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連載小説「思い出の後始末」#55囚われ人


第55話 囚われ人


 あずみが歩んできた人生――。
 僕とあずみとの付き合いは長い。以前、都会生活をしていた頃は、僕の友人の順慶も入れて、三人でよく飲んだ。『チュシャーキャット』というショットバーが僕たちの根城だった。
 頭の固い(とよく言われていた)ビジネスマンと古道具屋の主人、そして絵本作家。どうやったら接点が見いだせるのか、不思議になるぐらい人間性の異なる三人だった。
 僕は冷えたビールを、順慶はバーボンをオンザロックで、酒の弱いあずみはカルーアミルクを舐めるように、それぞれのスタイルで飲みながら会話をした。そう、語り合ったのではなく、会話をしたという表現が正しい。
 不思議の国のアリスの物語の中の狂ったお茶会に例えたこともあるが、まさにかみ合わない会話が飛び交う狂った飲み会だった。不思議な空間だったが、皆が好き勝手な自分でいられたので、とても寛ぐことができた。
 僕たちの間で「語り合う」ということがなかったのは、相手のプライバシーに深入りしないという暗黙の了解があったからだ。なので、僕も順慶もあずみの過去についてはほとんど何も知らなかった。
 僕が『宝島』に引っ越してきた時に、あずみが後追いの子供のようにくっついてきた。その時はまだ、あずみも家出をしてきたわけではなかったが、兄のいる家には帰りたくないとつぶやいたのを覚えている。僕は軽い気持ちで聞き流して、あずみを一度は家に帰したが、帰るのを渋るにはそれなりの理由があったのだ。
 刃物を携えて妹を連れ戻しに来るような兄のいる家には、誰だって帰りたくないだろう。僕はそれに気付いてあげれなかった。
 それにしても、とんでもない兄貴だった。彼の目には蛇のようなぬめりのある執念深さが宿っていた。何となく薄気味悪いというより、明らかに不気味な存在だった。他人から説教をされたぐらいで自分を変えるような人間ではないことは確かだ。
 それが分かった今、あずみを家に帰すわけにはいかない。はっきりしていることは、あずみの居場所はここにしかなく、あずみを守るのは僕しかいないということだ。それは、分かっているのだが……。
 例えば、世間の無責任な噂からあずみを守るのは難しい。
 あずみに刃物をかざした兄の話は、いずれこの町の中で広まってしまうのではないだろうか。大きな事件にはならなかったが、週刊誌的興味を掻き立てるような色物的要素を秘めた出来事だった。
 例え亮二くんや若い漁師には良識があったとしても、彼らが少しでも周りに漏らせば、興味本位で耳を傾ける人たちの伝言ゲームによって、あっという間に町中で広がってしまうだろう。しかも面白おかしい尾ひれ付きで。
 そして、噂の当事者は周りから奇異な目を向けられることになる。
 庄司綾にしても、ごみ屋敷の建夫にしても、同じような経過をたどって、町中で浮いた存在になってしまったのではないだろうか。
 本来守られるべきものが、排除されていく理不尽さがそこにはある。
 あずみはその夜から、熱を出して寝込んでしまった。
 『宝島』の二階の部屋で、僕はあずみを自分のベッドに寝かせた。熱が下がるまで、一緒にいてやるつもりだった。
 熱のせいか、あずみの顔は赤く上気しており、話はできるが、言葉がすんなり出てこないこともあった。僕はベッドの横に椅子を引いて、近くにいることが伝わるよう、時折額に手を当てたり、布団を直したりした。
 兄のことで知りたいことがいっぱいあったが、今は我慢だ。
「早瀬さん。ごめんなさい。迷惑をかけて」
 何度目のごめんなさいだろうか、僕は「心配するな」とその都度同じ言葉で慰めた。
 あずみはそうしなければ僕に悪いと思ったのか、あるいは誰かに聞いてもらうことで安心したかったのか、これまで触れたことのなかった自分の過去について少しずつ語り始めた。
 『宝島』の二階の部屋は、窓を閉めているせいで外から生活音が入り込むこともなく、しんと静まり返り、話し続けるあずみの言葉尻を飲み込むような呼吸音まで聞き取れた。
 あずみは系統だった話をするのが得意ではない。頭に浮かんだことから、時系列などお構いなしに口にしていく。それを遮ると、彼女は混乱してしまう。僕は先を急かすことも、聞き返すこともせず、耳に届くあずみの言葉をそのまま受け入れた。
 まとまりに欠けるあずみの話を漠然と聞いているだけでは、感情移入するのも難しく、どこか現実離れした話を聞かされているようだった。けれども、それぞれの話の要点だけを取り出して並べてみると、実は彼女の過去はかなり悲惨なものであることが分かった。
 ここに前後を整理して書き留めておく。
 あずみは幼いころに両親を事故で亡くしている。そして、兄と二人だけで親せきの家を転々としながら生きていかなくてはならなくなった。
 一瞬にして両親を奪い去られた兄は、唯一の身内である妹を何にも増してかわいがった。
