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連載小説「思い出の後始末」#58ぬくもり


第58話 ぬくもり


 いま、僕は混乱をしている。
 何が、どうなっているのか?
 とにかく、混乱してしまうほどに、これまで受け取った情報量が多すぎるのだ。
 人から色々な話を聞く中で、自分の手に余るほどの宿題を抱え込んでしまい、その宿題の解答をひねり出すことを皆からせっつかれているような、漠然とだが、そんな焦りにも似た気持ちになっている。
 その原因は分かっている。僕自身が、人と話をしているうちに、その人の問題を自分の問題として受け止めてしまうからだ。昔からの悪い癖。
 ビジネスの場でも「自分の力量をわきまえて、ドライに聞き流せないのなら、相手の事情に深入りするな」と上司の詠美さんから忠告されたことがあるが、まさに、まさに、だ。
 だがしかし、話を聞いてしまったものは仕方がない。問題があれば真摯に向き合うしかない。
 これまで、出会った人たちから様々な情報を受け取ってきたが、一見無関係に思えるそれらの情報も、実は相互に絡み合っていて、縺れ合う糸のようになっている。
 それをきちんと整理して、上手く解きほぐしていかないと、その裏に隠れている真実が見えてこないし、問題の解決にも至らない。      
 混乱した頭の中を整理するために、ドラマや小説で使われるような登場人物の相関図を作って、そこに知り得た事実や疑問を書き込んでいった。
 そして、登場人物を線で結んだ相関図を改めて俯瞰するように眺めてみて、それが不思議な図柄になっていることに気づいた。
 庄司綾という今は存在しない昔の人物に、皆が太い線でぶる下がっているような絵になっている。
 例えば、綾さんとの関係で直接つながっているのは、
 
 ――若い頃に綾さんと面識のあった『はな』の啓次郎さんと、海龍善寺の珠代さん。(珠代さんは綾さんの遺品の簪(かんざし)を通じて、更にあずみと繋がる。)
 
 ――綾さんの面倒を見ていたスエさん。(スエさんの先が孫の建夫さんだ。)
 
 ――綾さんの子供だという岬の病院のシスター。(その先にシスターが育てた美羽音がいて、蝶の由来を持つ名前で綾さんと繋がる。)
 
 ――綾さんと家系で繋がる庄司家の奥さん。(その先が娘のマリエで、マリエは入院先の病院で美羽音やシスターと面識がある。シスターが綾さんの実子なら、マリエとも血のつながりがあることになる。)
 
