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【ミュージアム都留】企画展「田村四将軍~日露戦争の立役者と山梨の名刀~」を見に行く

はじめに

 都留市には市立博物館としてミュージアム都留があります。1999年(平成11年)の開館です。
 すでに終了している展示ですが、企画展「田村四将軍~日露戦争の立役者と山梨の名刀~」(2023.7.22~9.18)を9月に見てまいりましたので、紹介いたします。

ミュージアム都留の外観

ミュージアム都留

 ミュージアム都留は、富士急行線谷村町駅の至近にある市立博物館です。駅前には小さな商店が残り、のどかな雰囲気があります。また、裏手の山は勝山城です。

富士急行線谷村町駅と背後に勝山城
館内エントランスにある勝山城のジオラマ

 博物館の中に、都留市出身の画家増田誠の作品を常設展示しています。訪問時は展示替えのため閉鎖されていました。もともとは市内の別の建物に増田誠美術館があったのですが、2015年(平成27年)に博物館内に統合されたものです。
 館内には、増田誠の写真とともに大型絵画《オリンポスの神々とギガンテスの戦い》が飾られています。

正面の扉が休館中の増田誠展示室
増田誠《オリンポスの神々とギガンテスの戦い》
増田誠関連グッズ

田村四将軍~日露戦争の立役者と山梨の名刀~

 正面が常設展示室、左が企画展示室で「田村四将軍~日露戦争の立役者と山梨の名刀~」(2023.7.22~9.18)となります。
 常設展は縄文時代から始まり、城下町や織物の町として栄えた都留の歴史を紹介しています。

展示室入口

 田村家からは田村怡与造いよぞう(長男)をはじめ沖之甫おきのすけ(弟、六男)、守衛もりえ(弟、七男)、義富よしとみ(甥、三男の息子)と明治から大正、昭和の戦中にかけて4人の陸軍中将を輩出しています。また怡与造らの父である田村義事よしことは一徳齋助則の名で山梨随一の刀匠でした。
 田村義事の子は7男1女でした。次男は母方の家を相続し、田村家は三男の濤二郎(44代目当主)が相続しています。本年3月46代目当主の正弘氏が逝去し、47代目が現在の当主です。

田村怡与造(長男)と沖之甫(六男)、馬上は守衛(七男)
右上に、怡与造と義事(一徳齋助則)

 一部の資料や刀剣は撮影は可能ですが、田村家が所有する資料(史料)は撮影できません。

展示室冒頭部の概観

 都留市内の個人のコレクションで明治大正期の軍人の写真があります。こちらは田村家の人たちではありませんが、雰囲気は伝わります。

明治大正期の軍人

田村家と中尾神社

 笛吹市一宮町中尾に所在する中尾神社には田村家の四将軍を顕彰する碑があります。中尾神社は、笛吹市青楓せいふう美術館から数百メートルの距離にあります。
 代々宮司を田村家が務めてきました。中尾神社の歴史は長く、平安時代の『延喜式』に記載された神社として記録が残ります。また、社史では起源を紀元前23年まで遡るといいます。宮司は、幕府直参の士族の身分を有し、苗字帯刀と輿に乗ること、槍持ちの帯同を許されていたといいます。

田村四将軍顕彰碑

 また、田村家資料を保管展示するために田村家資料館が隣接する田村家の屋敷の中にあります。2020年(令和2年)に一般公開を計画していたものですが現在も公開はされていません。そうしたなかミュージアム都留での資料公開と機会となりました。
 田村家の地元である笛吹市にも総合博物館を謳う「春日居郷土館・小川正子記念館」がありますがパネルで怡与造を紹介することがある程度で田村家を扱うことは皆無です。今回の企画展示は刀剣を専門とするミュージアム都留の学芸員が田村義事(刀匠一徳齋助則)を高く評価していた結実と推察します。

中尾神社側から見た田村家資料館

田村義事(父・刀匠一徳齋助則)

 田村義事よしことは、田村家の四将軍たちの父(祖父)です。代々田村家が務める中尾神社の宮司であるとともに、刀匠一徳齊助則であり、養蚕家でもありました。
 信玄公の時代より刀鍛冶は他国より呼び寄せることが多く山梨の刀鍛冶に有名な人物はほとんどいなかったといいます。そんな山梨において一徳齊助則は、幕末から明治にかけての山梨随一の刀鍛冶といわれました。

