お泊まり

あと一言なにか言われたらベランダから飛び降りてしまいそうな時ってないだろうか。そのあと一押しをしてくれる知り合いすらいないから僕は生きているんだと思う。デリカシーのかけらもない事を言って、崖から突き落としてくれる人が欲しい。物理的にでも精神的にでもいい、トドメの一撃をくれる人が欲しい。

勢いで人生初の「お泊まり」をしてしまったのもこんな生ぬるい希死観念からだろうか。異性の部屋ではないが。たまたま送ったメッセージに、たまたまビデオ通話が返ってきて、たまたま2時間かけて移動しても差し支えない状況だったからだ。

19時の電話に誘い出されて21時半に人の家に上がり込むだなんてどうかしている。知人の家にお邪魔するなんて久しぶりだ。前回は記憶する限り3年前の夏、海外留学に行く先輩への餞の準備のために行った同輩の家だっただろうか。慣れていないなりに手土産を準備する。時間も遅いので乗り換え駅で見かけたワッフルを咄嗟に買った。なかなかいいお値段だったが突然泊めてもらうんだ、妥当だろう。

寮のキッチンが共用なものだから、洗い物が面倒で油を使った料理など久しく食べていなかった。親御さんに出していただいた生姜焼きはとうに亡くなった祖母の味によく似ていた。調味料のバランスでも聞こうかと思ったが、他の人間に対して抱いているノスタルジーをひけらかす場ではないと思いやめた。

芸能人の不倫のニュースを見ていた。つまらんなどとぐちぐち言いながら。正義か悪かはっきりしている物事を目の前にして世の人は断罪したいのだろうと言っていた。政治の話が無いのは白黒つかなかったり、白黒つけることが問題になりうるからだろうと。僕は世の人はそもそも白黒について考えたく無いのだろう、与えられた黒を排除するだけである現状が楽なのだろうと思っていたが、自分自身に対する選民思想かもしれないと思った。

久々に湯船に浸かった。寮は駅から遠いが、都心の騒がしい実家と違い森に囲まれていて長閑で快適だ。しかし風呂がない。共同だとしても風呂さえあれば一生住むのに。とはいえそもそもさほど風呂は好きでは無いし、入ってもすぐ上気せるし、シャワーですらしなくて済むなら行きたくないので、長風呂はしなかった。

なんとなく、抱きついてみたかったのだ。頭ぐらい撫でてくれるんじゃないかと思ったのだ。相手にはパートナーもいて、一時期みたいな激情はないはずなのだ。別に恋人なんかじゃないが、友達と言うには些か預けているものの大きかった学生時代は終わったのだ。でも僕は確かに、何かを期待していた。今まで何かがあったという事実は無いのだが。襲われても良いと思った。願ってしまった。特に何もおこらず、僕は一睡もできないまま朝を迎えた。

結局、人間の暖かさが欲しかったのだろう。寄りかかれる肩が欲しかったのだろう。酒を飲む事で豹変した先は本性だという。きっと僕はタガが外れたように誰彼構わず甘えるに違いない。普段なら嫌われる事を恐れて踏み込まない距離を易々と飛び越えるだろう。壁もプライドもなかったかのように撫でられてへにゃりと笑うだろう。一生酒は手にしないだろうと思った。手にしないと誓った。

執筆のおやつ代です。