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連載小説「思い出の後始末」#57立ち上がる人


第57話 立ち上がる人


 漁港の様子を見に行こうと思い立ち、ウインドブレーカーを羽織って庭に出た時だった。
 庭から門の方に目をやって、僕は思わず、あっと声を上げた。
 しまった。こちらから出向く前に先を越された。
 門のところに立っている男の人の姿を見て、僕はその場で深く頭を下げた。
 着古したチェックのワークシャツに汚れたジーンズ姿の建夫さんが、困ったような顔をしてこちらを見ていた。
 あずみを助けてもらったお礼をしなければと思っているうちに、ずるずると日が経って、結局こうして不義理をすることになってしまった。
 単独で会いに行こうか、それとも中村水産のヒサさんや亮二くんに相談してから行こうかなどと、行くのを遅らせるようなことばかり考えていて、一向に腰を上げなかったのは、できれば行きたくないという気持ちが自分の中に少なからずあったからだと思う。
 ゴミ屋敷の住人。浮浪者のような格好で、得体の知れない人間。――僕は人の身なりや社会的地位でその人間の価値を判断するという、恐らく子供の頃から刷り込まれた価値基準をいまだに後生大事に抱え込んでいる。
 建夫さんの姿を目にして、頭を下げることができたのは、誰もいない『宝島』の庭での出会いだったから。もしこれが、他人の目のある漁港などのような場所だったら、素直に頭を下げていたかどうかは分からない。
 ただ、ひとつ自分の中にも気持ちの変化があった。これまでは相手のことを心の中で思い浮かべる時、「建夫」と呼び捨てにしていたのが、あずみの事件以来、「建夫さん」と多少なりとも敬意を払った呼び方に意識が変わっていた。
「建夫さん、どうぞこちらに入ってきてください」
「いいのかい?」
 建夫さんは入り口でなおも躊躇しているようだった。
 周りの人から無視をされても平気で生きていけるような図々しい人だと思っていたので、遠慮深げな様子に意外さを感じた。
 僕は庭に置かれている椅子を二つ、適度な距離を置いて並べた。
「ここへどうぞ」
 他人の家に入ることに慣れていないのか、建夫さんは乱れた頭をかきながら、照れ臭そうに庭の中に入ってきた。
「建夫さん、改めまして、早瀬です」
 以前、ゴミ屋敷に出入りしていたあずみを連れ戻しに行った際に顔を合わせているが、名前も名乗らず随分と失礼な態度をとったのを恥ずかしく思い出した。
「ああ、早瀬くん、だね。あずみちゃんから聞いているよ」
 建夫さんは椅子の上で居心地悪そうに腰を動かしていた。
 改めて建夫さんを正面から見た。彼に対して全体的にうす汚れているような印象を持っていたが、こうして間近で見ると、着ているネル地のシャツも中のTシャツも、厚手のしっかりとしたコットン生地であることが分かった。ジーンズにしても、履き古されてはいるものの、よく体に馴染んでいるように見える。
 匂いを警戒していたが、体全体から異臭が漂ってくることもなかった。
 元来はおしゃれな人なのかも知れない。
 ひょっとしたら、この人はわざと顔や手を汚し、ダメージを与えた服を身にまとっているのでは。――そう思えるほどに、相対で接していても何の違和感も覚えることのない相手であった。
「改めて、あずみを助けてくれてありがとうございました」
 僕は椅子から立ち上がって、再度頭を下げた。
「当たり前のことだから」
 ぼそっと、聞こえるか聞こえないかぐらいの小さな声で、建夫さんはそう言った。
 僕の中の建夫さんのイメージが、いい方向に崩れていった。
「それより、あずみちゃんはどうしてる? あんなことがあったから、心配でな」
「心配してくださるんですか? ありがとうございます」
 僕が重ねてお礼を言うと、建夫さんは嫌な顔をした。人に頭を下げられるのは好まないようだ。
「あずみは、やはり、ショックを受けたようで、一時は熱も出たんですが、それは下がりました。まだ静かにしてますけど、もう大丈夫だと思います。あ、ぜひ会ってやってください。本人も喜ぶと思いますから」
 建夫さんは『宝島』の建物を見上げて、目を細めた。
「いや、様子が分かればいいよ。それに、この屋敷に入るのは、ちょっとな……」
 やはり建夫さんもこの建物には悪いイメージを持っているのだろうか。猫屋敷には幽霊が出るといった噂を信じるような人には見えないが。
「ここのことで色々噂があるようですけど、大丈夫ですよ。毎日寝起きしてても、家具の扉が突然開くなんてことはありませんから」
 僕は冗談交じりに努めて明るい声を出した。
 建夫さんは猫屋敷の話題には触れず、椅子に座り直し、海の方に目をやった。
「あずみという子は、本当に不思議な子だな。こんなむさ苦しいなりの男を前にして、いやな顔を少しも見せない。俺が町のやつらに嫌われていることも、まるで気にしてないようだ」
 世間の評判を気にする僕には耳の痛い話だった。