田村義事(一徳齊助則)の解説パネル

 展示は一徳齊助則の刀のほか、養蚕に関する田村家の所有する資料です。刀剣について筆者は知識を持ち合わせておりませんので、キャプションにある鑑賞のポイントをそのまま引用しております。

一徳齊助則(田村義事)の資料、概観のみ

 一徳齊助則の太刀があります。この太刀は、明治23年の第5回内国博覧会に出品されたもののうちの1振です。山梨県の有形文化財に指定されています。
 内国博覧会において、著名な刀鍛冶月山貞一がっさんさだかずとともに表彰されています。それにより明治天皇より短刀の注文が入ったといいます。

一徳齊助則の太刀

 銘表 : 甲陽一徳齊藤原助年六十三造之
  裏 : 明治廿二年十一月吉辰

よく詰んだ新々刀特有の無地肌に、子乱の入った直刃を焼いている。廃刀令以前の山梨県出身の刀鍛冶では最も有名な刀工であり、この長大な刀身から相当な技術を持っていたことが伺える。

出典 : 鑑賞のポイント

 続いて、一徳齊助則の刀です。太刀よりも反りが浅いものを刀というようです。

一徳齊助則の刀
一徳齊助則の刀 切っ先部分

 銘表 : 甲陽一徳齊藤原助則神務暇造之
  裏 : 慶応元年 霜月吉辰

よく詰んだ新々刀特有の無地肌に、子互の目・小丁子を交えた刃文を焼いている。

出典 : 鑑賞のポイント


 続いて、中央のケースには一徳齊助則の短剣です。物打ち(切っ先から約9センチ前後)部分が注目のポイントだそうですが、画像を撮っておりませんでした。

一徳齊助則の短剣

 銘表 : 甲陽一徳齊藤原助則神務暇造之
  裏 : 慶応二年 八月吉辰

物打ち(切っ先から約9センチ前後)部分にはブツブツとした荒沸(あらにえ)がよく見える。

出典 : 鑑賞のポイント

 続いて槍が2本です。槍持ちの帯同も許されていた田村家でしたので、槍持ち用の槍です。

槍持ち用の槍

 銘 : 安吉(上) / 国助(下)

二本とも錆びており、刃の存在が分からないほどであった。田村家資料館館では数本の槍を保管しているが、前当主田村弘正はこの日本が義事の槍持ち用の槍ではないかと話していた。

出典 : 鑑賞のポイント

 義事(一徳齊助則)の鍛冶道具一式です。

一徳齊助則の鍛冶道具

 彫金もされていたようで、襖の把手があります。明治30年、義事が71歳の時の作品です。中国の「瀟湘八景しょうしょうはっけい」になぞらえ、琵琶湖周辺の風景や名所を選んだ「近江八景」を彫金で再現したものです。そのうちの5点を展示しています。

一徳齊助則による彫金の襖把手
近江八景すべてを解説したパネル

 田村義事は養蚕家としても知られ、田村家には養蚕に関する資料も残されています。
 余談ですが、桃畑と葡萄畑が広がる笛吹市一宮町もかつては養蚕が盛んな地域でした。明治時代、蒸気機関車の煙で桑の葉が枯れるとして中央線建設に反対したため鉄道が町内に来なかったとする、言い伝えの残る地域のひとつです。

義事の養蚕関連資料 出典 : 図録『田村四将軍 』

明治の軍服

 田村家のものではありませんが、田村怡与造たちの着用していた時代の同型の軍服が展示されています。
 左から、騎兵の大礼服の上下、歩兵の大礼服の上下、そして肋骨服です。

明治時代の軍服

 騎兵用の大礼服は袖口の緑色が騎兵を示し、襟の金線が3本であることから大尉用とのこと。ズボンは赤というたいへん鮮やかな取り合わせです。
 歩兵用の大礼服は袖口の赤色が歩兵を示し、襟の金線が5本であることから中佐用とのこと。
 肋骨服は、横にあしらわれた紐が人の肋骨のように見えることからそのように呼ばれました。日露戦争の頃より次第に使われなくなったといいます。コミック作品「ゴールデンカムイ」に登場することで一躍有名になりました。

上着部分を拡大

田村怡与造(長男)

