員は言っていましたが、果たしてどうだったでしょうか。

おわりに

 展示解説の初日(縄文トーク)は土器片に触れ、観察して、編年を体験するというものした。それもかの有名な藤内遺跡の土器片触れることができました。"沼のように深い"展示解説というよりも、むしろ貴重な体験をさせてもらいました。
 ところで、本年度の入館者が9000人になり1万人も近いとお話を伺いました。客足が戻ってきています。また、考古館の新築移転計画の建設が決定し地権者と近く契約に至ることが公表された旨も伺いました。移転地は地元紙で報道されていますが、まだ私有地のため無用な立ち入りはせず、静かに新考古館着工を待ちたいものです。


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