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連載小説「思い出の後始末」#1チュシャ猫からのはじまり


第1話 チュシャ猫からのはじまり


「お前も、いい年をして、人生を踏み外そうというわけか」
「人生を踏み外す?」
 僕は思わずビールの入ったグラスをコースターに置き、右隣に立つ順慶(じゅんけい)に目をやった。赤ら顔の順慶はロックグラスの中の丸い氷を指で転がしながら、歯を見せてニヤニヤと笑っていた。
 チュシャーキャットという名のショットバー。久しぶりに飲もうという話しになると、僕たちはこの店を選ぶ。スタンディングスタイルは、無目的な会話を楽しむ僕たちにはとても似合っている。
「そこそこの地位にいる今の会社を突然辞めて」無精ひげを撫でまわしながら、順慶はどこか嬉しそうに話をした。「キャリアアップを目指すわけでもなく、次のあてもないのに、ただ海が好きだからそこで何か仕事を見つけて暮らしていこうとする、というのを世間一般的には人生を踏み外すというんだよ」
「そんな大げさなことでもないんだけどな」
 古道具屋という不定形な商売をしている順慶からしてみると、社会的に名の知れた企業という定型の中に身を置く僕が、その安定を捨てようとすることに無謀さを感じるのかも知れない。
「なあ、早瀬。オレみたいにかび臭い毎日を送っていると、空気清浄機に囲まれたようなお前の生活がうらやましい」
「本当に、そう思ってる?」
「うん。いや、まあ、正直、そうでもないかも知れんな」
 そう言うと、順慶はまた歯を見せて笑った。僕は無遠慮ともとれる順慶の笑い方が好きだった。仕事に追われた日々の中で、順慶のような笑い方をする人に出会ったことはなかった。
「月と六ペンス」順慶が唐突にサマセットモームの小説の題名を口にした。「そう、月と六ペンスの世界だ。証券マンだった男がある日突然、仕事も家族も捨てて、芸術を追って新しい人生を歩き始める。まさに今のお前だよ。お前も、六ペンスという現実を捨てて月を夢見るつもりなんだな」
 僕は思い切り怪訝そうな顔をした。
 順慶には申し訳ないが、月と六ペンスのモデルである画家のゴーギャンの生き方が自分とかぶるとは、まったく思っていない。僕にはすべてを捨ててまで追い求める何かがあるわけではなかった。
 人に語れるような立派な理由などなかった。「ただ何となく」という表現が一番しっくりくるかもしれない。自分でもよく分からない感情で、例えば、朝会社に行くために革靴の靴紐を結ぶという決まり切った作業の最中に急にむなしさを感じたとか、そんな類いの話しだった。比べてはサマセットモームに申し訳ない。
「ゴーギャンが南の島に移住したというのは魅力的だけど、別に絵を描きたいわけじゃないからね」
 僕の言葉を聞くと、順慶はバーボンを舐めてフンと鼻を鳴らした。
「お前は、くそ真面目で、つまらんやつだ。会話が膨らまん。ビールばかり飲んでるからそんな人間になるんだよ。薄くてインパクトがない」
 濃い人生にあこがれるならバーボンを飲め、と言いながら順慶は自分のグラスを差し出した。
「だが、待てよ」順慶は話題をコロッと変えた。「オレな、来月から南米に行くんだよ。しばらくは帰ってこない」
「南米? 何をしに?」
「ただ、行きたいからさ。気が向いたら古道具を買い付けるかも知れん」
「気軽なやつだな」
「そう、気軽だよ。何かに縛られているヤツは、だいたい、そう言って相手を切り捨てるね。お気軽なやつだ、とね」
「ただ行きたいからか。目的もなく……」
「息をすることに目的が必要か? まあ、それはいい。それより、提案がある」順慶は面白いいたずらを思いついた子供のように目を輝かせた。「オレがいない間、店を預かってくれ。なあ、ちょうどいいじゃないか。都会を離れて、海の近くに行きたいんだろ? 住むところも決めてないんだろ? 家賃はいいよ。ちょっと古道具たちの面倒を見てくれればさ。いい条件じゃないか、だろ?」
 順慶の提案は僕の中にすんなりと入ってきた。これからを白紙としている僕にとって、自分自身を見つめるにはちょうどいい場所かもしれない。
「まあ、検討して……」
 僕は自分の口から出かかった言葉を飲み込んだ。長い間ビジネスの世界にいた感覚が抜けきれていない。とりあえず保留して相手の出方を見る。自分の感覚に素直に従えないのでは、これから先、得られるものも逃してしまうのではないかと思った。
「いや、順慶の提案にのるよ。よろしく頼む」
「早瀬にしては、珍しく即決だな。うん、それでいい」
 順慶は歯を見せてニタリと笑った。
 順慶との間のこんな気軽なやり取りから、僕は『宝島』という名の古道具屋に住み込むことになり、あまり深く考えることもなく都心の賃貸マンションを引き払って、どこにでもありそうな海岸沿いの漁師町にやってきた。しかし、順慶の話しぶりから、せいぜい半年だと思っていた『宝島』での生活が、四季の移ろいを何度も経験するほど長く続くとは、その時には思ってもみなかった。
「ひとつ伝えておくけどな」見送りに行った空港での慌ただしい別れの中で、順慶は僕の耳元でささやいた。
「そのうち分かると思うが、『宝島』には怪人がいるんだよ」
 そう言うと、荷物を背負った順慶は一度も振り返らずに搭乗口へと消えていった。僕は謎の言葉とともに、ひとりロビーに取り残された。
「宝島の怪人?」


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