 これらの人は、僕がこの町に来て個別の経緯で出会った人々だ。全く別々にだ。
 その頃の僕は庄司綾の存在すら知らなかった。なのに、いつの間にか、ここで築かれた人間関係が庄司綾という特異な経歴の持ち主に収れんされるようなイメージになっている。
 岬の病院のホスピス病棟を考えてみると、綾さんの子供であるシスターが理事長をしており、そこにスエさんが入院している。さらに、その病棟には啓次郎さんが入院する予定で、マリエも病棟を移ってくる予定だ。看護師として美羽音もそこにいる。関係者が一堂に会することになる。
 オカルト的に言えば、何かの力がこのメンバーを引き寄せたということになるのだろうか。
 ホスピス病棟で思い出したが、その存続問題の議論に漁協の会長が理事として関与していた。しかし、まあ、漁港のメンバーまでそのオカルトの輪に繋げるというのはさすがに無理があるだろう。
 いずれにしても、この関係者の中で綾さんの日常を知っているという意味でキーマンになるのは、直接世話をしていたスエさんであることには違いない。
 スエさんから話を聞ければ、色々な疑問が氷解するような気がする。
 しかしながら、ホスピス病棟に入院中のスエさんは九十歳を超えて会話すらおぼつかない状態だ。昔の記憶も恐らく失われてしまっているのではないだろうか。
 それでも新しい事実を求めて今できることといったら、スエさんに再び会って話を聞いてみることぐらいしかないだろう。それこそ、寝ている老人を揺さぶって無理矢理起こすようで気は重いが、それしかない。
 そう思った僕は、屋根裏部屋にいるあずみに声をかけて、一緒に病院に行くことにした。
 何か元気の出る薬でも貰いに行こうと誘うと、栄養ドリンクでも飲んどけって言われちゃいますよと苦笑いをしながらも、あずみは素直に出かける支度を始めた。
 家の前の階段をあずみの歩調に合わせながら、ゆっくり上がっていく。久しぶりの外出に、あずみは眩しそうに目を細めて空を見上げている。頭上高いところで、トンビがのんびりとした鳴き声を上げていた。
「ああ、あの子。いつもの子ですよ」
 あずみに言われて僕も空を見上げたが、青空に浮かぶ黒い点はトンビという名前でひと括りにされるものにしか見えなかった。あれが、あの子か……。
 駐車場についてピックアップトラックに乗り込むと、早速あずみは窓を全開にした。季節的には寒そうだが、閉めた方がいいよとは敢えて言わなかった。
 ハイビスカスレッドのピックアップトラックは、冬枯れした景色の中でも鮮やかな色に映えていたことだろう。過ぎゆく中で、林の中の小動物も目をみはったに違いない。
 空いている駐車場に車を止め、二人で病院のエントランスに向かうと、待ち構えていたのか、美羽音が手を振りながら駆け寄ってきた。
「あずみちゃーん。久しぶりい」
 事前に連絡をしておいてよかった。あずみも嬉しそうに手を振りながら「美羽音さん。会いたかったです」と笑顔で応えていた。
 病院を前にしてあずみの気持ちが沈んでしまうことを心配したが、美羽音のおかげですんなりと中に入り、内科の診察を受けることになった。
「とりあえず元気そうだけどさ、健康診断受けて、先生に太鼓判を押してもらおうよ」
 患者を安心させる美羽音のトークは天性のものだ。
 子供じゃないんだからと付き添いをあずみに断られた僕は、美羽音と一緒に中庭に出てベンチに座った。
 以前に謹慎中の美羽音と病院に忍び込んでスエさんと会ったのは、確かあの辺りだったなと、建物の陰の方に目をやりながら、その時のことを懐かしく思い出した。
 あの時のように、スエさんと話す機会が持てるだろうか?
「なあ、美羽音」
「ん?」
「あのさ、もう一度ね、スエさんに会いたいと思ってるんだけど、会えるかな」
「それは、庄司の綾さんのことで?」
「うん。何か聞けたらいいなと思ってさ。どうだろう」
 美羽音が眉を寄せて、首を傾げた。
「うーん。無理かな」
「やっぱり駄目か。歳だからなあ」
「実はスエさん、最近、寝込んじゃって。話しできる状態じゃないんだよね。単純な会話ならいいけど、負担になるようなことは、ちょっと」
「そうか……。そうなんだな。無理か……」
「それよりさ、あずみちゃん、あまり調子が良くないようだったら、少し入院して療養したほうがいいかもね」
 美羽音は何か話題を変えたそうだった。
「その方が、早瀬さんも安心でしょ」
 確かに、万が一のことを考えると、病院にいてもらった方が安心できるが、あずみが素直に言うことを聞くとは思えなかった。
 そう言おうと美羽音に目をやると、何か言いたいことがあるのに、逡巡しているように見えた。
「どうした?」
 突然、美羽音が僕に向かって手を合わせた。
「早瀬さんにお願い!」
「何だよ、改まって」
「理事長、いやシスターのところへ、一緒に行ってほしいんだ。綾さんとシスターのことを知っちゃってから、どうもシスターのところへ行きづらくて」
