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【笛吹市春日居郷土館】企画展「津田青楓-前進の時代-」を見に行く

はじめに

 笛吹市春日居郷土館・小川正子記念館では、企画展示室にて年数回の企画展を行っています。展示テーマは多彩で、美術、考古、笛吹市ゆかりの人物などです。また、夏には恒例の「わが町の八月十五日展」が行われます。
 今回、「津田青楓-前進の時代-」(2022.9.14~12.18)として、笛吹市青楓美術館が所蔵する青楓の作品から前半生に関する作品を展示しています。

建物横のサインボード

 「わが町の八月十五日展」については拙稿もご覧ください。

ミニ展示、笛吹市の通史展・縄文時代編

 日本遺産「星降る中部高地の縄文世界」の「三十三番土偶札所巡り」の札所になっていますが、考古に関する常設展示はありません。
 ご朱印の土偶「みさかっぱ」「ヤッホー」などがエントランスにあって、その隣にミニ展示の考古資料があります。

左より「みさかっぱ」「ヤッホー」「肩こり土偶」「妊婦土偶」

 今は「縄文時代編」として、土偶「てらたん」(笛吹市境川町、前付遺跡)と小型有孔鍔付土器(笛吹市御坂町、市六遺跡)と翡翠製硬玉大珠(笛吹市御坂町、三光遺跡)が展示されています。
 有孔鍔付土器は完全体のようです。ヒスイもたいへん大きなものです。どちらも逸品です。

「てらたん」と小型有孔鍔付土器
翡翠製硬玉大珠

津田青楓

 津田青楓(1980年~1978年、明治13年~昭和53年)は、画家、書家、歌人です。また二科会を設立した人物の一人です。
 夏目漱石の著作『道草』『明暗』の装丁は青楓によるものです。また、漱石の絵の師匠でもあります
 青楓の活動は4つの時代に分けられます。古い年代順に並べると
 ・図案の時代
 ・洋画の時代
 ・日本画の時代
 ・書の時代
となります。明治から昭和を生きた青楓ですが、時代ごとにまったく異なる分野で作品を残しています。「漱石に愛された画家」「背く画家」など異名も氏の人生を物語っているようです。

津田青楓 (96歳) 出典 : 『青楓美術館図録』
津田青楓略年譜 出典 : 青楓美術館配布資料

「津田青楓ー前進の時代ー」

 本展では、図案の時代、洋画の時代、そして洋画の断筆に至る経緯について扱います。晩年の青楓からは想像もできない波乱の前半生を青楓美術館の収蔵する作品700点のうち90点で紹介します。
 展示室の撮影は出来ませんが、館内の資料とともに青楓の前半生を紹介します。

チラシ、背景色は「まだ青い楓」の緑色
エントランスより展示室(一部加工)

生い立ち

 展示には、日本画《亀吉生家京都中京区立花道界隈の由来》(昭和48年)があります。晩年生家を回想して描いたものです。また、日本画《父・一葉像》(昭和10年)は、生け花去風流の家元の父・西川源兵衛(一葉)を描いたもので、父の略歴も記されています。
 青楓は、1980年(明治13年)、京都の生け花の家元の次男として生まれました。本名は亀次郎、跡取りのいない母方の祖父の養子となり津田姓となりました。
 小学校卒業後の14歳で京都の千切屋ちぎりやにて奉公します。しかし、17歳で奉公先を飛び出しています。このとき自立を目指して京都市立染織学校に入学し、さらに歴史画家谷口香嶠に入門しています。
 養子に出されたり、奉公先を出奔したり10代にして波乱が始まります。

図案家・津田青楓

 展示には青楓3番目の図案集の『華紋譜、花の巻』(明治32年)、『華紋譜、楓の巻』(明治33年)があります。

華紋譜(花の巻)1901年
出典 : 『背く画家 津田青楓とあゆむ明治・大正・昭和』
華紋譜(楓の巻)1901年
出典 : 『背く画家 津田青楓とあゆむ明治・大正・昭和』

