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連載小説「思い出の後始末」#67終章


第67話 終章


 僕は今、『宝島』の二階の部屋で、開け放った窓から外の景色を眺めている。
 庭先に続く雑木林を見ながら、ああそういう季節なんだと改めて認識した。
 普段は常緑樹の木立に紛れて目立つことのない桜の木が、この時ばかりは両腕に満開の花を乗せ、その存在を派手に主張している。深まる緑の中、そこだけ浮き上がるようなピンクの色彩が目に染みるようだ。
 時折やって来る海風に吹かれた桜の花びらが、音もなく宙を舞う。
 見慣れた風景画に新たな筆を走らせるようにさらさらと流れていく、その桜の行方を目で追った。
 どこへ行くのだろうか? 
 どこへ……。
 僕は、ふと、自分の手元に視線を落とした。そして、手の中にあるものを改めて見詰めた。
 僕の手には折り目のついた白い便箋が握られていた。
 ――あずみからの手紙。
「早瀬さん。早瀬さんがこれを読まれる頃には、私はこの町を後にしていると思います。なぜだと、驚かれる早瀬さんの顔が目に浮かびます。ごめんなさい。驚かせてしまって……」
 『宝島』の郵便受けに投げ込まれていた無地の封筒の表書きには、「早瀬さんへ」としか書かれていなかった。その右肩上がりの独特な字体があずみのものであることが僕にはすぐに分かった。
 わざわざ文章で何を伝えようとしているのかと訝しく思いながら、手紙の文字を目で追った。しかし、二度三度と繰り返し読んでも、何故? という疑問が先に立ち、言葉の意味するところが頭に入らず、困惑するばかりだった。
 その時は、この町から去るのだという事実だけを受け取り、いったん手紙を封筒に戻した。
 そして、日を改めた今、気持ちをニュートラルに戻し、僕はその手紙を広げている。
「早瀬さんには大変お世話になりました。私に振り回されて大変だったでしょう。というか、私は早瀬さんの好意を利用したのだと思います。
 私はずっと兄の束縛から逃げることばかり考えていて、いよいよ逃げ出そうとした時に、あなたの顔が浮かびました。あなたなら押しかけても絶対に断らない、いや断れない人だろうと思いました。私の思惑通り、あなたは私を受け入れ、色々と世話まで焼いてくれました。精神的な弱さを見せてあなたの同情を引くことも、上手にできました。私は、ひどい女です」
 僕は手紙から目を逸らせ、「利用されたのか」と二度呟いてみた。そうしたところで、そのことを受け入れようとしない自分の心に蹴りを入れることにはならなかった。
「その兄が死にました。もう私を縛りつける者はこの世にはいないんだと、開放感に浸ろうとしましたが、そうはいきませんでした。兄が死んで悲しいという気持ちはありません。なのに、気持ちが晴れませんでした。この場所にいる限り、私が本当に自由を得ることはできないのだということに気づいたのです。あの岬には死んだ兄の怨念が残り、記憶となって、また私を苦しめるでしょう。そして何より、目の前にいるあなたの優しさが、再び私を縛りつけるのではと恐れているのです。
 逃げ出すのかと言われようとも、私はここを離れることにしました。建夫さんも同じようにここを離れ、新しい場所で生きていこうとしています。私たちは共に似た者同士で、暗い闇の中を歩んできました。そして二人とも、そこから脱するためには長い長い助走期間が必要なのだということも分かっています。
 お互いにそれが分かるからこそ、一緒に居れるのだと思います。私は今、建夫さんのもとにいます」
 日を置いたことで、最初に手紙を読んだ時の驚きと混乱は去った。しかし、冷静に手紙を読み返してみても、やはり僕にはあずみの本当の気持ちが分からないようだ。優しさが人を縛りつけるという感覚が僕にはどうしても理解できなかった。
 ゴミ屋敷の前に立つ建夫さんの薄汚れた姿を思い浮かべながら、まともさの比較においては負けるはずがないのに、なぜ建夫さんなんだと首を傾げた。
 つまり、僕はひどく傷ついていたのだ。
 弱い人間だからと人一倍気にかけて付き合ってきた相手に、うざかったんだよと本音を聞かされ、ずっと自分がピエロのような存在だったのだと思い知らされたような気分だった。
 僕は自尊心を保つために、あずみの行動の理解に自分が納得できるような理屈をひねり出そうとした。
「本当は、あずみは僕に迷惑を掛けたくなかったんだ。別れるのが辛くて、わざと僕に嫌われるようなことを書き並べているんだ」
 と、そこまで考えて、プラス思考もここまでくると害悪だなと苦笑いをした。
 しかし、全てにおいて、人生とはこういうものなのだろう。
 誰もが、物事を自分の都合のいいように解釈をして、自分の人生に取り込む。自分の描く人生にそぐわない出来事はなかったことにして、忘れ去ろうとする。
 その積み重ねで出来上がったものが人生だ。
 では、そこまでして真実を捻じ曲げながら作り上げた人生に、果たして意味などあるのだろうか。
 いや、そもそも意味などを考えるものではないのかも知れない。
 人生に意味など見出さずに、自分が「やるべきこと」ではなく、「やれること」を淡々とこなしていけばいいのではないだろうか。
 『宝島』の店番としてこの町にやってくる前、都会暮らしのビジネスマンであった頃は、人生に意味を求めるようなことはなかったと思う。次々に沸き起こってくる目の前のディールをいかに効率よくこなすか、それに伴う人間関係をどうやって構築していくか、そのことに没頭するだけで時間は自然と流れていき、過ぎてゆく時間そのものが自分の人生だった。
 もしそこに何かしらの意味を見出すとすれば、社会全体を動かす機械の小さな歯車として機能しているという実感が得られるかどうかぐらいだろう。
 雲を掴むような「人生の意味」などを考えて悩み迷い立ちすくむ日々を送るより、目の前のことをこなすことに没頭している方がよほど健全で意味を成す生き方ではないだろうか。
 あずみは手紙の最後で、自分の兄の死についてひと言触れていた。
「兄は岬の突端の崖から落ちて亡くなりました。なぜそんなところでと、疑問に感じましたか? それは、私が綾さんの簪(かんざし)を埋めた時、それを願ったからなのです。それで、兄に心を閉じ込められていた私のことを不憫に思った綾さんが私の願いを聞き入れて助けてくれたのです。それが答えです」
 夥しい蝶の群れに抱きかかえられるように崖へと向かう男の姿が目に浮かんだ。
 形は異なるが、閉じ込めによって人生を奪われていた二人、綾さんとあずみの物語を完結させるのに、それは相応しいエンディングストーリーだと思う。
 あずみの兄の死は、これより先、この町では誰も触れることのない出来事だ。あずみの手紙に書かれた結末を以って納得することが、関係した人々の心の安定のためにも、最良の選択なのだろう。
 あずみは僕のもとを去った。そこに、無理に意味を見出そうとする必要はないのだと思うようにしている。
 事実を事実として受けとめることにしよう。
 
