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連載小説「思い出の後始末」#62たてごとさま


第62話 たてごとさま


「俺のやったことに、何か意味があったかな」
 岬の病院のホスピス病棟。ベッドに横たわるスエさんを前にして、建夫さんはそうつぶやいた。
 終末を迎える患者専用のこの個室は、部屋全体が淡いピンク色に配色されており、暖かい陽に包まれているような安らかな気持ちになれる。
 スエさんのベッドのそばに置かれている医療器具は点滴用のスタンドがひとつだけ。軽症ですぐにでも退院できる患者の病室にいるような感覚になる。
 スエさんは、目を閉じ、お面のようにのっぺりとした顔を天井に向けて寝ていた。本当に寝ているだけなのだろうか? 薄手の上掛け布団に先程から目をやっているが、息をしている証をそこに見ることはできなかった。
 僕は病室の窓辺に立ちながら、ベッドの脇でスエさんに寄り添う建夫さんの横顔に目をやった。口元の傷のせいで、皮肉な笑いを浮かべているように見えた。
 やったことに意味があったのか?
「建夫さん。意味は、ありましたよ。会長以下の執行部が辞任したじゃないですか」
 建夫さんが微かに首を傾げた。
「建夫さんのおかげですよ。体制も代わって、これからは、若い人たちの手で切り盛りしていけるようになったんですから」
「でもな、肝心なところをかわされた」
「それは……」
 この町の住民であり漁港の組合員たちを前にして、会長が語ったことをここに書き留めておくことが何か意味を成すのかどうかよく分からない。つまり、それは皆が納得できるような話ではなかったし、今となっては話自体の真偽を確かめようもないからだ。
 建夫さんが皆の前で暴露した「中浜家の雄市が綾さんを襲って、妊娠させた」という衝撃的な出来事の真偽。
 建夫さんは祖母のスエさんからその話を聞いている。スエさんは屋根裏部屋に閉じ込められていた綾さんの面倒を見ていたのだから、話としては信憑性が高いと感じられた。
 それに対し、それを否定する形で会長が語ったのが、綾さんの妊娠という出来事を認識するときの視点を一変させる事実。――会長が本当のことを語っているとしてだが。
「襲ったというのは大きな間違いだ。なぜなら、雄市は綾さんに思いを寄せていたんだ。そして、綾さんも雄市のことを慕っていた。二人は惹かれ合っていたんだよ。いい関係だったんだ。襲うなんてことはありえん」
 会長は二人の関係性を両想いの恋人同士のそれに置き換えて、妊娠が自然な流れであったような印象を皆に与えた。
 二人はスエさんの手引きで密かに会うようになった。ただ、綾さんは部屋に閉じ込められるような身の上だったので、町の名士の息子が堂々と会うわけにはいかなかった。密会の時には屋敷の外で取り巻き連中が見張りに立って、誰にも知られないように逢瀬を重ねた。
 会長は雄市から悩み事として直接相談を受けていたのだと主張した。
 会長が真摯さを前面に出して語ったにもかかわらず、会場の中にその言葉をそのまま信じる人がいたとは思えない。雄市が中浜家の放蕩息子で、周りの者に対して横暴だったということは、この町では語り継がれるほどに有名な話だ。本人を知らない若い人でも、その噂だけは知っている。
 そんな名家のドラ息子でも恋をすることはあるだろうが、圧倒的に想像しやすいのは、暴力的に女性を組み伏す姿だろう。
 雄市の姿にロミオとジュリエットのロマンチックな恋を重ね合わせるのは、かなり無理があった。
 ただ、会長にとって幸いしたのは、会長がこれは雄市本人から聞いた確かな話だと強調することによって、会長自身も、それと対峙する建夫さんも、実際の場面を目撃をしたわけではないのだということがクローズアップされたことだ。二人とも他人から聞かされた話を事実だと主張しているに過ぎない。
 会場の誰もがどちらに与するわけでもなく、どういったリアクションをとればいいのか迷い、口をつぐんでいたのが何よりの証拠だった。
 真実は闇の中。証明しようにも当事者である中浜家の雄市も庄司家の綾さんも、すでにこの世にはいない。
「間違いなく、雄市が綾さんを妊娠させた。会長は認めなかったが、横にいたじじいが口走りやがった」
――うそだろう、生んだのか? おれは見張り役だったんだ。おれはやってない。やったのは……。
 ここで会長が止めに入った。
 限りなく黒に近い。合意とか相愛とかいうニュアンスではない。
 僕はかなり悲しい気分になった。雄市の悪事を暴こうとすればするほど、やるせなさが募った。綾さんの人生とはいったい何だったんだろう。長い間閉じ込められてきたうえに、望まない妊娠をさせられ、出産した。挙句の果てに生んだ子供まで取り上げられて、また独りぼっち……。
 綾さんが自ら命を絶ったとしても不思議ではない。
 では、いったいその責任は誰にあるのか?
