見出し画像

連載小説「思い出の後始末」#53不穏な影


第53話 不穏な影


 庄司綾の人物像を描くうえで、僕はひとつ大きな間違いを犯していた。
 長い間屋根裏部屋に閉じ込められていた綾さんは、一生部屋から出られないという絶望感から、その屋根裏部屋で自ら命を絶った。――閉じ込められていた人が亡くなるのは部屋内という思い込みから、僕はそういうストーリーを描いていた。
 閉じ込められていた部屋で亡くなったのであれば、その原因は病死か自殺しか考えられない。その死因については庄司家の奥さんも言い淀んでいるようなところがあったので、死因は自殺だったのだろうと僕は結論付けていた。
 そして、すべての景色をその方向から見ていた。
 ところが、啓次郎さんの話を聞いて、それが間違いであったことが判明した。
 綾さんが亡くなったのは屋外、しかも、閉じ込められていた場所から離れた岬の突端であった。今は展望台になっている場所である。
 以前シスターとその展望台で会ったときに、昔は獣道を進むといきなり崖に出るような危険な場所だったと言っていたのを思い出した。
 なぜ閉じ込められていたはずの綾さんがそんな場所に行ったのか?
 その原因を作ったのは、啓次郎さんだった。綾さんと部屋で会っていた啓次郎さんと珠世さんが、綾さんをその部屋から逃がしたのだ。
「俺たちは部屋の鍵がどこに隠されているのかを知っていた。ただ、綾さんに外の世界に触れる自由をプレゼントしたかったんだ」
 それがどういう結果に繋がるのか、当時中学生だった二人には想像がつかなかったと、啓次郎さんは何十年もたった今でも悔やみきれない様子でそう語っていた。
 綾さんの不幸を我が事のように考えた年若い二人が、屋根裏部屋に続くドアを少しだけ開けておいた。恐らく、綾さんが家の中や庭を思い通りに歩き回れるぐらいのことしか考えていなかったのだろう。綾さんがいつどのように部屋を出ていったのかは、啓次郎さんたちも知らなかったようだ。
 綾さんが消えたという噂が広がり、それから暫くして、崖下の海に浮いている綾さんが発見された。原因は不明。
 事実を書けば、そういうことだ。
 しかし、その裏では、綾さんに関わった人が様々な思いを抱えることになった。
 先ず、綾さんだけを『猫屋敷』に閉じ込め、自分たちは別のところに住んでいた庄司家の人々。綾さんを見殺しにしたような後ろめたさと、これで町の人々から中傷を受けることが無くなるという安堵感。
 次に綾さんの面倒を見るよう庄司家から頼まれていたスエさん。鍵のかけ忘れを疑われた。自分でも完璧に鍵をかけたという自信がなく、綾さんの死に対する責任を背負うことになる。
 そして、啓次郎さんと珠世さん。綾さんの死体が発見され、大人たちが大騒ぎする中で、怖くて自分たちが鍵を開けたことを言い出せなかった。その自責の念をずっと心に抱えていくことになる。
 最後に町の人々。綾さんは事故で亡くなったと結論付けることで、綾さんを自殺に追いやったという後味の悪さから逃れようとするも、そもそも自分たちが綾さんを閉じ込める原因を作ったという事実が、町の恥部として記憶に残ることになる。
 啓次郎さんの話から、これだけのことが想像できた。
 皆が示し合わせて、ひとりの人の人生を無かったものにしようとしているように見える。人というのは恐ろしい。人の死に接しても、誰もが自分を守ることしか考えない。
 啓次郎さんや珠世さんにしても例外ではない。自分たちがしてしまったことを言えず、後悔としてずっと抱え込んできた。そのことは、決して気の毒な話として同情を得るようなことになってはいけないのだと思う。
 人がひとり死ぬきっかけを作ったことを薄めてしまうのはよくない。
 自分も含めて、人は思わぬ間違いを犯す生き物だ。それはその通りだ。しかし、その間違いに捉われずに前へ進むために、「仕方がなかった」という便利な言葉ですべてを無かったことにしてもいいものだろうか。
 結局、綾さんがなぜ死んだのか、直接の原因は分からない。
 それでも、もし感情に走った解釈が許されるのなら、綾さんは閉じ込められた部屋でひっそりと死ぬのではなく、派手な死に方を選ぶことで、皆の記憶に自身の存在を刻み込もうとしたのではないかと、僕は考えてしまう。あまりに身勝手な周りの人間に対する復讐ではないかと。
 長い間抱えてきた荷物の重みに肩を落とし、静かに目を閉じているひとりの老人が目の前にいた。それでも、そんな啓次郎さんに同情できず、今後とどういう顔で接するかを考えてしまう僕は、人に厳しく自分に甘い部類の人間なのかも知れない。
 少し頭を冷やそう。
 綾さんの人生をこの世に取り戻すために、冷静になって考えなければ。
 綾さんの死は事故だったのか、自殺だったのか。この疑問の解に近づくためには、綾さんが日々をどういう思いで過ごしていたのかを少しでも知る必要がある。
 その点、僕やあずみは実際に綾さんが過ごしたその同じ空間で生活しているわけで、彼女が送った屋根裏部屋での日々を追体験できる立場にいる。
 人を閉じ込めるのは酷い、可哀想という常識的な感情に捉われ過ぎると、それはそれで、逆説的な言い方になるが、偏見につながることもあるのではないかと思う。
 先入観を持たずどれほど真っさらな気持ちになれるかどうかだが、雑念が服を纏っているような自分には難しそうだ。
 あずみならそれができるのかも知れない。あずみはこちらがイラつくほどの純粋さを持ち合わせている稀有な存在だから。
 あずみは今、庄司家の奥さんのところで、綾さんが大切にしていた簪(かんざし)について調べている。何か新たな展開があっただろうか。
