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連載小説「思い出の後始末」#54迫る危機


第54話 迫る危機


 不審な男の狙いは自分ではなく、あずみだった!
 とんだ思い違いに、僕は慌て切っていた。あずみのことで頭がいっぱいになり、目の前にいるヒサさんたちに声掛けもせず、無言で部屋を飛び出した。
 あずみが『宝島』に帰っていないことを祈りつつ、あるいはジャケットの男があずみの帰りを待ち構えていないことを願いつつ、とにかく、あずみより少しでも早く帰りつけるよう、一気に市場の中を駆け抜けていった。
 僕を見送るヒサさんや亮二くんの唖然とした顔が脳裏に残り、申し訳ない気持ちが尾を引いたが、それ以上にあずみのことが心配だった。
 走りながら携帯電話を鳴らす。しかし直ぐに、電源が入っていない、あるいは電波が届かない云々のアナウンスに切り替わり、僕を舌打ちさせた。
 自分でもよく分からないが、あずみのこととなると、なぜか想像は悪い方へと傾き、最悪の場面が頭に浮かんできてしまう。男に首を絞められて苦しんでいる様子から、人形のように動かぬ物体となって土の上に横たわっている姿へ……。
 『宝島』へ向かう階段下まで来て、僕は両手を膝につき、乱れる呼吸を整えた。背中を冷たい汗が大量に流れているのを感じた。
 意を決して、階段を二段跳びで駆け上がろうとしたが、はやる気持ちとは裏腹に、足の方がついていかなかった。急がなくてはいけない場面で、普通に一段ずつ石段を登っている自分の姿に、情けなさで気持ちが落ち込んだ。
 それでも、ようやく茶房『はな』が見えてきたので、気力を取り戻し、店の前を通り過ぎると、最後は二段跳びで『宝島』へ向かった。
 『宝島』に着いて、息をひそめながら注意深く庭を窺ったが、人のいる気配は全くなかった。
 僕は家の中をさっと確認すると、直ぐに階段を駆け下り、『はな』に向かった。あずみが僕の留守電を聞いて、その指示に従っていれば、『はな』にいるはずだ。
 『はな』の店先には、今日も暖簾がかかっていなかった。
 入り口のガラス戸を全て引き開けるのももどかしく、僕は半身のまま店の中に向かって声をあげていた。
「あずみ! あずみ、いるか?」
「何だ、突然」
 声の主は啓次郎さんだった。店に入ると、啓次郎さんはカウンターの拭き掃除をしていた。
「すみません、啓次郎さん。あずみは来ませんでしたか? ここに来るように連絡を入れておいたんですが」
「何をそんなに、慌ててるんだ。まずは落ち着け。エスプレッソでも飲むか?」
「緊急なんです!」
 エスプレッソなんか飲んでる場合じゃないんだよと心の中でイラつきながら、気がつけば啓次郎さんを睨みつけていた。
「来てないよ。それがどうした」
 啓次郎さんは、あからさまに嫌な顔をした。
「すみません。また、後で来ます」
 僕は店出ると、ガラス戸をピシャリと閉めた。気分を害している啓次郎さんに事態を説明するのは面倒に感じた。
 あずみはどこに? 男はどこに? 
 男がうろつきそうな場所を考えてみると、『宝島』にいないとすれば、やはり漁港が怪しい。
 あずみを探すより、男を追う方が手っ取り早いように感じた。場合によっては男をつかまえて、なぜあずみをつけ回すのか、問い詰めることも考えていた。
 上がってきた階段を再び下りて、僕は漁港へ戻る道を急いだ。
 海を左手に見ながら、堤防沿いの道を小走りで進む。そして、ごみ屋敷の辺りを通り過ぎたところで前方を見ると、漁港の入り口のところで、少し距離を置きながら向かい合っている二人の人間の姿が目に留まった。
 二人のうちひとりは女性で、そのシルエットを見て、遠目にも誰であるかがすぐに分かった。
 あずみ? なぜ、そんなところに? 何をしている?
 そして、もうひとりの姿をはっきり視認した時、脳が何をすべきかを判断する前に、僕は走り出していた。
 ジャケットだ、ジャケットを着た男。
「あずみ!」
 走りながら上げた僕の声にも、向かい合っている二人は微動だにしなかった。
「おい、まて!」
 何を待てと言いたいのか自分でも分からなったが、実際に待ってほしかったのは時間の動きだった。
 走る僕の瞳の中で、対峙する二人の姿が、ズームインされる映像のように、みるみる大きく鮮明になってきた。
 表情が見えた。二人は静かに睨み合っている。男の手が見えた。低く構えた男の手にはナイフが握られている。
 ナイフだ。友好的な雰囲気は微塵もない。
 僕は二人を刺激しない距離を残して、いったん立ち止まった。
 こんな危急時にどんな言葉を掛ければいいのか、僕が知っている限りの教本には一切載っていなかった。僕は息をのんで二人を見詰めるという、何の意味もなさない体勢のまま、彫像のように固まるしかなかった。
 男が口を開いた。
「なあ、あずみ。お前を、迎えに来たんだよう」
 物騒な物を持っている割に、男の声は気持ち悪いほどの猫なで声だった。
「誰も、たのんでないから」
 これほど低く沈んだ声をあずみが出すのを、初めて聞いた。
「まあ、そういうなよ。ずっと、お前を探してたんだ。大変だった」
「知らない。そんなこと」
