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連載小説「思い出の後始末」#60中浜屋敷


第60話 中浜屋敷


 僕は常に不機嫌そうで取っつきにくい人が余り得意ではない。まあ、それは誰でもそうだろう。なのに、僕は何故かそういったキャラクターの人に縁がある。
 今、僕の目の前にいる会長がまさにその人であり、不愛想なしかめっ面で言えば茶房『はな』の啓次郎さんといい勝負だ。
 会長の自宅という敵陣の応接間で、そんな会長と相対している僕は、ハブに睨まれた子ネズミのように身を小さくしていた。マングースになって対抗しようと考える間もなく、マウントをとられてしまった感じだ。
 冷や汗の出るようなそのひと時から僕を救い出してくれたのは、会長の奥さん、いやその世間離れした上品さから言えば、正しくは会長の「奥様」だった。
「あら、あなた。そんなに怖い顔をしていたら、お客様が帰ってしまわれますよ。ねえ、早瀬さん」
 奥様は応接テーブルに、蓋のついた来客用の汲みだし茶碗と、会長の前には普段使いの厚手の湯呑みを置きながら、「この人は、これが普通の顔なんですよ」と言って、ふふふと笑った。
 奥様の柔らかな笑い声は会長と僕の間で固まっていた空気を一気に和ませてくれた。
「きみは、またひと言多い」
 会長は奥様のことを、「きみ」と呼んだ。市場では偉そうな口の利き方をしていたので、お前呼ばわりしないことを意外に思った。ひょっとしたら、この家での二人の地位は対等なのかも知れない。
 僕は奥様に勧められて、お茶請けの羊羹を切って口に運んだ。くどくない甘みが口の中に広がって、思わずほっと溜息をついてしまった。
「どうだ、いい羊羹だろう」
 会長も羊羹に手を付けて、美味しそうに食べていた。
「ええ、おいしいです」
 他愛のないひと言でも、口を開いてみると、気分がずっと楽になった。
「彼はな」会長がお盆を手に佇んでいる奥様に向かって話し始めた。
 ここでも「こいつは」と言わない丁寧な口の利き方に少し驚かされた。
「彼は、僕を辞職させようとしてるんだよ」
 思わず、「いえ」と声を上げそうになった。
「あら、まあ」
 会長に勧められて、奥様は小ぶりなスツールを引き寄せ、そこに腰掛けた。会長はどうやら奥様の同席を望んでいるようだった。
「いえ、会長。そうではなくて、この町の将来にとって、よりいい方策を……」
「きれいごとを言わんでいいよ。要するに僕のやり方が気に入らないから、辞めさせたいんだろう」
「いや、気に入らないとかではなくて、もう少しみんなの意見が反映されるような、そんな制度をですね、導入というか……」
 予期せぬストレートな展開に、僕はしどろもどろとなった。
「いいんじゃないですか」
 屈託のない女性の声に、僕は思わず奥様の方を見た。奥様はお盆を大事そうに膝の上に抱えたまま、小首を傾げていた。
「いいじゃありませんか。ねえ、あなた。もう、ゆっくりされたらどうですか」
「きみ、そうは言ってもな。代々引き継がれてきたものもあるし……」
 辞任を肯定するような奥様の言葉に、会長が驚きを見せないことを僕は訝った。ひょってしたら、これはあくまで想像だが、会長は第三者の僕が来た機会を捉えて、このような流れになるように仕向けたのではないだろうか。
 会長も本心は職を辞したいのでは?
「代々なんて、そんな古臭い。もう、あなたと私しかいなのですから、好きにさせてもらいましょうよ。ご先祖さまも、許して下さるわよ。亡くなった父だって、きっと、そうしなさいって言って下さるわ。心配しないで。ね、あなた」
 奥さんの言い方に僕は、何となくこの家の事情が見えた気がした。恐らく、奥様がこの家の当主で、会長は婿入りの身なのだろう。そして、後継ぎもいない。
「そうは言ってもなあ」と天を仰いだ会長の顔には、どこかほっとしたような色が浮かんでいるように見えた。
 僕は余計な口は挟まずに、二人のやり取りを見守った。
「若い方に譲ってね、後ろから見守ってあげればいいのですよ」
「若い連中に任せて、大丈夫だろうか」
「何をおっしゃっているんですか。あなただって、ほら、最初はみんなに心配をされて、色々と助けていただいて、やっとだったじゃないですか」
「また、きみは余計なことを言う」
 奥様はいたずらっぽく、ふふふと笑った。
「でも、懐かしいわね。昔は、この家にはいつも人がいっぱいいて……。そうなのよ。早瀬さん、想像つかないでしょ。本当に昔の話だけれど、若い人たちが自分の家のように出入りしていてね、皆勝手に飲んだり食べたり、泊っていく人もいて。部屋だけはいっぱいあるから」
