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連載小説「思い出の後始末」#50美しい羽


第50話 美しい羽


 僕が抱きしめていたのは、本当にあずみだったのだろうか。
 物理的にはあずみしかありえない。その時『宝島』の二階には僕とあずみしかいなかったのだから。
 でも僕の目には相手は庄司綾に見えていたし、庄司綾があずみをセピア色の写真の世界に連れていってしまうのではと本気で恐れていた。
 僕もあずみも庄司綾という過去の人物の調べに「気合」が入り過ぎて、幻覚なのか、せん妄なのか、言葉の定義は別にして、意識の混濁に至るような精神的ストレスを抱えていたことは確かだ。
 あずみは自分が身に着けている遺品の簪(かんざし)の持ち主が分かったことで、僕は屋根裏部屋の住人の人物像が見えてきたことで、かなり興奮していたという下地もあった。半ば夢を見ているような状態だったのだろう。
 僕は現実的な人間で、どんな現象だろうが実際に知覚できるものは理論的に説明がつくはずだと思っている。霊などという漠然とした言葉で簡単に置き換えたくはない。
 ただ、庄司綾という人物に関しては、合理性優先の僕の感覚が揺らいできている。「閉じ込め」という異常な状況下に置かれた可能性に気がついてしまったからだ。もし、綾さんが何年にも渡って狭い屋根裏部屋に閉じ込められ、遂には自殺をしたのだとしたら、人を恨む怨念のようなエネルギーがその空間に残るということがあるのではないかと思い始めている。
 「閉じ込め」が本当にあったことなのか、僕はそれを知りたい。
 しかし、それを調べるといっても、庄司さんの奥さんの両親のさらにひとつ上の世代の出来事だ。恐らく50年以上となる昔の話の真実にどうやれば到達できるのか、その道筋が僕には見えていなかった。
 綾さんがどんな人物であったのかは、あずみと手分けをして調べることにした。あずみには、簪に興味のある庄司家の奥さんと一緒に、簪と綾さんの関係を追ってもらうことにした。
 僕の方は、確信が持てるまで誰にも言わないつもりだが、「閉じ込め」と「自殺」が実際にあったことなのかを調べてみようと思っている。
 とはいえ、「庄司綾」のキーワードでネット検索をかけても、何もヒットしてこなかった。この町の事件や事故に関しても、それらしいものは出てきていない。やはり外部には漏れない、あるいは意図的に隠すような、家庭内だけに留められた問題であった可能性は高い。
 ただ、ネット検索をしているうちに、思わぬ記事が引っ掛かってきた。この町で起きた海難事故の古い記事。嵐の中海に出た船が遭難し、7名の方が亡くなったというものだった。
 これは、ごみ屋敷の建夫の祖母、スエさんの語りに出てきた嵐の日の事故のことに違いない。亡くなった方の一覧の中に、中村水産のヒサさんの父親らしき名前が見つかった。欣二さん。
 こうして死亡者の実名を見せられると、遭難事故の深刻さがリアルさをもって認識させられる。こちらの方は町全体を巻き込むような大事件で、その影響がいまだに漁協の年寄りと若者との対立として引き続いているようだ。
 記事では嵐の中を定置網の保護に出掛けたことが原因と書かれていたが、そこに至る経緯が気になる。しかし、今は、綾さんの問題に集中しよう。
 四角い部屋の中でじっとパソコンに向かっていると、息苦しさとともに思考も行き詰ってくるので、気分転換に啓次郎さんのところに顔を出すことにした。
 はなが実家に戻ってからは、店の方は開店休業のような状態で、たまに常連が珈琲を飲みに立ち寄るぐらいであった。勿論、啓次郎さんひとりでは、ランチも提供できない。
 啓次郎さんの体調のこともあり、心配なので、雑談がてら様子を見てこようと思った。
 冷蔵庫にの中の日持ちのする食料品を手土産に、僕は階段を下りて、茶房『はな』に向かった。門を出るときに、植え込みにある素焼きのシーサーを見て、これは庄司家の誰が置いたのだろうかと、ふと考えたりした。
 啓次郎さんの店の前に立ち、暖簾の出ていないガラス戸を引き開けると、お客さんの声がした。
 カウンターに美羽音が座っていた。
「お、早瀬。ジャストタイミング」
 美羽音が僕を手招きした。
 カウンターの中の啓次郎さんは、直前まで浮かべていただろう笑顔を見事に引っ込めた。
「何か僕の良からぬ噂でもしていました?」
 啓次郎さんに食料品の入った紙袋を渡しながら、美羽音の隣に腰掛けた。
「そうだ。良からぬ噂だ」啓次郎さんが美羽音に向かって顎を突き出した。「今、こいつにな、いい歳をして好きな男もいねえのかって皮肉ってたんだよ。そうしたら、何と言ったと思う? よりによって、お前のことが好きなんだと」
「啓ちゃん、ダメだよ。恥かしいじゃん」
「だからな、あいつはろくなもんじゃないから、やめとけって説教してたところよ」
 啓次郎さんは僕の顔を見ながらスコッチのボトルを取り出し、「今日は酒の気分だろ」と勝手にオンザロックを作り始めた。
 たとえ冗談のだしに使われていたとしても、場が和んでいることは、気持ちが張りつめていた自分にとってはありがたいことだった。エスプレッソではなく、お酒にしてくれたところも、啓次郎さんは僕の体の芯にこびり付いた疲労を一目で見抜いてくれたのだと思う。
 僕はロックアイスをカタカタいわせながら、スコッチウイスキーを口に含んだ。とろみのある濃厚な刺激が口の中に広がった。
