【八ヶ岳美術館】企画展「縄文前期の巨大祭祀場 阿久」を見に行く
はじめに
原村の八ヶ岳美術館にて、企画展「縄文前期の巨大祭祀場 阿久」(2023.9.9~2024.1.8)が開催されました。展示の中心である阿久遺跡は、縄文時代前期の遺跡で国の史跡です。居住のムラがやがて祭祀の場へと変貌する全国的に珍しい遺跡です。すでに終了している企画展ですが展示品も多く興味深いものでしたので、遅ればせながら紹介いたします。
このところ縄文の見学記事ばかり続いてしまったり、昨年の「積み残し」記事であったりしますがお許しを。「積み残し」はこれで終わりのはずです。
訪問時、3館共同の企画展示の「行って縄文 来て縄文」(2023.7.6~11.23)も開催中でした。
縄文前期の巨大祭祀場 阿久
阿久遺跡は、縄文時代前期でおよそ7000年前の遺跡です。北側には尖石遺跡(茅野市)、南側には井戸尻遺跡群(富士見町)があり、いずれも縄文時代中期を代表する遺跡ですが、それに先行する縄文時代前期の遺跡が阿久遺跡です。
1970年代に中央自動車道の建設に伴う大規模な発掘調査により確認され発掘されました。
縄文時代前期を代表する大規模集落と祭祀場の跡として国史跡に指定されています。また、縄文時代前期のほか縄文時代中期、後期、平安時代まで遺跡の跡が確認できます。
阿久遺跡の企画展が開催されるのは、長野県立歴史館に貸し出していた5点の土器と95点の石器・石製品が返還されたことを記念するものです。
また、本展は阿久遺跡とともに諏訪地方の縄文時代前期の主要な遺跡も交え、阿久遺跡の時代を紹介していくものです。
普段は考古資料も含め展示品の撮影が制限されている八ヶ岳美術館ですが、本展は撮影可能となっています。ただし、SNSやネットにアップする場合には原村所蔵以外の借用資料については所蔵先を明記するルールとなっています。
第1章 阿久遺跡の調査と保存運動、そして国史跡へ
阿久遺跡は、中央自動車道の建設に伴う発掘調査にて明らかになった縄文時代前期(およそ7000年前)の遺跡です。1975年(昭和50年)から4次にわたり調査が行われました。現在は中央自動車道の下に埋設保存されています。1979年(昭和54年)、国史跡に指定されています。
第1次調査(昭和50年)では遺跡の広がりを確認しました。
第2次調査(昭和51年)にて本格的な発掘調査が行われ、阿久遺跡の全貌が判明しました。縄文時代前期後半の住居跡と大量の石、さらに前期前半の住居跡、方形柱穴列と土拡群が発見されています。
第3次調査(昭和52年)、中央自動車道の工事が進捗し調査完了を迫られる中で、縄文前期のムラと祭祀場であることが明確になります。そのことは「縄文前期の転換」(「季刊どるめん」16号)と評され注目されました。
阿久遺跡は、多くの考古研究者が注目し、新聞報道でも大きく取り上げられ、遺跡保存の機運は県民全体へ広がり高まりした。保存を訴える街頭署名は3万人を超えました。そうした声も受けて文化庁は中央自動車道のルートは変更せずに、遺跡に1メートルの盛り土をしたうえで埋没保存することを決定しました。
第4次調査(昭和53年)は、保存のための調査に切り替えられ、遺構は埋め戻されました。
展示ケースには雑誌「季刊どるめん」(1973年創刊、1981年30号終刊)の16号があります。阿久遺跡を特集しており「縄文前期の転換」はこの号の特集でした。「季刊どるめん」は『縄文のメドゥーサ 』の著者田中基氏(1941年~2022年、昭和16年~令和4年)が編集長を務めた民俗学、考古学の雑誌でした。
第2章 阿久遺跡の始まり(Ⅰ期、縄文前期初頭)
阿久遺跡は、古い年代順にⅠ期からⅤ期と分類されています。