「そんなこともあったな」
「そうねえ、誰かしら家にはいましたものね。いつからかしら、皆さん来なくなってしまって、寂しくなってしまったわ……」
 確かにこの大邸宅に二人きりと考えると、寂しいを通り越して不安な気持ちにもなるだろう。
 奥様も会長も賑やかだった昔の家の様子を懐かしんで、しんみりとしてしまったようだった。
 それにしても、この家で奥様といる時の会長は、物分かりのいいごく普通のお年寄りにしか見えない。外で皆と接しているときの高圧的な態度とのギャップに僕は戸惑うばかりであった。どちらが本当の顔なのだろうか。
 結局、会長宅の訪問は単なる表敬訪問に終わってしまった。中村水産のヒサさんが期待した調整など何もできなかった。
 得られた成果と言えば、会長は夫婦仲が良く、家庭では驚くほど紳士的だということが分かったぐらいで、会長の辞任については、本人の口から明確にその意思を聞き出すことが出来ずに、曖昧なままとなった。
 更には、帰り際に奥様から手土産を持たされててしまった。賄賂という文字が頭に浮かび、僕にはとてつもなく重い羊羹に感じられた。
 純粋に美味しいものを持たせてやりたいという奥様の気持ちが伝わって、断り切れなかった。
 表現が適切かどうかわからないが、ミイラ取りがミイラになってしまったようだ。
 会長も皆が言う程、あこぎな人間じゃないと僕は思い始めている。これが会長の策略だとしたら驚きだが、僕に対してそんな手の込んだことをする意味もないだろう。
 会長のためというより奥様のために、何とか揉めることなく会長辞任の道筋をつけてあげれないだろうか。
 帰ってから、どう切り出すか? 僕は報告の仕方に窮した。「会長は辞めることも考えているかも知れません」と報告したところで、証拠の音声でもない限り、誰も真剣に取り合ってくれない可能性が高い。
 色々悩んだ末に、翌日市場でヒサさんを前にしたときには、もうありのままを伝えて判断してもらうしかないと腹を括った。
 面談の場に奥様が同席したと聞くと、ヒサさんは目を丸くしていた。
「美彌子さまが? わざわざ?」
「美彌子さまって、奥様のことですか?」
「そうよ。中浜家の当主」
「やはり、ご当主だったんですね」
 その美彌子さまが会長に職を辞するよう勧めていたという話しをすると、ヒサさんは表現のしようのない声を上げて唸った。
「美彌子さまが、そんなことを、決心されて……」お労しやという言葉が続きそうなほどヒサさんは気の毒そうな表情を顔に浮かべていた。
 中浜家は遠い昔から代々この町の要職を務めてきた、いわゆる名家で、先代の跡を継いだ長男が亡くなったために、その妹であり唯一の相続人であった美彌子さまが家を継ぐことになったのだ、という事情をヒサさんは教えてくれた。
「美彌子さまは、立派な方でね、海で亡くなった漁師の子供たちの面倒をみてくれたり、不漁で皆が苦しいのを知って食べ物を振る舞ってくれたり、本当にお優しい方なのよ。先代の奥様もそうだったらしいわ」
 なのに、とヒサさんが顔をしかめたのは、先代の跡を継いだ長男のことだった。ひどい放蕩息子で、漁師たちに横暴な態度で接したらしい。取り巻きだけを取り立てていたので、皆、中浜の屋敷に寄り付かなくなったようだ。
 その長男の要職の地位を継いだ入り婿である今の会長も、その高圧的な姿勢を嫌われている。
「ヒサさん、どう思います? 会長が奥様の言葉を聞き入れて、自ら辞職するなんてこと、ありませんかね」
「ないね」
 ヒサさんの返答は、にべもなった。
「何を考えているか分からないじいさんだからね。ただ、美彌子さまがそうお考えなら……。私たちは、会長を説得してでも、辞めさせなきゃいけないね。しかも、若い子たちと揉めないように、穏便に」
 ヒサさんは、絶対に美彌子さまを悲しませちゃいけないからと言って、じっと僕の顔を見た。
「え? ああ、なるほど……。僕ですよね。ヒサさんの言いたいことは、分かります。僕しかいませんよね。会長のいる前で美彌子さまの言葉をじかに聞いているのは、僕だけですから」
 その通り、というようにヒサさんは大きく頷いた。
 さて、どうやって説得しようか?
 中浜家の応接間で、辞職を勧める奥様の言葉を聞いているときに、会長は頷きもしなかったが、驚いてもいなかった。
「もう、ゆっくりされたらどうですか」「好きにさせてもらいましょう」
 そう言いながら優しく微笑みかける奥様の言葉に、会長は従う。会長は奥様のことを大切に思っているから。――その思い込みをもって、やってみるしかなかった。





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