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連載小説「思い出の後始末」#49蝶が舞う
第49話 蝶が舞う
久しぶりに「夢」を見た。
都会生活を離れ、『宝島』に来てから見るようになった夢。
誰かに追いかけられて逃げるのだが、安全なはずの自分のマンションにたどり着けない。さらに逃げようとすると、濃い霧の中から「きみをもらったよ」という声と共に、黒眼帯に髭ズラの海賊のような男がのしかかってくる。――そんな夢だ。
夢の中で、逃げようとするのに体が全く動かず、気ばかりが焦っていた。
寝起きに嫌な汗をかいた僕は、シャワーを浴びることにした。
丸いシャワーヘッドからほとばしるお湯を滝行のように背中に受けながら、じっと目を閉じていると、息苦しさとともに、自分の心臓の鼓動が気味悪いほどに高鳴ってくるのを感じた。
原因は、はなだ。閉じた目の裏の闇の中から、はながこちらを見ている。
恨めしそうにじっと僕を見詰めているその顔が、目から離れない。
はなも啓次郎さんも、両親との間に確執がったことは誰にも話していなかった。聞かされていたのは、僕だけ。つまり、嫌がるはなを見捨てるように両親の元に返すことに加担した責任を、僕はひとりで背負うことになる。
あずみも美羽音も中村水産の亮二くんでさえ、はなが実家に帰ったことについては、「実家で何かあったのかな」程度の疑問しか抱いていなかった。
人の人生にレールを敷いてしまったような重い責任を、実際にはなの姿が消えてから強く感じるようになった。実家に帰す以外の選択肢を真剣に考えようとしなかった自分が悪い。
僕はふと視線を上げた。あずみに話せるか? いや、重荷を他人に負わせるようなことをしてはいけない。自分だけで抱えていくべきだ。
僕は大きく頭を振って、シャワーの水をまき散らしながら、髪をガシガシと音の出るほど激しく洗った。
それで何を落とせるわけでもない。ただ、痛みというものを自分の体に刻み付けようとするかのように、頭皮に爪を立ててひたすら激しく、血が滲みそうになるまで洗った。
本当の痛みを知らなければならない。半端ではだめだ。
そう、人の人生に中途半端に関わってはいけない。
その言葉の深さを、こうなって初めて実感している。
僕はシャワーを止めると、濡れた体のまま、バスルームの折り戸をじっと見つめた。真剣に、本当に真剣に、目の前のドアを開けなければならない。その向こうに、人のどんな人生が見えようとも、真剣に関わらなくてはいけない。
この家にまつわる人々の人生を知る。それは、余命少ない啓次郎さんの頼みに応えることでもあった。応えるからには、半端にはしない。
僕は落ち込んでいた気分が急激に高揚していくのを感じた。
その前向きさは、納得のいかない形で送り出してしまったはなに対する罪悪感の裏返しだったのかも知れない。
久しぶりに頭がフル回転をするのを感じた。
僕はさっと着替えると、頭も乾かさずに、庄司家の奥さんに電話をした。
啓次郎さんから渡された庄司綾という重要なピースをパズルにはめ込む、その正しい位置を知るためだ。
僕が綾さんの名前を口にすると、奥さんはどこで知ったのかと非常に驚いている様子だった。
「綾さんという方は、ひょっとしたら、先日見せていただいた写真の女性ではないかと思いまして」
「ええ、確かに。綾は私の大叔母で、簪(かんざし)を持った写真の人ですよ。どこから、その名前を?」
啓次郎さんの名を出すことが相手にどう作用するかわからなかったので、「たまたま耳にした」とぼやかしておいた。
「大叔母のことを知っている人もいたんですね」
「確か、若くして亡くなったっておっしゃってましたよね。どうして亡くなられたんでしょう。もし、差し支えなければ」
「理由ですか? 昔のことですから、私は聞かされていませんけど……」
奥さんは少し警戒の色を見せた。先を焦って立ち入り過ぎたかも知れない。
簪の由来を知りたいので色々調べているのですと軌道を修正すると、奥さんもそれはぜひ知りたいと乗ってきてくれた。
岬の病院に入院している娘さんの様子を尋ねたりしながら、最後に、簪と綾さんのことで更に何かわかるものが出てきたら連絡をくださいとお願いをして、電話を切った。
これで、あずみの描いた肖像画にも名前がついた。庄司綾。
――庄司綾さんは、昔この家の屋根裏部屋に住んでいた。そして、何らかの理由で若くして亡くなった。綾さんは簪を持っていた。その簪が遺品として海龍善寺の蔵に残されていた。