 田村怡与造いよぞう(1854年~1903年、嘉永7年~明治36年)は田村義事の長男です。
 田村家四将軍の中で最も有名で存在感のある人物です。日露戦争開戦の前には参謀本部次長の職にあり、今信玄と呼ばれるほど作戦の立案に優れていました。対ロシア開戦に備え準備をしていましたが、過労のため亡くなりました。同日中将へ昇進しています。桂太郎首相はその死をたいへん惜しみました。

田村怡与造の解説パネル

 少年期に一宮浅間神社の私塾で学んでいます。10代で生家の近くの相興村(現在の笛吹市一宮町相興)の相興学校(現在の一宮北小)で教員となりのちに校長を務めますが、軍人を志して辞すと一族から断絶され妻の旧姓である早川姓を名乗り、陸軍士官学校へ入ります。実家との関係が修復され、田村姓に戻るのは後年になったからでした。
 士官学校における成績は優秀で、1875年(明治8年)主席で卒業しています。

怡与造の卒業証書、「第壱號」が主席の証  出典 : 図録『田村四将軍 』

 明治の陸軍はフランス式の兵法からドイツ式へ変更を考えていました。そのため怡与造は陸軍省の命令により1883年(明治16年)から5年間ドイツへ留学します。帰国後、ドイツ留学の成果として『野外用務令』をまとめました。

怡与造がまとめて軍で使用された『野外用務令』

 怡与造に関しては、当所勘当されていたことの影響から田村家には関する品はが少ないのが実情といいます。

田村沖之甫(六男)

 田村沖之甫おきのすけ(1865年~1919年、慶応元年~大正8年)は、田村義事の六男であり、怡与造の弟です。田村家の中で存命中に陸軍中将まで昇進したのは沖之甫だけです。ただし、沖之甫の動向を知るための資料には乏しいといいます。
 沖之甫は、兄怡与造の勧めで陸軍士官学校に入学します。怡与造と同様に無断で上京したようです。成績はたいへん優秀で、1888年(明治22年)主席で卒業しています。同年砲兵少尉から始まり、砲兵中尉、日清戦争出征後に砲兵大尉と昇進しています。その後陸軍大学校へ入校し優秀者として卒業。
 1902年(明治35年)の陸軍少佐としてドイツ留学、日露戦争出征をへて砲兵中佐、砲兵大佐、砲兵課長、陸軍少将、砲工学校長と順調な昇進を重ね、1918年(大正7年)陸軍中将に昇進しています。

田村怡与造の解説パネル

田村守衛(七男)

 田村守衛もりえ(1871年~1923年、明治4年~大正12年)は、田村義事の七男であり、怡与造の弟です。1894年(明治27年)陸軍士官学校を卒業、1901年(明治34年)には陸軍大学校を主席で卒業しています。日露戦争に騎兵大尉として出征しています。隊本営参謀、満州軍総司令部を勤めており、司馬遼太郎『坂の上の雲』にも秋山好古(陸軍大将)とのエピソードで「田村守衛中佐」として登場する場面があるといいます。
 日露戦争後ドイツへ留学し、帰国後は参謀本部へ勤めます。陸軍少将、陸軍騎兵大学校長、陸大校長を歴任しますが、在職中に破傷風で病死し、陸軍中将に昇進しています。

田村守衛の解説パネル

田村義富(孫)

 田村義富よしとみ(1897年~1944年、明治30年~昭和19年)は、田村義事の三男濤二郎(44代当主)の四男であり、怡与造の甥です。
 1919年(大正8年)陸軍士官学校、1927年(昭和2年)に陸軍大学校を卒業しています。少佐であった1936年(昭和11年)頃、軍の予算の担当となり相当苦心していたという記録があります。
 太平洋戦争時、第31軍参謀長としてグアムに出兵し現地で自決しています。

田村義富の解説パネル

 怡与造、沖之甫、守衛は在職中に50代で病死しています。
 また、甥である義富は40代でグアムで自決とみな短命です。
 在職中に中将であったのは沖之甫だけで他は少将で亡くなり昇進しています。
 田村家は義事の三男が跡を取り、2023年(令和5年)4月44代当主が亡くなられました。

山梨の刀剣

 終盤は山梨の刀剣と、現代の山梨で活躍する刀匠を紹介しています。

山梨の刀剣の展示概観

駒橋元近

 まずは、駒橋元近こまはしもとちかの刀です。駒橋元近は小田原の刀匠でした。戦国時代に山梨県の東部地域(郡内地域)を治めていた小山田氏により招聘されたといいます。
 この刀は、郡内地域の神社に奉納したうちの1振と思われます。