まず、阿久遺跡で最古の土器片を紹介しています。撚糸・絡条体圧痕文土器の破片といいます。調査範囲の西側の隅にある38号住居址のものです。阿久Ⅰ期の住居跡はこの38号1軒のみです。
第3章 隆盛を迎える阿久のムラ(Ⅱ期、縄文前期前葉)
阿久Ⅱ期(縄文前期前葉)になると、それまで、小規模のムラであった阿久は、大規模なムラへと変貌します。住居跡30軒、土拡10基、方形柱穴列10基が確認されています。
住居は隅丸方形が多く、調理具と思われる平石の残るものもあります。
しかしこの大規模なムラも阿久Ⅲ期へは継続されず一旦終焉を迎えます。阿久の西側にある阿久尻遺跡(茅野市)にて断層の跡が発見されており、地震災害でムラを放棄した可能性が高いといいます。
3-1 方形柱穴列
阿久遺跡の調査により、日本で初めて明らかになった遺構に「方形柱穴列」があります。
方形柱穴列は柱を立てるための太く深い穴です。大人一人がすっぽり入るくらいの穴が一辺が5メートルの正方形で、穴が4つないし5つ並びます。こうした穴がムラの住居跡の内側に作られていました。
何を建てた柱の穴なのかその目的は、倉庫説、高床式住居説、祭祀的施設説があるといいます。祭祀に関わる施設が有力といいます。
方形柱穴列のある遺跡は、縄文前期の遺跡が40数ヵ所ある中でも8つしかなく、大半は長野県にあるといいます。☆印は本展で土器の貸し出し展示のある遺跡です。
・板橋遺跡(北杜市)
・坂平遺跡(富士見町)☆
・駒形遺跡(茅野市)☆
・阿久遺跡(原村)
・阿久尻遺跡(茅野市)☆
・高風呂遺跡(茅野市)
・十二ノ后遺跡(諏訪市)☆
・中越遺跡(宮田村)
3-2 阿久Ⅱ期の土器
阿久Ⅱ期に見られる土器は底部が尖底から平底へと変化しています。
中越式土器もこの頃の土器で、中越遺跡(長野県宮田村)から発掘されたことから命名されている土器です。関西や東海地方の影響を受けつつ、信州で生まれた文様のない土器です。同じ時期の関東の土器には文様が多く施されていて、そうした両方の土器が阿久から確認されています。
阿久Ⅲ期以降になると、こうした土器の融合がみられ阿久としての共通の形になってくるといいます。
阿久Ⅱ期は、大規模なムラであったことから住居から土器も多量に発掘されています。
3-3 周辺遺跡の土器
阿久Ⅱ期の土器と併せて、同時代の諏訪地方の主要な遺跡を6つ紹介しています。展示されている遺跡との時期の比較です。赤文字が阿久遺跡で横方向に阿久I期からV期を示しています。また、遺跡の位置と概要の示したパネルもあります。
3-4-1 武居遺跡(下諏訪町)
武居遺跡(下諏訪町武居)は、黒曜石の産出地に近く、黒曜石の集積地と考えられる遺跡です。阿久Ⅰ期からⅢ期の時代の遺跡です。
3-4-2 十二ノ后遺跡・千鹿頭社遺跡(諏訪市)
十二ノ后遺跡・千鹿頭社遺跡(諏訪市)は、守屋山東北麓の扇状地にあり、両遺跡は隣接しています。阿久Ⅰ期からⅤ期の時代のムラの跡です。こちらも拠点的なムラと考えられるといいます。
3-4-3 駒形遺跡(茅野市)
駒形遺跡(茅野市)は、霧ヶ峰南麓の扇状地の遺跡です。阿久Ⅰ期からⅡ期の時代のムラの跡です。黒曜石の集積・加工・搬出を行っていた遺跡と考えられるといいます。こちらでは阿久Ⅱ期の中越式土器3点を展示していますが、終盤の第8章にてベンガラ入りの土器1点、ベンガラの付いた磨製石器3点も展示しています。
3-4-4 阿久尻遺跡(茅野市)
阿久尻遺跡(茅野市)は、八ヶ岳西麓の尾根にある遺跡です。阿久Ⅱ期の時代のムラの跡です。
3-4-5 坂平遺跡(富士見町)
富士見町の坂平遺跡は、八ヶ岳南麓の扇状地のある遺跡です。阿久Ⅰ期からⅡ期の時代のムラの跡です。中央に広場のある環状集落と考えられています。
3-4-6 堰口遺跡(北杜市)