 会長が放った言葉で、会場にいた誰をも黙らせたひと言がある。
「庄司綾に対する責任ということを言うならば、それはこの町の全員にあるんだよ」
 その言葉だけで、年嵩の者たちが下を向いた。
「ここは海で生計を立てる小さな町だ。昔から、海が荒れると働き盛りの多くの者が死んだ。漁に出られる者がいなくなれば、どの家も生きていけなくなる。そんな嵐に不漁が重なったことがあった。それは、本当に酷い年だった。皆生き延びるのに必死だったんだ。そんな中で、誰が言い出したか分からんが、この町に不吉な者がいるから不吉なことが起きるんだという噂が広まった。不吉な者だって? そんな奴がいるのか? いや、それがいたんだよ。おかしなことを口走る子供が」
 それが、庄司綾だった。都合のいいことに、庄司家は外から入ってきた数少ないよそ者だった。まさか、子供を人柱にして埋めてしまうわけにはいかないので、屋敷の屋根裏部屋に閉じ込めさせた。町の人の総意という無言の圧力をもって。
 時が流れても、一度閉じ込められた庄司綾が解放されることはなかった。 不幸をもたらす子を開放してはいけないという不文律がこの町にできていた。そして、閉じ込めたことすら忘れかけていた頃、その庄司綾が死んだ。
「本当に、酷い話だ」建夫さんがスエさんの寝ているベッドを離れ、僕と並んで病室の窓辺に立った。
「町の皆で彼女を死に追いやったようなものだ。外部に漏れれば、町の醜聞になる。皆が口をつぐみ、あの会長が主導してすべてをないものにしてきたんだ。雄市のしでかしたことをもみ消すためにも丁度良かったんだろう」
 会長は「この町のためだ。この町のためを思ってやってきたんだ」と力説していたが、それは中浜家を守るためだったのだ。
 三階にあるスエさんの病室の窓からは、緑の木々の頭越しに海と空を区切る青い水平線がわずかに見えている。人間の終末について考えながら水平線を眺めていると、その境目の向こう側にはこの世とは違う世界がパラレルに広がっているように思えてくる。
 ベッドに寝ている患者からは、その景色は見えない。むしろ終末に向かう患者の家族のためにその景色が用意されているのだと思った。
 綾さんは、そっちの世界で、今までとは全く違う人生を送っているのだろうか。
 建夫さんが告発したことで、町ぐるみでひとりの人を閉じ込めてその人の人生を台無しにしたことが明るみに出た。そしてその事実を覆い隠してきた顔役たちが町の要職から総退陣した。
 思わぬ形で世代交代がはかられた。しかし、改革派の若者たちに笑顔はなかった。自分たちの親や祖父母たちがしてきたことにどう決着をつければいいのか困惑している様子がはっきりと見て取れた。
 恐らく、これは僕の推測だが、彼らもまた、この問題を過ぎたこととしてあえて触れないという選択をするのではないだろうか。これまで個人の思いで突っ走ってきた者たちも、今後は町全体という集団の論理で動かざるを得なくなる。
 結局のところ、真実は闇の中。
 そして、今、当時の生き証人がひとりこの世を去ろうとしている。
「もとはといえば、うちのばあさんが悪いんだ」
「建夫さん。外で話しましょうか」
 意識があるかどうかも判然としないスエさんだが、僕と建夫さんの会話が耳に届いているとしたら、人生の最後に悲しみを重ねることになりそうだ。
「いや、ばあさんにも聞かせて、あの世に持っていってもらった方がいいと思う。綾さんに謝ってもらわないとな」
「よく分かりませんが、もう、いいんじゃないでしょうか」
 それでも建夫さんは、うちの恥を闇に葬るのは不公平だからと言って、話すことをやめなかった。
 話の途中、建夫さんの口からある言葉が出た時、僕は思わず聞き返していた。
「ちょっと待ってください。今、たてごとさま、って言いました?」
