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俯瞰意識について 1

 俯瞰意識(メタ認知なるものも同じなのかな)というのは、誰しも子どもの頃は持っていたのではないかとみている。俯瞰意識に類似しているものは、ワンネスと言われているものがそうなんではないかと思う。全体感、とか、雲の上から見る、とか、宇宙から眺める、とかそんな感じで。もちろん、自分の頭上30センチくらいの高さでも俯瞰は俯瞰だ。ただその高さであっても、視野は全体を見渡せるものであり、個人の感情とは別のものだ。言語化される以上は、訳する人間の主観を通さないものは存在しないが、大元の情報が同じであることは読めば伺える。

 冒頭の『誰しも』というところに、自信のないところもある。もしかしたら一部の人だけなのかもしれない。誰でもできるよ、と言い放ってはいるのだけど、少し疑う気持ちもある。例えば子どもの頃に、人間が行なっている様々な地球環境の破壊について知った時に、絶望したり憤ったことのある人は、俯瞰意識をその時点では忘れていなかった人だと思う。大人になっても忘れずにいられる人はどのくらいいるのだろう。または一度は忘れても、思い出せたって人はどのくらいいるのだろう。それはどのように忘れ、どのように思い出していったのだろう。私自身は完全に離れたことはないが、無視していた期間はある。中学生くらいから40歳手前くらいまでは無視していた。東京での暮らしの中で、俗世間に一部流されていた。思い出したきっかけは、時々無意識に俯瞰意識の言葉を口にしていたことに気づいたこと。意識して聞くようになったのは、後悔しない人生を生きる決意をした時であろうか。

 今書いているこの文章も、考えて書いてはいない。体験した情報や知っている言語を元に、俯瞰意識の情報を言語化する作業をしているだけだ。だからいくらでも言葉は自動的に出てくる。肉体のコンディションには左右される。ずっと続けていたらパソコンを打つ手も疲れるし、座っているのも疲れるし目も疲れる。翻訳に使う脳や神経も疲れる。翻訳には多少神経は使っているから。この文章は割と自動で流しており、誰にどう伝えるかの神経をほとんど使っていない。

 俯瞰意識と肉体の声は違う。また魂の声も違う。左脳の声も違う。感情とは体感ではあるが、その体感を解釈するのは意識だ。意識とは、顕在意識のことで、左脳が経験や癖からの解釈を挟んで形作っているものである。右脳の声は言語化できない。アート化はできる。アートを形作るには、左脳の協力も必要だが。魂も肉体も脳も個体のものであるが、俯瞰意識は全体のものであり、小さくは人類のものである。

 現代人にメジャーな顕在意識は俯瞰意識や潜在意識と乖離しているし、どんどん離れていてその違和感は膨れ上がって今にも爆発しそうだ。潜在意識は俯瞰意識に個人的なものが混ざったものであり、俯瞰意識という全体を忘れていない個人的な意識、といった感じであろう。

 俯瞰意識を使えていると、人生においても日常においても幸福感や安心感が上がる。例えば感情というものは、どれも違う味わいの料理のようなものであり、一様に味わうものなのだと腑に落ちる。味はいろいろ変化があったほうが楽しめる。変化のないことが、一番つまらぬことだとわかる。味ゆえにもちろん好みはあるけれど、俯瞰においては価値は一様だ。そして、しょっぱい刺激がなければ甘い刺激も弱いといった、味同士の関係性もある。しょっぱいばかりでは麻痺もしてくるし、時々辛いとか苦いとかも味わいたくなる。人生というのは味わい深くいろいろ起きた方が、豊かなものとなるのだ。なんの経験も成長もない物語を、誰が楽しむというだろう。その体感を伴う様々な味わいを安心して味わうことをサポートしてくれるのが俯瞰意識である。自身を見守り続けていてくれる、神のような存在感だ。何も知らぬことはないし、ブレる事もない。なぜなら私たち全体のものであり、根源であり、野生や本能といったものに紐づいているものだからだ。ぜひ使いこなして生きて欲しい。今の時代、そのような人材が不足している。故に人類は終わろうとしている。もう少し延命して欲しいから、人材を増やしたいのだ。個人の幸福度も上がるのだから、ぜひその1人となって欲しい。

 どうしたら俯瞰意識をコントロールできるようになるのか。今実験中である。まだ実験成功には至っていなくて、我こそはという方、もう数名試してみたくはある。俯瞰意識を形にするにはいろんなものがあり、それは言語には限らないのだが、今のところ言語化はとても便利なので、ぜひ試みて欲しい。最初の一歩は『やると決める』、これに尽きる。

 またそのうち俯瞰意識については書こう。そのうち漫画化もしたい。本日の趣味の時間を終える。


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