北杜市の堰口遺跡は、釜無川の扇状地にある遺跡です。阿久Ⅰ期からⅤ期の時代の遺跡で、阿久遺跡のように拠点的なムラと考えられるといいます。
第4章 縄文人が姿を消した阿久遺跡
隆盛した阿久のムラでしたが、一度終焉を迎えています。隣接する阿久尻遺跡では大規模な地割れの痕が確認されており、地震の思われる自然災害によりムラを放棄したと考えられるといいます。
阿久尻遺跡でみられる災害の痕跡を紹介するとともに、阿久Ⅱ期の頃の中越式土器4点を展示しています。
下記写真で緑色の囲みが阿久遺跡、白の囲みが阿久尻遺跡です。その距離はおよそ300メートルです。
第5章 復活した阿久のムラ(阿久Ⅲ期、縄文前期中葉)
阿久Ⅲ期のムラは尾根の東側から南側の平坦面に住居が建てられたと考えられます。この頃のムラの形は環状集落が構築されていきます。住居跡19軒、土拡9基、方形柱穴列1期、確認されています。
土拡は墓と考えられ、墓を中心に周囲を住居で囲むムラの形は縄文時代中期に見られる環状集落のルーツといえそうです。
また、この頃の土器は底が小さなもので縄文文様や竹筒なとで表面に文様をつけたものとなります。さらに浅鉢や小型土器など、祭祀的な目的で仕様すると考えられる土器が現れてきます。
5-1 集石
集石とは10数個から数百個のこぶし大くらいの石を集めた遺構です。阿久では271基が確認されていて阿久Ⅱ期の時代から作られるようになったといいます。
石を詰め込んで埋めていた穴は、直径0.5~1.5メートル、深さ30センチメートルで、石は安山岩です。環状集落の中にドーナツ状に配置されており「環状集石群」と呼ばれます。
展示室の中央部分に掘り出した集石を2つ展示しています。
第6章 祭祀場へとへ変貌をとげる阿久のムラ(阿久Ⅳ期、前期後葉)
Ⅳ期の阿久は、環状集石群の構築されムラと祭祀場の共存が特徴といえます。住居跡12軒、方形柱穴列2基、立石・列石 環状集石群、土拡41基が確認されています。
阿久Ⅳ期はⅢ期の住居域を踏襲していますが、建て替えを行った住居が多くみられるようになったといいます。
村の中央に立石・列石を配置し環状集石群が作られます。方形柱列穴もあり前述の祭祀的施設説を採り祭祀の用途と考えられるといいます。
村の中央部から作られ始めた環状集石群は外側へ向かい広がっていきます。やがて居住域にかかるようになり、共存関係が崩れ住居が減少していったのだといいます。
第7章 終わりを迎える阿久のムラ(阿久Ⅴ期、前期後葉)
阿久Ⅴ期ではムラと祭祀場の共存関係は無くなります。住居跡2軒、土拡30基、立石・列石、環状集石群が発見されています。
消滅と復活をしながらも続いてきた阿久のムラは消えて、集石や土拡により阿久は祭祀場として埋め尽くていき、祭祀場へと変化しました。
しかし、この祭祀場もこのⅤ期以降消えてなくなります。次にこの地で人々が暮らすのは500年後縄文中期の中頃になります。
ムラが消滅しため住居跡は2軒しかありません。1軒は、阿久最大の大型住居で9メートル×7.8メートルありました。環状集石群の中に建てられており集会用の建物と考えているといいます。残りの1軒は住居だったといいます。
住居跡が2軒しかないため土器なども少ないのでしょう。
第8章 日常の道具と祭りの道具
企画展示室Bでは、道具として使われる石器や原料になる黒曜石について紹介しています。
阿久遺跡に限らないことですが、当時は性別(男女)や年齢(子ども、若者、年寄り)にる分業がありました。分業による仕事の違いが道具の違いとなります。また分業できることでムラが繁栄していきました。
8-1 石製品
磨製石斧があります。まさに木の伐採などに使ったのでしょう。
石匙は切ったり削ったりする道具で腰にぶら下げて携帯したといいます。