 京都市立染織学校を卒業後の青楓は、助手として勤めながら染物屋で働いていました。その頃の京都の呉服問屋では新しい図案を求めていて、それらの図書も出版されていました。自活のために図版を作り版元へ持ち込んだところ『宮古錦』として出版されました。そのとき、兄(源次郎)が「青楓」の雅号をつけてくれたもので、青い楓がやがて赤くなり色を増していく将来性を期待してのものです。
 その後、図案集は『華橘』(明治32年)、『華紋譜、花の巻』(明治32年)、『華紋譜、楓の巻』(明治33年)と刊行されました。
 なお『華紋譜、花の巻』、『華紋譜、楓の巻』については複写したものを青楓美術館で手に取ることができます

従軍体験

 展示には有名な『うずら衣』(明治36年)と『落柿』上下(明治39年)があります。

『うずら衣』1903年
出典 : 『背く画家 津田青楓とあゆむ明治・大正・昭和』
『落柿 上』『落柿 下』1906年
出典 : 『背く画家 津田青楓とあゆむ明治・大正・昭和』

 1900年(明治33年)、20歳の時に青楓は徴兵されています。京都の深草歩兵38連隊へ入隊し、訓練はつらいものだったようです。この頃『青もみぢ』6巻(明治32年~34年)を刊行していて入隊前に作品を書き溜めていたものです。また、入隊中に見た深草の自然の景色を図案にしたものが『うずら衣』でした。
 1903年(明治36年)、兵役を終えますが、1904年(明治37年)、日露戦争開戦のため再び招集され戦地へ赴きます。旅順侵攻の激戦地二〇三高地へ送られ凄惨な体験をしています。
 1906年(明治39年)、除隊となり『落柿』(明治39年)を発表しています。
 青楓が図案集を手掛けたのは『宮古錦』(明治32年)に始まり、『落柿』(明治39年)までのわずか数年です。しかもその時代は兵役の時代とほぼ重なるのです。
 『うずら衣』も青楓美術館で複写したものを手に取ることができます。

フランス留学

 展示は、《顔》(明治41年)、《MAM BEBE》(明治42年)、《ツネ嬢》(明治44年)、《花鳥図》(制作年不詳)、《静物書架の一隅》(明治44年)と洋画が並びます。

《顔》1908年
出典 : 『背く画家 津田青楓とあゆむ明治・大正・昭和』
《MON BEBE1909年
出典 : 『背く画家 津田青楓とあゆむ明治・大正・昭和』
《ツネ嬢》1911年
出典 : 『背く画家 津田青楓とあゆむ明治・大正・昭和』
《花鳥図》制作年不詳
出典 : 『背く画家 津田青楓とあゆむ明治・大正・昭和』

 1907年 (明治40年)、青楓は農商務省海外実業練習生としてフランスに3年間留学しています。パリの美術学校に入学し初歩のデッサンから学び直しました。留学中に安井曽太郎、荻原守衛、高村光太郎といった画家や彫刻家と交遊し、本格的に洋画家としての道を歩み出しました。
 展示の『顔』『MAM BEBE』の2枚は留学中の作品です。
 帰国後は、洋画だけでなく刺繍制作を続けた時期もあり、《フランス刺繍 A,B》(大正3年)はたいへん大きな作品で青楓美術館に常設展示されています。

漱石との出会い

 展示は、文庫版の『漱石と十弟子』(昭和24年)など、青楓の著作4点のほか、青楓が装幀した漱石の著作『明暗』大正6年など4点、鈴木三重吉『三重吉全集』10巻(大正4年~5年)などがあります。

夏目漱石『明暗』岩波書店、1917年

 1911年(明治44年)、青楓は、高村光太郎のすすめで、東京へ転居しています。東京では、夏目漱石の自宅(漱石山房)を訪れるようになり若手文学者の集まり「木曜会」のメンバーとも交流します。
 メンバーの一人森田草平から装幀を依頼され、それが漱石などの装幀を手掛けるきっかけとなっています。
 また、漱石の信頼も厚く、漱石に絵の手ほどきもしています。
 「木曜会」との交流について青楓は『漱石と十弟子』に著しています。