「ひどいなあ、黙っていなくなってさ。ボクに心配かけるなんて、悪い子だ」
 元彼がストーカーになったような会話だった。
「帰って!」
「ひとりで帰るわけにはいかないな。お前を連れて帰るまで、ずっとここに居るよ」
 バタバタと人の足音がして、そちらに目をやると、亮二くんと若い漁師がこちらに向かって走ってくるところだった。僕の様子がおかしかったので、ヒサさんが後を追うように命じたのだろう。
「おい、何をして……」
 亮二くんも事態を察して、言葉を飲み込んだ。
 ナイフを持った男は、あずみから目を離さずに、ナイフだけを僕たちに見せびらかすようにふらふらと振り回した。
 皆が立ちすくんでいる中で、男が皮肉な笑みを浮かべた。
「何だか周りが騒がしいね。ボクとあずみの問題なのにね。別な場所で、二人だけで話そうか」
「それは、だめだ」
 カラカラの喉で、僕はやっとそれだけの言葉を絞り出した。
「あんた誰? ボクたちの問題に口を挟まないでね」
「帰って!」
 あずみが後ろ髪から簪(かんざし)を引き抜いて、両手でそれを男の方に突き出した。男の持つナイフの鋭い切っ先の前では、簪は護身の武器にもならないように小さく華奢なものに見えた。
 ナイフの男を除く僕たち全員が身構えた。
「えー。そんなものを、ボクに向けるのかよう。悪い子だなあ。やっぱり、あずみはボクと一緒にいないと、ダメな子になっちゃうんだな」
 男がすたすたと、あずみの方に近寄っていった。
「来ないで!」あずみが簪の尖った先を自分の喉元に突き付けた。
 男が一瞬足を止めた。
 誰もが、そんなシーンが実際に起こりえるものだとは思ってもみなかった。相手を制するために自分に刃物を突き付けるなどというのは、ドラマのわざとらしい設定の中だけのものだと思っていた。それが実際に目の前で起こっている。
 みんなの戸惑いが僕にも伝わってきた。
「よせ、あずみ」「だめだ、あずみちゃん」僕と亮二くんが同時に声を上げた。
 男もナイフをいったん下げて、困ったような顔であずみを見ていた。
「それ以上、近寄らないで。お願いだから、帰ってちょうだい」
 あずみの声が震えた。その僅かに見せた弱々しさを、男は見逃さなかった。
 男がにやりと笑った。
「本当に悪い子になっちゃったね、あずみは。あんなに従順で、いい子だったのに。いったい、どうしちゃったんだい」
 男があと数歩であずみに手が届く距離まで詰め寄ってきた。
「悪い子には、お仕置きが必要かな」
 僕は声も手も足も出せなかった。
 男が肩を竦めてから、ナイフを手にしっかりと握り直した。
 そして、男があずみや僕たちにとって絶望的な間合いにまで距離を縮めようと足を踏みだした時に、何者かが男に体当たりをした。僕はとっさにイノシシだと思った。そう思えるほど、そいつはまっしぐらに男の腰から下に低くぶつかっていった。
 男がうへっと口から妙な音を発して、荒いコンクリの上をゴロゴロと、まさに丸太のようにゴロゴロと転がった。
 僕はとっさに、亮二くんと若い漁師に目をやった。向こうもこっちを見ていた。それで、男を倒したのが自分たちのうちの誰かではないことを知った。
 ナイフの男を吹っ飛ばしたその何者かが、ゆっくりと身を起こした。
 それは、僕たちが予想だにしなかった人物であった。
 くしゃくしゃの頭を振りながら、今まさに地面から湧いてきたように立ち上がったのは、ごみ屋敷の建夫だった。
 何と、あの建夫がみんなを危機から救ってくれたのだ。建夫のおかげで、あずみは少なくとも命を落とさずに済み、僕たちはそれを傍観していた者として一生悔いていくような人生を送らずに済んだ。
 町の人々から村八分にされている建夫に助けられるとは、僕も亮二くんたちも、この事実をどう受け止めていいものか戸惑い立ち竦んだ。
 役に立たない僕たちには目もくれず、建夫は気が抜けたように地べたに腰を落としているあずみに歩み寄り、そっと肩を抱いた。
 地面に転がっていたナイフの男が、生き返ったゾンビのようにむっくりと起き上がると、自分の頭を両手で音が出るほど激しく叩いた。
「くそっ、くそっ、覚えていやがれ。また来てやるぞ」
 男はそう言い残すと、脇腹の辺りを抑えながらふらふらと歩き去っていった。
 狂ってる。誰もがそう思った。
「今度来たら、海にぶち込んでやるぞ」
 そんな建夫の脅しにも、男は振り返ることはなかった。
「無理なのよ、もう。分かっているでしょ」
 あずみが体を起こし、男の後ろ姿に向かって泣き声をあげた。
「ねえ、私たちは別々に生きていくの。そうするしかないのよ。分かるでしょ。分かるよね。お兄ちゃん。もうダメなの。ねえ、分かって、お兄ちゃん!」
 お兄ちゃん、――あずみは確かに、そう叫んだ。あの男はあずみの兄だったのか。
 しかし、そんなことがあり得るのか? 兄が妹にナイフを突きつけるなんて。殺したいほど妹が憎い? そんなこと、兄弟で、本当にあるのだろうか?
 あの男が、あの狂った男が、あずみの兄……。
 あずみの叫びに、去っていく男の後ろ姿が一瞬揺れたように見えた。





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