 建夫さんは頷いて、「たてごとさま」と繰り返した。
 スエさんの罪。
 長い間、閉じ込められていた綾さんの世話をしているうちに不憫さが募ったのか、スエさんは綾さんの存在を外に出そうとした。綾さんを「たてごとさま」に仕立てたのだ。
 庄司家には代々伝わる竪琴という楽器があった。綾さんも子供の頃からその竪琴を弾くことができた。屋根裏部屋で送る日々の孤独さを少しでも紛らわすためか、綾さんはひとりでよく竪琴を弾いて、おそらく沖縄の民謡なのだろう、聞きなれない言葉の唄を歌っていた。
 その不思議な節回しは、スエさんの耳には何か祝詞でもあげているように聞こえたようだ。
 もともと、綾さんには何気に天気を言い当てるようなところがあり、スエさんはそれを竪琴に結び付け、「たてごとのお告げ」として他人に話すようになった。最初は内輪だけで面白がっていたものが、徐々に町の人々の知るところとなった。
 調子に乗ったスエさんは、自分が綾さんの代理人の口寄せになって、勝手なお告げを創り出し、屋敷に人を招くようになった。お礼の貢物を受け取っていたという噂も出た。
 結果として、それが中浜家の雄市を屋敷に引き入れることにつながり、中学生だった啓次郎さんや珠与さんが屋根裏部屋への鍵を開けてしまったという出来事のきっかけを作ることになってしまった。そして、外に出た綾さんは、崖から海に落ちて死んだ。
 綾さんの死後、中浜家の醜聞を隠そうとする会長の画策もあり、全ての責任がスエさんに負わされることになった。不吉な者を利用して懐を潤わせたあげく、鍵を開けて不幸を外に放ったと。
 更に、そのタイミングを見計らったように、これまでにないような大きな嵐がやってきて、海で多くの人が死んだ。
 スエさんの息子もその嵐で亡くなったが、それは自業自得とされた。
「よしひこ。どこへいっとった?
 それにしても、ひどいあらしじゃったな。みんな、やられてしもうて。かっちも、きんちゃんもな。
 ――ありゃあ、だれのせいでもなかろう。なのに、おまえは、とおくにいっちまってな。ずうーと、まっとったんよ。みんな、さみしいおもいをした。たておもかわいそうじゃったな。それにしても、ひどいあらしじゃった……。
 あれは、たてごとさまのたたりじゃて。
そうなんよ。たたりなんよ。……みなで、よってたかって、ばちあたりなことをな。
 そうさな、ひどいあらしじゃった……」
 スエさんが精神をやられてしまったのは、その頃だったという。
 そして、人々による村八分は、孫の建夫さんにまで及んだ。
 建夫さんの語りによって、僕の中の様々な疑問が解けていった。が、しかし、パズルのピースがぴたりとはまったような喜びは少しも湧いてこなかった。
 思惑とか、後悔とか、身勝手さとか、人間の業を形作るようなキーワードが頭に浮かび、ぐるぐると渦巻いていた。
 終末患者のベッドに横たわるスエさんの耳に建夫さんの言葉が届いていないことを願った。無抵抗な者を鞭打つようなことを、僕はすべきではないと考えている。
 死にゆく瞬間、人の頭には何が思い浮かぶのだろうか。やはり心に深く刻まれた様々な後悔が走馬灯のように浮かんでは消えてゆくのではないだろうか。そんな気がしてならない。
 ふと気がつくと、表情の消えたスエさんの顔のその目尻から、涙の小さな球が滲み出て、こめかみを伝って白い枕に流れ落ちていくのが見えた。
 期せずしてスエさんの目からこぼれ落ちたその水滴は、単なる生理的な生体反応だと言い切ってしまうには、あまりにも情緒的に過ぎ、見る人の感情を揺さぶるような複雑な色どりを内包していた。





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