 展示には、洋画《夏目愛子像》(昭和6年)があります。漱石の四女を描いたもので著名な作品です。ほかに妻を描いた日本画《津田敏子像》制作年不詳、などが並びます。

《夏目愛子像》1931年
出典 : 『青楓美術館図録』

二科会設立

 展示は《青楓49歳像》(昭和3年)、《S子像》(昭和3年)、《ひかる像》(昭和初期)、《変電所の庭》(昭和5年)など洋画の人物画や風景画が15点で、ほとんどが昭和初期に描かれた作品です。ほかに大正末期から昭和初期のデッサン画14点があります。

《青楓49歳像》1928年
出典 : 『背く画家 津田青楓とあゆむ明治・大正・昭和』
ひかる像 (青楓の三女)
《変電所の庭》1930年
出典 : 『背く画家 津田青楓とあゆむ明治・大正・昭和』

 1914年(大正3年)に青楓は、二科会の創立に参加しています。これは、文展(現日展)洋画部門について、日本画部門と同様に、新人画家の登竜門となるよう、審査における新旧二科制の設置を要望したものの、文部省はこの願いを受け入れなかったため、青楓らは文展を脱退し「二科会」を結成しました。後に「二科会」からは、幾つかの団体が独立しましたが、「二科展」はいまも毎年開催され、創立時の気風どおり新しい傾向の作家に活躍の場となっています。
 青楓は、二科展に出品する一方で日本画も描き、また短歌誌の同人になるなど多彩な活躍を見せています。

青楓洋画塾

 展示は、ポスターが6点です。洋画塾の塾生募集や、洋画塾展のものです。昭和6年から昭和8年のものです。
 関東大震災の被害受けた青楓は、東京から京都へ居を移しています。昭和4年には、京都で「津田洋画塾」を起こしました。

《犠牲者》と洋画断筆

 展示は《新議会》(昭和6年・元のタイトルは《ブルジョワ議会と民衆の生活》)を描いた絵葉書のほか、《犠牲者(習作)》(昭和8年)、同時期に描かれた《怒涛》(昭和8年頃)があります。

《怒涛》1932年頃
出典 : 『背く画家 津田青楓とあゆむ明治・大正・昭和』
《犠牲者(習作)》1933 出典 : 『青楓美術館図録』

 マルクス主義の経済学者河上肇(1879年~1946年・明治12年~昭和21年)に感化された青楓は、次第にプロレタリア運動に加わります。
 《新議会》はきれいな国会議事堂と民衆の粗末なバラック小屋を対比させた作品で、社会問題への強い意識が感じられます。
 《犠牲者》は獄死した小林多喜二をモチーフに、拷問を受けた運動家の姿を描いた作品です。しかし《犠牲者》の制作中に青楓は警察に逮捕されています。その後、青楓はプロレタリア運動と関係を断つことを表明、洋画も洋画塾もやめ、二科会からも脱会しています。その後は日本画、南画へ転向するのです。
 《犠牲者》の習作が晩年見つかり、小池唯則に寄贈されたことで青楓美術館の代表作品のひとつになっています。また逮捕拘留中に詠んだ歌が、青楓美術館「小池唯則と津田青楓」(2022.9.17~2023.4.16)にて展示されています。小池唯則から請われて晩年書にしたためたものです。

おわりに

 青楓にに興味を持たれたている方に対して、半生の分かる展示でした。青楓美術館がこれだけのものを収蔵していることに感心いたしました。
 ただし、今回の展示については青楓美術館の図録などからそのまま転載したと思われる解説が多く、見せ方も工夫もなく、会場が郷土資料館の展示室ということを考慮しても美術展とは何かが違う美術展でした。

参考文献
津田青楓『津田青楓の図案―芸術とデザイン』芸艸堂、2008
練馬区立美術館編『背く画家 津田青楓とあゆむ明治・大正・昭和』芸艸堂、2020


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