抉入石器は釣りの際の錘だといいます。
さらに石器が並びます。打製石斧は土を掘る、植物の根を掘る道具として使用されたといいます。
こちらの石皿やくぼみ石はすりつぶすなど、調理のための道具です。
8-2 土器
土器も日常に置いては煮炊きの道具です。
こちらの土器は阿久遺跡のほかに、前述の十二ノ后遺跡(諏訪市)、堰口遺跡(北杜市)などからも展示されています。
上記画像の一番高いところの土器が返還された土器のひとつで、チューリップの花びらのように見える土器ですが、撮影を失念してしまいました。参考文献からの引用します。
続いて、周辺の遺跡の土器です。
阿久遺跡からミニチュア尖底土器です。祭祀用途のようです。
阿久遺跡から出土した角型皿です。裏側の写真が添えられてますが手のようにも見えます。
イノシシは多産な動物のためか土器の装飾使われました。
8-3 底に穴のある土器
穴のあいた土器の底です。意図的に穴をあけていることから実用ではなく、祭祀などに使われたと推測しているといいます。
こちらの土器片からも穴のあるものが確認できます。
駒形遺跡のベンガラの付着した磨石です。
彩色されていた土器と、彩色のためのベンガラを入れていた土器、そして漆を入れていた土器があります。漆を扱うには高度な技術が必要だったといいます。
8-4 玦状耳飾り
玦状耳飾りがあります。原材料は滑石のほか、土を焼いたものもあります。
玦状耳飾りにも未完成品があります。また原材料の滑石の原石があります。となりは石錐は穴をあけるために用いた石錐です。
第9章 祈りの場となった阿久
展示の順番が前後していて立石と列石の解説が入ります。少し話が戻りますが、阿久Ⅳ期の時代にムラの中央に立石が作られました。立石は祭祀場のシンボルと考えられていたといいます。
立石は長さ120センチメートル、径35センチメートルの花崗閃緑岩でできた円柱です。
列石は立石から北側に直線的に並ぶ8個からなる盤状の安山岩からなります。花崗閃緑岩は十数キロ離れた茅野市内などでないと採取できないため、祭祀のためにこの地へ運んできたのでしょう。
火床の存在と、焼けた立石から、祭祀には火が使われたことを示しているといいます。
第10章 縄文前期の黒曜石と阿久-文化交流のはじまり
最後は、阿久に持ち込まれた黒曜石から地域交流の様子を紹介しています。
縄文早期において黒曜石は産出地のムラ単位で消費していましたが、阿久遺跡のある縄文前期になると流通量が増え、他地域との交流、消費へとつながっていきます。
阿久では住居や住居の外に黒曜石の原石をまとめて保管していた集積場や貯蔵庫のようなものがあったといいます。
大きな黒曜石の原石がありますが、阿久遺跡から出土したものではなく下諏訪町からの寄贈品とのこと。
こちらは、まとまって集積された状態で発掘された黒曜石です。
ひとつの住居跡からでた原石の一部です。
こちらは、石鏃です。未完成のものもあります。こうした石鏃の加工にて残ったものが剥片です。
阿久の周辺には星ヶ塔や和田峠などの黒曜石の産出地が複数ありました。産出地は化学分析をすれば分かるといいますが、阿久で出土した黒曜石について分析は行っていないそうです。いずれにせよ諏訪地域の黒曜石を使用していたものと思われます。
おわりに
中央自動車道の下に眠る巨大な祭祀場、阿久遺跡の企画展示でした。
展示数が多かったこと、見学日よりだいぶ日にちが過ぎてしまっていることがあり、note記事としてまとめるのに手間取りました。何より阿久という遺跡は内容が深く、一筋縄ではいかないです。もう一度しっかり見たいと思ったのですが、これこそ後の祭りでした。
参考文献
原村教育委員会編『原村の文化財ガイドブック第7集 国史跡 阿久遺跡 No.4』原村教育委員会、2019