都市美-City Beautiful-の話
昨年、「都市美」という概念を知りました。都市の景観を問題にする分野なのですが、つまり都市”機能”ではなく都市の”美しさ”を追求するということです。シティ・ビューティフル。ゴールドシチー(Gold City)の話ではないです。たしかにシチーはビューティフルですね。ゴールドシチーの話が読みたい方はこちらをご覧ください。
Twitterで都市美についてあれこれ呟いたり、書籍を買ったりしておりましたが、そろそろ都市美についての私個人の姿勢や考え方をまとめておこうかな、あわよくば都市美にもっとみんなの意識が向いたらいいな、と記事を書きました。
大事なことなので最初に明記しておきますが、以下の内容はすべて「三兎個人が思う都市美」です。「都市美とはこういうものだ」という解説ではないのでご注意ください。
ではやっていきます。
1.この街は醜い
いきなり市役所の都市計画課の方々に怒られそうな小見出しで申し訳なく思っています。嘘をつきました。ぜんぜん悪いと思っていません。
だって実際、街並みって、ぜんぜん美しくないじゃないですか。
いえ、なにを美しいと感じるかは個人の嗜好なのですが、私はぜんぜんいいと思わないということです。
そもそも、なぜ街並みは美しくないのか?
理由はたくさんあるのですが、逆に考えてみるとわかりやすくなります。「美しい街並み」とはなにか?
例を挙げましょう。京都をご覧ください。
保存され、継承された町屋、和の文化、壮麗な寺社仏閣……。素晴らしいです。大好きです京都。伏見稲荷がいっとう好きです。
もちろん、いかにも近現代日本然としたごちゃっとした住宅街もあるのですが、京都の街並みが美しいのは、そこに「文化と歴史」が表現されているからです。
この研究レポートをご覧ください。
都市美運動家・石原憲治の都市美論に関する研究
中島 直人 (社)日本都市計画学会 都市計画論文集 No. 40―3 2005年10月
https://www.jstage.jst.go.jp/article/journalcpij/40.3/0/40.3_277/_pdf/-char/ja
このレポートでは石原憲治氏という都市計画学者の「都市美運動の立役者」としての側面に焦点が当てられています。読むのも大変なので特に感銘を受けた部分を以下に抜粋します。
さて、以上の内容になぜ私が強く共感したのかというと、都市景観を「性格」として捉えているためです。
つまり、石原氏は都市計画とは単に都市の拡張・整備という視点ではなく、そこに暮らす人々、歴史、文化の表現としてあるべきだ、と訴えたわけです。社会芸術としての都市。都市そのものをキャンバスとした芸術を志向せよ、というわけです。
繰り返しになりますが、街並みは美しくない。それはなぜか。都市計画とは基本的に「機能性」や「利便性」、「経済性」に主軸を置いているからです。
お、ここに病院があったら便利だぞ
この位置に施設を建てたら集客が見込めるな
うーん、駅前にはもっと大きなロータリーが必要そうだ
こういう具合です。ここには「都市景観を美しくするには?」という視点はありません。あったとしても、それはその「一つ一つの、個別の建物」を美しくデザインするという視野でしかない。
「街並み」としてデザインされていないのです。これでは、都市に対して歴史や文化を表現させることなど不可能です。
ここで、ちょっと見ていただきたいものがあります。
別段、私はヨーロッパの街並がすごく好きというわけではないのですが、ここで紹介されている街並みに共通するのは、「統一されている」ということです。
一つ一つの建物が好き勝手にデザインされるのではなく、「街の一部」としてデザインされている。もちろん、歴史的・技術的にそういう街並みになった、という経緯がありますし、建築物の様式というのはその土地土地で手に入りやすい素材などによっても規定されていくのですが、「統一性」が美しい景観の要素の一つだと言っていいはずです。
例えるなら、これは描く絵が決まっている状態で描かれたカンバスなのです。私が嫌う景観にないのはこれです。いわば、日本の街並みは描きたいもの、表現したいものがないまま、ただカンバスに絵具を塗り付けているだけの状態です。
(あくまで私個人の印象です。それに、そのような雑多な印象ももっと極めれば美に到達するでしょう。九龍砦のようなカオスの景観もまた美しいです。日本の景観の問題は、統一もされておらずカオスにも届かない、中途半端な小奇麗さと中途半端な雑さにあります)
2.都市美を実現するには
都市美を実現する手段はなにか。これを考えるにはまず、サン=テグジュペリの言葉を見てほしいと思います。
この言葉は技術発展において、技術がどのように意識されるかを象徴的に表しています。つまり、技術が充分に発達し、安定的に機能するようになると、もはやそれが機能していること自体を意識しなくてよくなる、ということです。
これがなぜ、都市美の実現に関係するのか。
関係するのです。なぜなら都市機能についても同じことが言えるからです。
話は変わりますが、この数年間、コロナ禍が猛威を振るいました。かつてない規模でのパンデミックに我々の生活も大きく変わりました。特に、リモートワークが増えたのは顕著な変化だったのではないでしょうか。そして、リモートが増えてみなさん思いましたよね。「満員電車に乗らなくて済むのめっちゃラク!」と。
では、もしも仮に、世の中のほとんどすべての仕事がリモートワークでの勤務が当たり前になったらどうでしょうか。電車に乗る必要性ってものすごく薄れませんか。もっと言えば、通勤を考慮して住む場所を決めることさえしなくなるんじゃないでしょうか。
もちろん世の中にはリモートができない性質の業務もあります。筆者もそうです。みなさんがご自宅でzoomとか開いて会議をしてらっしゃるときに筆者は感染の脅威にさらされながら通勤していました。でも、あくまで仮定として、リモートが仕事の基本形になったら?