駒橋元近の刀

 銘 : 元近作之 於駒橋 天文十七年九吉日

鍛え肌は板目肌に柾目交じり、刃文は互の目乱れに砂流しとしている。元近については現存数が少なく、本作についても茎の状態などから研究の余地があるが、大藩の家老級以上が所持したと思われるほど拵えの出来は良い。

出典 : 鑑賞のポイント

水心子正秀

 続いて、水心子正秀すいしんしまさひでの脇差しが2点です。
 水心子正秀は、江戸時代、谷村藩が在った時代の藩主秋元家に仕えました。

水心子正秀の脇差し

 銘表 : 正秀
  裏 : 電光

表は草書で流暢に「正秀」と銘を切り、裏は楷書にて力強く「電光」と切っている。銘振りや化粧やすりでなくつっかけ鑢のかけ方から最初期のものに近い。

出典 : 鑑賞のポイント
水心子正秀の脇差し

 銘表 : 水心子正秀
  裏 :  享和二年八月日

水心子は刀剣研究の大家であり、大阪新刀の巨匠である「津田助広」「井上真改」の写しをよく作っている。本作も助広を思わせるような作風である。

出典 : 鑑賞のポイント

伊藤重光

 続いて現代の山梨の刀匠の作品です。甲府市在住の伊藤重光刀匠を紹介しています。

伊藤重光刀匠と「大倶利伽羅広光」の写し、解説パネル

 展示は伊藤重光刀匠の「大倶利伽羅広光」を写した作品です。

伊藤重光「大倶利伽羅広光」写し

 銘写 : 甲斐国重光 平成三十年 秋

姿、刃文は「大倶利伽羅広光」を写している。奥出雲の横田地区で旧来の「鉄穴流かんなながし」によって得られた砂鉄を自家精鋼して用いることにより、地景の入った美しい地金を作り出して

出典 : 鑑賞のポイント

 続いて、伊藤重光刀匠の短刀です。鎌倉時代末期の越中の刀工則重を狙って作ったとのこと。

伊藤重光の短刀

 銘表 : 甲斐國重光作
  裏 : 令和三年冬

則重の特徴でもある「松皮肌」を再現しており、地鉄をいろいろな角度から見ると模様が激しくうねり、松の皮を彷彿とさせる模様を見ることができる。

出典 : 鑑賞のポイント

吉田康隆

 続いて、山梨県身延町在住の吉田康隆刀匠の紹介です。

吉田康隆刀匠の解説パネル

 展示は、吉田康隆の刀です。

吉田國秀 刀

 銘表 : 甲斐国康隆
  裏 : 平成二十二年吉日

華やかな重花丁子が美しい。一つ一つの刃文を見ると丁子(グローブの実)が連なるような模様を見ることができる。

出典 : 鑑賞のポイント

 吉田康隆刀匠の短刀です。

吉田康隆(國秀)の短刀

 銘表 : 康隆
  裏 : 令和三

体を上下左右に動かし、天井のライトに合わせてみるとキラキラした沸えや地の模様をはっきり見ることができる。

出典 : 鑑賞のポイント

山本清二

 最後は山本清二刀匠です。山梨県中央市在住です。父・山本和雄を師事し、日本美術刀剣保存協会山梨県支部で役員を務め、ミュージアム都留では吉田康隆刀匠とともに刀剣の教育普及事業にも尽力されている人物といいます。
 鍛冶場の移転のため本展で作品の展示はしていないとのこと。

山本清二刀匠の解説パネル

おわりに

 田村怡与造を筆頭に4人の陸軍中将を輩出した田村家のことは知っていましたが、田村義事が山梨随一の刀鍛冶であったことは知りませんでした。義事のおかげもあって刀剣の展示に力を入れているミュージアム都留での田村家の資料も日の目を見ました。
 刀剣を見慣れない観覧者にも分かりやすくしようという学芸員の解説や見やすい展示の導線など、配慮がところどころに見られました。地方にありながらかなり質の高い展示を作っている博物館といえます。
 常設展と休館中の増田誠に関する展示は別の機会に紹介できればと思います。

参考文献
図録『田村四将軍 日露戦争の立役者と山梨の名刀 』ミュージアム都留、2023


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