何故亡くなったのか? それは、僕の疑問であり、啓次郎さんが僕に調べてほしいと依頼してきた点でもある。つまり、その死は周囲には秘密にされていたということだ。
他人にはあまり知られたくない死因。普通に考えれば、「自殺」だろう。
その時、屋根裏部屋から、あずみがどたどたと騒々しい音を立てて下りてきた。手に仕事で使っているノートパソコンを持っている。
「早瀬さん、ちょっとこれ」
あずみは自分の後ろ髪から、簪を引き抜いた。
あずみがパソコンを開くのを、僕は待てなかった。
「あずみ、ちょうどいい。その簪の持ち主の名前が分かったんだよ」
「え?」
「綾さん。庄司綾さん。簪を持って写真に写っていた人だ」
「アヤ? アヤという名前だったんですか? その人……。ねえ、早瀬さん。これ見て」
あずみがテーブルの上でパソコンを開いた。
画面は古い工芸品の数々が紹介されているページだった。あずみが指さす先を見ると、沖縄のジーファーと呼ばれる棒型の簪の写真と、その解説文が載っている。芯が長いものは女性用。短いものが男性用らしい。
庄司家は沖縄出身だから、ジーファーというものを持っていても不思議ではないと思った。
ジーファーの芯の形状があずみの手にしている簪と同じだった。長さからすると男性用。さらによく見ると、棒状の芯の先は花や星の形に細工されている。
その中に、蝶の形をしたものがあった。
「これと一緒ですよ。やっぱり、蝶なんですよ、これ。それとね」
あずみが画面をスクロールすると、蝶のイラストと蝶にまつわる琉球の昔話が書かれいる画面が出てきた。
「えーと、琉球の古い言葉で、ほら、蝶は綾蝶と書いて、アヤハベル」
「アヤハベル? 綾に蝶……。それで、綾さんは蝶の簪をしていた?」
「分からないけど、そうかもしれませんね。自分のシンボルとして持っていた」
名前と同じ由来の簪を大切に髪に刺している女性。
僕たちは、全てがセピア色に見える写真の時代にワープして、ロマンチックな思いに浸った。
あずみが簪を後ろ髪に刺し、僕に見せるように少し顔を横に向けた。
その姿にあずみが描いた肖像画が被った。綾さんがそこにいた。
琉球の古い謡(うた)に、大海原を行く航海者を守護するために、神が綾蝶の姿になって舞い降りるというものがあるようだ。庄司家も沖縄で漁師だったと聞いている。蝶を身に着けた綾さんは、海に出る人々の女神的存在だったのではないだろうか。
神聖な存在。アヤハベル。優しく微笑む綾蝶。
いや待て、綾さんは自殺をしたのではなかったのか?
自由な風に乗って飛び回る蝶が、なぜか地に落ちてしまった。
目の前にいる綾さんの姿が霧のように薄くなっていくのを感じた。そして、僕が見ていたのは実は綾さんではなく、あずみであったことに気がついて、現実に引き戻された僕は背筋が寒くなるのを感じた。
蝶の魔力に惑わされて、僕は肝心なことを失念していた。
綾さんは、屋根裏部屋に住んでいたのだ。そこまではいい。しかし、その屋根裏部屋へのドアは内側から開けられないような構造になっていた。
ということは、綾さんは、屋根裏部屋に閉じ込められていたことになる。
蝶が虫かごの中で自由を失っていたのだ。
横を向いたあずみに、また綾さんの姿が被ってきた。
それは僕の錯覚だったのかもしれない。それでも僕は、あずみを向こうの世界に持っていかれそうな気がして、それを必死に食い止めようとした。
「あずみ、ダメだ! そっちへ行っちゃ、ダメだ!」
あずみの肩をつかんで揺らすと、あずみがゆっくりとこちらを向いた。
「ねえ、あなたが、私を助けに来てくれたの? そうでしょ。そうよね。待っていたわ。あなたが、よにんめよ」
綾さんが静かにほほ笑む。でも、その目は空洞で視点というものがなかった。
あの、写真のように。
僕の頭の中で、まりえの歌が手毬歌のように聞こえてきた。
「たまごが、へいにすわったよ
たまごがしたに、おっこちた
よにんのひとに、よにんをたしても
たまごはもとに、もどせない」
いや、ダメだ。僕は、あずみの体を両手で抱えるようにして、大きく揺すった。
「あずみ、しっかりしろ! 僕だよ。分かるか。帰ってこい!」
僕の頭の中で、今度は地響きのような低い声が聞こえてきた。
「きみをもらったよ」
僕はあずみを強く抱きしめた。
誰にも持っていかれないように、消えてしまわないように、その体の存在を確かめながら、さらに強く抱きしめた。
「いたい……」
僕の腕の中で、温かいものが身動きをした。
「ねえ、早瀬さん、痛いよ」
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