わかりますでしょうか。これが都市の話とどうつながるのか。つまりこういうことです。
リモートが普通になったら、駅を中心にした都市の在り方は不要になる
くり返しますが、あくまで一例です。でも言いたいことは伝わると思います。今、我々が暮らす都市は、今このときの技術、今ことのときの様式に合わせて発展している。
ドローン宅配が普通になれば、広い道路を確保する逼迫性は薄れるし、それどころかお店に出向くことすら少なくなれば駐車場の面積はもっと減らせる。
社会のスタンダードが変われば、都市のあり様も変えることができる。
都市の機能性は、技術によって制約される。技術が発展すれば、それまで都市に必要不可欠だったものが不要になっていくことは充分にあり得る。サン=テグジュペリの引用を思い出してください。ある技術が充分に発展すれば、その技術のことを意識する必要はなくなる。これを都市にあてはめれば、都市生活を支える技術が充分に発展すれば、もはや都市は「機能性」のための存在である必要はなくなる。技術の発展は都市を「機能」から解き放ち、純粋に「美」の対象へと押し上げる可能性を秘めている。
もっと単純に言えば、機能的には同じなら見た目がいい方を選びますよね、ということです。都市機能が十全に果たされ、非常に快適になれば、私たちは都市を美しさで評価するようになるはずです。
そのとき、都市は文化と歴史を描くキャンバスとなる。機能的にはどの都市も同じなら、都市ごとの「個性」は美によって表現されることになる。
そして、都市美の実現には非常に長い時間がかかります。なにせ今建っている建物はあと1世紀は残るでしょうから。都市開発は「今、このとき」を基準に行われますが、都市美開発は未来を基準に設計されなければならない。未来を見据えて、過去を表現する景観芸術。都市美はそのようなものでなければならない。
そのためには、美術だけでなく、技術発展という視野が必要だということです。
3.都市美の重要性
さて、ここまで都市美についていろいろ述べてきたのですが、中にはこう思う方もいらっしゃるでしょう。
「いや、そもそも都市が美しかったからなんやねん」と。
大間違いです。都市美は重要なのです。その都市に暮らすすべての人間にとって重要です。
人類は、都市美の重要性を軽視している。どんな都市に生まれ育ったか、美しい景観の中で育ったか、どんな美的センスが育まれたかは、個人の人格形成に深く寄与します。都市美には、個人の人生を左右する力があるのです。京都人がいい例です。京都人がいない京都がいちばんいいとか言わないでください。彼ら彼女らは京都に、京都の歴史と文化に誇りを持っています。自分の生まれ育った都市を誇ることができる人間がどれだけいるでしょうか。筆者は誇れません。電車すら通っていないクソ田舎です。美しい街に生まれ育つというのは天賦の恩恵です。都市美の追求は、その恩恵を全ての人に広げるものです。
人類の向上とは、世界に存在する美の総量を増やすことです。にもかかわらず、人類が造りうる最も巨大な構造物である都市が美しくないのは、人類に対する損失です。
都市美の追求とは人類の向上の追求です。
しかし、美は贅沢品です。
美というのは、リストの一番最後に来るものです。今すぐ紙とペンが必要な人は、紙ならチラシの裏でもコピー用紙でもサイン色紙でもなんでもよく、ペンならとにかく書ければいいんです。高級万年筆である必要はありません。
なぜ都市美が軽視されてきたのか。なぜ我々はこんなにも都市美に対して鈍感なのか。それは、必要性や機能性は美に優先するからです。
ここに、都市美を追求しなければならない理由があります。いわば、都市美の機能性、美の実用性です。
美を追求するには、その前にあるハードルをすべて超えなくてはならないということです。これは逆に言えば、美を追求する過程では必然的に、機能や必要性の問題は解決されねばならないということでもあります。なぜなら、それらの問題をクリアせずに美だけを追い求めても、機能的に優越するものにとってかわられるからです。暮らしに直結するものなら当然ですよね。
美を実現するには、美以外の問題が解決されねばならない。これが美の実用性です。
もちろん、現実には美しい街並みならなんの問題もないというわけではありません。当たり前ですが京都にも問題があり、不便さがあり、暮らしていく大変さがあります。ここで重要視しているのは、問題解決の方向性です。たとえば、京都には景観に関する規制がありますよね。
建物の高さや色味などについての規定ですが、ここでは問題(どのような建築物を作るか)に対して、あくまで美の観点(歴史と文化のイメージを尊重したものにしよう)で対応しています。都市美を都市の「性格」、歴史と文化の表現、と見るのであれば、その都市がなにを大事にしているかがこうした規制には表れていると言っていいでしょう。
京都人が京都を誇りに思うのも当然だと思いませんか。自分たちが、自分たちの暮らす都市が、なにを大事にしているか理解して、そこに参画しているんですから。
4.まとめ
いっぱい話したので、そろそろまとめます。
都市美とは、その都市の性格(歴史や文化、なにを大事にしているか)が景観を通じて表現された、「社会芸術」でなくてはいけない。
日本の街並みは無味乾燥で脱臭された建物が猥雑にならんでいるだけで、統一されていない。なにかを指向した景観になっていないので、美しくない。
都市美、自分の生まれ育った街を美しいと思うかどうか、街を誇りに思えるかどうかは、個人のアイデンティティに大きく影響する。都市美は、人間の一生を左右しうる力を持つ。
やっぱ京都ってすげーよ。うん。
都市美がもっと活発に議論されるようになるといいな、と思いながら記事を終えます。ついでなので、都市美についてのツイートをまとめたモーメントのリンクを貼っておきます。興味があれば覗いてみてください。
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