「美羽音に、話をしたよ」
 啓次郎さんが世間話でもする気安さで、僕にそう報告をした。いずれはとは思っていたが、早めに美羽音にも伝わったのを聞くと、やはりほっとする。
「うん、聞いた。病気の話。ちょうど私が復帰するときで、よかったよ。ね、啓ちゃん」
 相槌を求められて、啓次郎さんはきまり悪そうに頷いた。
「ホスピス病棟への入院手続きは私に任せて。超VIP待遇でやっとくからさ」
「VIP? 冗談はやめてくれ」
 美羽音は「冗談に決まってるじゃん」と言いながら、からからと笑った。
 余命をカウントするような深刻な状況でも、さっぱりと笑い飛ばせる美羽音はさすがだと思った。看護師としての強さと、患者を不安にさせない優しさが身についている。
 ホスピス病棟でも「みーちゃん」と呼ばれてみんなから愛されている、その訳がよく分かる。
「あ、そうだ。入院には保証人が必要なんだけど。ご家族の方って?」
 美羽音にそう切り出されて、啓次郎さんは一瞬言葉に詰まったようだった。
「いや、それは、僕がなるよ。保証人。えーと、ほら、息子さん、遠方だからさ。ね、啓次郎さん」
 啓次郎さんはグラスを拭きながら、目で「悪いな」と礼を言った。
 美羽音はそこから更に事情を探るようなことはしなかった。
「なあ」
 啓次郎さんがそこで言葉を切ったので、僕も美羽音もカウンターの中の啓次郎さんを見詰めた。
「なあ、美羽音。庄司綾さんという名前を聞いたことがあるか?」
「啓次郎さん、いいんですか?」
 綾さんのことは他人には秘密にしているのかと思っていたが、違ったのだろうか。
「ショウジ? それって、猫屋敷の? あ、今は『宝島』だけど」
「そう。上の屋敷の庄司さんだ。昔な、あの屋敷に綾さんという人が住んでいた」
「綾さん?」美羽音が僕の方に顔を向けた。「それって、ひょっとして、あずみちゃんの絵の人?」
「うん。あの絵に描かれていた人が、庄司綾さん。『宝島』の屋根裏部屋に住んでいたらしいんだ」
「その人なんだね。ほら、あの時あずみちゃんに取り付いた……」
 美羽音がそこで啓次郎さんの顔を伺った。啓次郎さんに聞かせていいものなのか迷ったのだろう。
 啓次郎さんは取り付いたという言葉に表情も変えず、進めろというように黙って顎をしゃくった。
「私ね、やばいと思うんだ。あずみちゃんって、色んなものを受け取りやすいから。心の壁が薄いんだよ」
「そうだな。実は、僕も同じような体験をした。正直、怖かった。それだけに、綾さんのことをしっかり調べて、客観的に見れるようになることが大事なんじゃないかと思うんだよ。僕もあずみも」
「それは、分かるけど……。心配だなあ」
「綾さんが、どんな思いで屋根裏部屋にいたのか。どんな状況で亡くなったのか」
「それって、まりえちゃんのお母さんが知っているんじゃないの? 庄司家の人なんだから」
「聞いてみたよ。でも知らないようだった。隠しているようには見えなかったけどなあ」
「お前ら、いいコンビだ」啓次郎さんがふと口を開いた。
「美羽音……」
 そう呼び掛けたまま、啓次郎さんは昔のことを思い出すように、遠くに目をやった。
「俺が、十代の頃だったな。あの屋敷に綾さんという人がいて。何だろうな。不思議な人で。雪のように、白い人だったな。きれいな人だったよ」
 啓次郎さんは、綾さんについて、ぽつりぽつりと語り始めた。
 言葉は少なかったが、その話の中で興味深いことが分かった。啓次郎さんと海龍善寺の珠代さんが実は同級生だったこと。そして、珠代さんと二人で最初に綾さんに会ったのは、建夫の祖母のスエさんに連れられて屋敷に行った時だったということ。
 綾さんは病気で外には出られないと聞いていたから、会えた時には学校の話しや友達の話しをいっぱいしてあげた。綾さんがとても喜んでそれを聞いていた……。綾さんとの記憶は、今も啓次郎さんの心の奥底に大切にしまわれているようだった。
 まだ幼さを残した二人が、レトロな家具に囲まれた屋根裏部屋で、病弱なお姉さんを喜ばせようと一生懸命に話をしている。――そんな様子が、古いシネマを見ているように映像として頭に浮かび上がってきた。
 ひょっとしたら、綾さんは啓次郎さんの初恋の人だったのだろうか?
「ひとつ分かったことがあるんです」
 僕は啓次郎さんに、綾さんの名前の由来につながる話をした。
 庄司家の出身地の沖縄の言葉にある「綾蝶」アヤハベル、それは蝶を意味していて、綾さんの名前は蝶をイメージしてつけられたのではないかということ。だから、綾さんは蝶の簪を自分のように大切にしていたのだということも。
 綾さんは、美しくも命の短い蝶のような人だったのだろう。
 その話を聞いた啓次郎さんが、美羽音に優しい目を向けた。
「お前と、同じだな」
「え? う、うん」美羽音が何か戸惑ったような顔をしている。
「私の名前の由来と一緒だよ。美しい羽の音。美しい羽って、蝶のことなんだって。綾さんの名前と……、偶然かな」
 確かに偶然なのだろうけれど、身近に過ぎる一致だと僕は感じた。
「その名前、美羽音という名前、誰がつけてくれたんだ?」
「シスターだよ。病院の理事長」
「あの、シスター? そうなのか」
「置き去りにされた私を拾ってくれたのが、シスターだよ。それで、名前を付けてくれた」
「美しい羽の蝶?」






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