 こうなってくると、綾さんが身に着けていたもので唯一手元に残されているその簪が大きな意味を持ってきそうだ。
 あずみとあずみが身に着けている綾さんの簪の重要性を考えていたら、ふと虫がざわつくような不安感が背筋を登ってきた。
 僕の周りをうろついている怪しい男。
 先日は、漁港に行ったときに、男が物陰からこちらをうかがっているのが目に入った。気づかない振りをしてやり過ごしたが、間違いなく同じ男だった。
 もし綾さんの死に触れることがこの町ではタブー視されているのだとしたら、僕がやろうとしていることは町の人にとって望ましいことではないだろう。ひょっとしたら、僕の周りをうろつく男の存在は、僕の動きに対する警告なのかも知れない。よそ者が余計なことをするなよと。
 だとしたら、一緒に住んでいるあずみにも害が及ばないとも限らない。男の正体と意図が分からない今、万が一のことを考えると、実際に男が庭先にまで現れている『宝島』にいるのは、あずみにとっては危険でしかない。
 では、どこであれば安全なのだろうか。
 そんなことで頭を悩ませているところに、中村水産のヒサさんから電話が入った。力を貸してほしいことがあるので、来てほしいとのことだった。
 ヒサさんがわざわざ電話をしてくるのは、何か緊急の用事なのかも知れない。
 僕はすぐに出かける支度をし、外出しているあずみに連絡を取った。コール音に応答がなかったので、もし帰って来ても『宝島』には入らず、茶房『はな』の啓次郎さんのところに行くようにと留守電に入れておいた。
 急ぎ階段を下りると、僕はそのまま漁港に向かった。
 午後の市場は閑散としていて、のんびりとした空気が漂っていた。
 そんな平穏な市場の雰囲気とは裏腹に、僕を出迎えたヒサさんの顔は緊張で引きつっていた。ヒサさんはすぐに僕を二階の休憩室に連れていった。
 がらんとした休憩室の一角に衝立で仕切られた応接スペースがある。そこにいたのは、亮二くんと茶房『はな』の常連の若い漁師だった。ヒサさんが僕を亮二くんの向かいのソファーに座らせ、自分も僕の横に腰を下ろした。
「早瀬さん。ここだけの話にして」口火を切ったのはヒサさんだった。
「和樹が亡くなったのは、知っているでしょ。それがね、大きな問題になってるのよ。この市場の中で」
「許せないですよ。絶対に! 聞いてください」我慢しきれないように亮二くんが身を乗り出してきた。
「亮二は黙って! あんたが興奮すると、進む話も進まなくなるから」
 ヒサさんの一喝で、亮二くんは手のひらに拳を打ちつけてソファーに身を沈めた。僕が来る直前まで感情を高ぶらせて議論をしていたのが想像できた。
「若い子たちがね、興奮しちゃって。困ったものよ」
 やはり想像した通り、和樹の死をきっかけに、亮二くんたちが漁協の顔役の年寄りに対して反旗を持って立ち上がったということだった。
「私ら、規則とか組織とかちんぷんかんぷんでさ、早瀬さんの力を借りたいのよ。さすがに、ここのおばちゃん連中も、顔役の横暴には怒りを感じててね。もうさ、和樹の両親とか気の毒で見てらんなくて……」
 漁協の役員から今の顔役たちを引きずりおろして若返りを図るという、いわばクーデター的なことを亮二くんたちは考えていた。大げさに言えば、その参謀役になってほしいというのが、僕への依頼ごとだった。
 その背景には、岬の病院のホスピス病棟存続問題で、理事会での廃止決議を阻止できたのは僕の活躍があったからだという風聞にも近い過大な評価があるようだった。現実には僕は石を投げて波を立てただけで、それ以上のことをした訳ではない。
 これまでの経験において、漁協という業態についてはまるで接点がなかったので、どんな組織形態になっているのか一から勉強しないと何も言えない。だが、もし、普通の組合組織であるならば、その役員は組合員の選挙によって決まるはずなので、組合員である漁師たちが決定権を握っているはずだ。
 ところが、ヒサさんの話をじっくり聞いてみると、どうやら、彼らが漁協の顔役と呼んでいるのは、実は漁協という広域な組織ではなく、その下部組織に当たる任意団体の役員ということらしい。しかし、それはまさに漁協の意向を汲んで港単位の実際の取り決めや運用を仕切っている実務部隊なので、現実的には漁師たちの生活に直結するような影響力を持っている。
 問題なのは、その役員が年功序列、さらに言えば世襲のような形で交代していて、民主的な選挙による選択がなされていないという点だ。昔ながらの「網元」という支配制度の名残りなのかも知れない。
 そこにメスを入れるとなると……。問題の根は深そうだ。
 僕は先ず状況をよく把握して何ができるか考えてみることにして、その旨を伝えると、ヒサさんも亮二くんもほっとしたように笑顔を浮かべた。
 自分としては申し出を受けたつもりはなかったのだが、すでこの席に着いた時から、味方としてカウントされていたようだった。
 場の空気が緩んだところで、僕はヒサさんに気になっていた男の存在について聞いてみることにした。
「ああ、確かに変な男がいたね」
 どうやらヒサさんにも心当たりがあるようだった。
「僕をつけ回しているようなんですよ。あずみもいるから心配で」
「ジャケットを着た男だよね。この辺じゃ珍しい格好だから、逆に目立ってたね。ん? でもね、そいつ、あずみちゃんのことを聞きまわっていたみたいだよ。あんたのことじゃなくて」
「え?」
 僕は驚きのあまり足をテーブルにぶつけ、がたんと派手な音を立てながら、ソファーから立ち上がった。
 あずみだって? まさか!





この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?