 綾さんとシスターのこと。――自分と綾さんと名前の由来が一緒だったと聞いて考え込んでしまった美羽音には、その関係性が理解できるよう、シスターは綾さんの子で孤児だったのだという真実を伝えておいた。
 その時は、驚いていたものの、シスターも自分と同じ境遇だったのかと、しきりに感激していたように見えたのだが。その事実を知って却って話しづらくなるとは、人の気持ちというのは何とも複雑だ。
 捨て子の美羽音にとってシスターは命の恩人であり、親代わりでもあるが、同時に聖職者として尊敬する相手でもあった。
 その恩人であるシスターが、実は自分と同じように拾われて育てられた孤児だったのだと知って、急に相手が身近な人となって下りてきたような気がした。そのギャップに戸惑っているのだという美羽音の気持ちは、僕にも理解できた。
 僕は事情を明かした責任もあるので、美羽音をシスターのところへ連れていくことにした。
 理事長室に通じる受付で理事長の在席を確認すると、美羽音が一緒だったせいか、すんなりと通してくれた。
 理事長室の前はいつも通り静寂の空気が重々しく、人を寄せ付けない雰囲気があった。これでは、どんな訪問者も緊張するに違いない。
 ノックをすると、中でくぐもった声が「どうぞ」と言った。
 思い切ってドアを開ける。同時に、シスターがデスクから立ち上がるのが見えた。
 シスターは僕の背後に美羽音がいることに気づいて、少し驚いたような顔をしていた。
 シスターが僕の顔を見る。僕は美羽音に目をやり、当の美羽音はうつむいたまま口を開かず。で、何となく気詰まりな雰囲気になった。
「あのう」美羽音が何故か僕の方に顔を向けながら、ようやく口を開いた。
「早瀬さんから、聞きました」
「何を?」シスターが僕の顔に問いかける。
 間に入った僕は、二人の顔を交互に見た。
「早瀬さんから聞いたのは、えーと、シスターも私と同じ孤児だったという……」
 シスターの眉が、何故教えたのかと僕を責めているように尖った。
 あずみは僕から目を離そうとしない。
 ああ、何ともまどろっこしい。
「ええ、そうです。知っていることはすべて話しました。いけなかったですか。シスターは美羽音の親も同然ですよね。だったら、知っておくべきだと思って、正直に話しました」
 僕が突然居直ったような発言をしたので、シスターは少し引いているようだった。
 しばらく無言だったシスターが大きなため息をついた。
「私の口から、ちゃんと話をすべきでした……。ごめんね、美羽音」
 美羽音と呼び捨てにするシスターの声がとても優しかったので、美羽音も僕も思わずハッとした。
「美羽音が聞いている通りなのよ。私ね、生まれたばかりの頃、ここの修道院の前に置き去りにされたの。母親は庄司綾さんという人だったと聞いているけど、きっと何か事情があったのでしょう……。当時の修道院のシスターたちが私を拾って育ててくれてね、修道女にまでしてくれたのよ」
「私と、同じだったんですね」
「そう。揺り籠に入れられて修道院の入り口に置き去りにされていたあなたを見つけた時、これは運命だと思ったわ。神様が私に母親になりなさいって、言っているのだと。かわいい赤ちゃんだった。いつもニコニコしていて……」
「私、シスターに拾われて本当に良かった。小さい頃よく怒られたけど、その後には優しく抱きしめてくれて。ひとりぼっちじゃないんだって思わせてくれた」
「ひとりぼっちじゃないわよ、決して。あなたには、私がいるんだから」
 シスターが美羽音の頬にそっと手を伸ばした。美羽音がシスターをじっと見詰めている。
「私の母親の綾の名前は蝶を意味していたの。だから、あなたにも美しい蝶の羽が思い浮かぶように、美羽音という名前を付けたのよ。そう、ひとりじゃないの。つながっているのよ」
 美羽音が小さな声で、「お母さん……」と言った。確かにそう言った。
 そして、戸惑うように両手をシスターの方に差し出し、また下ろした。
「お母さん」
 今度ははっきりと聞こえた。
「ねえ、お母さん!」
 美羽音がシスターに抱きついた。
「ああ……、美羽音」
 シスターが両手で美羽音を包み込むように受け止めた。
 シスターの手が、泣きじゃくる我が子を愛しむように、美羽音の背中を優しくさすっていた。
 美羽音がシスターを「お母さん」と呼んだのはいつぶりなのかな、と考えてしまった。
 シスターも修道院で美羽音を育てていくには、立場上、自分のことを「お母さん」と呼ばせる訳にはいかなかったのではないだろうか。「お母さん」と呼んでしまう子を何度も叱ったかも知れない。
 修道院から外へ二人で出かけた時だけ、その時だけは「お母さん」と呼ぶことを許して、今日のように抱きしめてあげる……。
 僕はそんな情景を思い浮かべて、とても切ない気持ちになった。
 綾さんのことを知ろうとすると、いやなことばかり見えてきて気持ちが沈んでいたが、初めてよかったと思える場面に出会えた。





 
 


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