 最後に庄司家に伝わる不思議な数え歌について、僕なりの解釈を記してこの記録の筆をいったん置こうかと思う。
 
「たまごが、へいにすわったよ
 たまごが、したにおっこちた
 よにんのひとに、よにんをたしても
 たまごはもとに、もどせない」
 
 玉子の形の起き上がりこぼしを手に、庄司家の奥さんの娘、まりえが無邪気に口ずさんでいた歌。
 この歌には何らかの寓意が込められているのではないかと、ずっと気にかかっていた。
 多くの昔話や童謡には、その裏に恐怖や悲惨さを感じる伝承や教訓が隠されている。同じように、この言葉遊びの歌にも、その裏に庄司家の悲しみが隠されているのではないかと考えた。
 それは、四人という数字の四を「よん」ではなく「し」と置き換えた時に気付いた。「四人」ではなく、しにん、漢字をあてると「死人」。
 庄司家で高いところから下に落ちて死んだ人と言えば、崖から海に落ちた庄司綾のことだ。
「よにんのひとに、よにんをたしても、たまごはもとに、もどせない」
 この意味不明な数字合わせの部分が、死人とすることで意味を成した。
「死人に死人を加えても、庄司綾は元に戻らない」
 町の人の偏見によって部屋に閉じ込められていた庄司綾が、鍵の開けられた部屋を出て、岬の崖から海に落ちて溺死した。
 両親は悲しみ、人々を恨んだ。
 ところが、庄司綾の死後、港を大きな嵐が襲い、多くの人が亡くなった。
 その大きな不幸は、綾の両親からすれば、娘を死に追いやった町の人に対する天罰だと思えたに違いない。少なからず溜飲を下げたことだろう。が、しかし……。
「いくら死人に死人を加えても、綾が戻ってくるわけではない」
 それに気づいた両親は人を怨むことの虚しさを知ったのではないだろうか。
 何をしたところで死んだ人が生き返ることはない。
 ――それは変えようのない真実でありながら、言いようのないやるせなさを含んでいる。人はそのような不条理さに満ちた海の中を、見えない対岸に向かって、今日も泳いでいくのだ。
 
 
                                 了


ご挨拶
長い間ご愛読をいただきありがとうございました。
見知らぬ海辺の小さな町で、もし『宝島』を見かけましたら、ぜひお立ち寄りください。
僕は今日もハイビスカスレッドのピックアップトラックを海に向かって走らせています。



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