「何回も遊びに来てくれて、それは、別に変な正義感やら同情からではなくて、純粋に俺のことを見てくれて、小屋の中のものにも興味を持ってくれて、何と言えばいいか……、人の汚れた心を綺麗に洗い流してくれるというか、うまく言えんが、そんな子だな」
 人の心を洗い流してくれるという表現が僕の胸をドンと突き飛ばした。僕はあずみの言動に対して、イラつきを覚えることの方が多かった。心を洗われるとか、そんな風には感じたことがなかった。
 あずみの濁りのない赤ん坊のような心には、本来、澄んだ心の持ち主しか共鳴できないのかも知れない。
 建夫さんの心は何色に見えるのだろうか。あずみに聞いてみたい。皆から避けられ、村八分にされている建夫さんの心は、怨みや怒りや悲しみで真っ黒に塗りつぶされていると、僕はずっとそう思っていた。
「建夫さんは、周りの人を怨んだりしないんですか? 何か、みんなが無視をしているみたいで……」
「それは、頭にくるさ。なんで俺だけこんな目に合わなきゃならないんだと、怨みにも思ったよ。でもな、人間って苦痛を与え続けられると、それに慣れるというか、感覚が麻痺してきちゃうんだよ。そういう状況に置かれるのが当たり前になって、自分からもそんな風に振る舞ってしまうようになる」
 恐ろしいことだよと建夫さんは呟いた。この人は冷静で頭のいい人なんだなと思った。自らの置かれている状況をきちんと客観的に分析することができている。
「危うく自分を見失うところだったよ。彼女が現れなければ、俺は泥沼に沈んでいくところだった。彼女はね、普通に接してくれたんだよ。普通にお喋りをして、普通に笑い合って、彼女の真っすぐな視線からは、何の偏見も感じられなかった。分かるかい? 普通であるということが、どれだけ貴重であるか」
 僕は建夫さんをまともに見ることが出来ず、視線を足元に落としていた。
「あずみちゃんが君のことを良い人だと言っていたから、きっとそうなんだろう。だから、こんな話をする気にもなっている」
 もし目の前に穴があったら、文字通りそこに入りたいような気分だった。
「俺は、きみたちと全く同じ、普通の人間であることを忘れていたんだよ。世を拗ねて、隠れるようにして暮らしていた。でもな、俺も普通の人間のように、怒ったり笑ったり泣いたりしていいんだって、気付いたんだ」
 そう、もっと怒っていいんだ。と、建夫さんは繰り返した。
 今日も、ここから見える海はどこまでも青い。そんな当たり前の表現しかできないほどに普段通りの眺めであった。この景色を何も感じることなく普通に見ることのできる僕は、やはり幸せなのかも知れない。
 ふと、屋根裏部屋の椅子に座って、天窓から見える空だけを眺めていた綾さんのことを思った。彼女はどんな思いでその四角く切り取られた空を見上げていたのだろうか。
 普通であることの幸せを見逃している僕には、想像がつかなかった。
「早瀬くん。君は、漁港で若い奴らと年寄りたちが対立しているのを知っているよな」
「あ、はい。色々と理不尽なことがあるみたいです」
「うん。それで、若い奴らが立ち上がった」
「ええ、そうです。漁協の顔役達の横暴さに我慢しきれなくなって、ですよね」
「そう。ついにな……。みんなずっと耐えてきたんだ。この町の決まり事に」
「決まり事?」
「古臭い因習だよ。上下の縛りだ。昔から船を仕切っている奴には逆らえない。そいつらが白と言えばすべて白。自分たちで権利を作り出し、皆に義務を負わせる。そいつらに睨まれたら、この町では生きていけないんだよ」
「いまどき……」
「そう、いまどき、だ。軒下に吊るされた鳥籠のような町なんだよ、ここは。籠の中では何も変わらん。家の名前も、人の顔も、記憶もずっと一緒で、変わることがない」建夫さんは自分の手や体を見回した。
「だからな、一度でもこいつは黒だと言われてしまえば、籠の中にいる限り、黒いままでいなければならないんだ」
「それは、おかしなことですよね」
「おかしい? きみは、簡単に言うなあ。真っ当なことを、あっさりと、簡単に……。うん。そうなんだな。実は、簡単なことなんだ。おかしいと口にすればいいだけなんだ」
 建夫さんが僕を見て笑った。でも、僕を通り越してその先を見ているその目は笑っていなかった。何か大きな決意を秘めている、その決意が伝わってくるような厳しい視線だった。建夫さんは何をしようとしているのだろうか。
「中村の亮二たちが動き出した。しかし、若い奴らだけでは、やれることは限られているだろう。半端なことをやれば、俺のようになる。それだけの力を、あの年寄りたちは持っているからな。だから、陰ながら力を貸そうと思う。まあ、見ていろ」
 それを僕に伝えに来たかったのか、ひと通り話をしてしまうと、建夫さんは椅子から立ち上がり、大きく伸びをして、のんびりとあくびをした。
「なあ、早瀬くん。あずみちゃんを、大切にしてやってくれ」
 そう言い残すと、建夫さんは僕に背中を向け、一度も振り返らずに『宝島』を後にした。





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