 しかし問題だったのは、成長するにつれ、妹を失いたくないという思いが高じて、妹の行動を監視し束縛を強めるようになってしまったことだ。その束縛は妹のメンタルを鎖でつなぐような、マインドコントロールと表現されてもおかしくないものだった。
 長じて二人暮らしを始めるようになってからは、まるで夫婦であるかのように暮らし、離れられないという意識を妹に植え付けた。時には異常なほどの優しさをもって、そしてある時には暴君のように力ずくで。
 …………
 そんな風にあずみが兄に囚われていた頃、僕は彼女と度々会っていたのに、彼女が置かれていた深刻な状況に全く気がつかなかった。そのことに、僕は言いようのない恐ろしさを感じた。
 今思えば、あずみの自分の世界に籠ったような独特な話し方は、この子は何かがおかしいと気づいてくれる人を待つSOS信号のようなものだったのかも知れない。感性の鈍い僕は、それは彼女のちょっと変わった個性としか捉えていなかった。
 その当時、本人から精神を安定させる薬を飲んでいるという話を聞いたことがあった。その話題にはあまり触れるべきではないという受け手の意識が、その背後にあった本当の闇を隠すことになってしまったのかも知れない。
 そんなあずみが僕に助けを求めるように『宝島』までついてきたのに、僕は面倒だなという気持ちが先に立って、無情にも帰れと命じてしまった。きみの居場所はここじゃないと、訳知り顔で説教までした。
 いい人ぶってはいるが、実は冷たい。鏡に映った自分の丸裸の姿を有無も言わさず見せられた気分になった。
 話を終えたあずみは、深呼吸を繰り返して、乱れた気持ちを落ち着けているようだった。見開かれた目は、真っ直ぐ天井、あるいはその上の屋根裏部屋に向けられている。
 その見開かれたあずみの目尻から一筋の涙が流れ、耳の後ろへ消えていった。
 そして、次の涙の玉が目の端から溢れ出ようとするのを、僕はとっさに親指で拭ってやった。
 ごめんなさい、とあずみがまた謝った。
 僕はあずみの額にそっと手を当てた。それはまだしっかりと熱を帯びていた。
「ねえ、早瀬さん」
「ん?」
「簪(かんざし)が」兄を阻止するために自らの喉元に突き付けた簪を、あずみは手にしっかりと握りしめていた。
「この簪が、私を守ってくれたんです」
「そうだな。でも、怖かったよ。本当に刺すんじゃないかと思って」
「私、本気で死んでもいいと思った。それで、永遠に兄から離れられるなら」
「なに言ってるんだよ。変なこと言うな」
「あの時は、そう思ったんです。全然怖くなかった。でもね、早瀬さんの声が聞こえたの。よせ、あずみって、ちゃんと聞こえたの。そうしたら、急に怖くなって、手が震えて動かせなくなって……」
 あの時は確か、亮二くんも同時に叫んだと思うが、僕の声はちゃんとあずみの耳に届いていたのだ。
「あずみが死ぬなんて、絶対にダメだと思ったから」
「うん。でも、死ぬのが怖くなかったって、本当ですよ。たぶん、兄に見つかって、絶望してたから……。そう。絶望って、目の前が真っ黒になるんじゃなかった。黄色だったな」
「黄色?」
「そう、黄色……。うーん。もっと近いので言えば、セピア色の写真を見ているみたいな。懐かしさのある黄色。だから、全然怖くないの。ああ、死ぬんだなって。死んで、生まれる前の昔に戻るんだなって。セピア色の世界にね」
 あずみの独特な表現は、僕にはよく理解できない。恐らく、僕は死ぬのが怖くなくなるほどの絶望感を味わったことがないから、理解しようにも、想像すら追いつかないのだろう。
「この簪が、私を縛る全てから解放してくれるんだ。そう思うと、何か簪が体の一部になったみたいで、刺すとか痛いとか、そんな感覚は全然なかったの」
 いや、痛いだろう。考えただけでも痛い。僕は簪の鈍い切っ先が皮膚に刺さるリアルな瞬間を想像して、顔をしかめた。
「ねえ、早瀬さん。綾さんもそうだったのかな」
「綾さんが?」
「うん。あの時、私が簪で死んでもいいと思った時、綾さんの声がきこえたの。これで楽になれるねって。確かに、そう聞こえたんです。だから、昔のことでしょうけど、綾さんもこの簪に救われて、楽になれたんじゃないかなって」
「これで楽になれる? これで、楽に……」
 あずみが簪を自分の喉に突き立てている生々しいシーン。そこから時制がクルクルと過去に戻り、あずみに綾さんの姿が被っていく。
 簪の先が白くしなやかな皮膚に触れる。
 屋根裏部屋。天窓を流れる雨。綾さんの「絶望」が伝わってくる。簪。自分の分身。その簪で命を終える悲しみ……。その全てが、僕の目の奥で鮮明によみがえる。
 やはり、綾さんは絶望を抱え、屋根裏部屋で自殺をしたのだ。
 「閉じ込め」というのは、人を絶望の池に突き落とすものだから。加えて、綾さんは閉じ込められながらも外部との接触があった。世話をしていたスエさんや、スエさんが招き入れた若き日の啓次郎さんや珠与さんだ。外部からの風に半端に触れることによって、自分の境遇に対する絶望感がより深まったことだろう。そして、綾さんは簪を喉に突き立て、自らの命を絶った。
 このストーリーが普通に考えて、一番しっくりくる。
 なのに一方で、綾さんは崖から海に落ちて死んだという事実を僕は知っている。
 その齟齬を僕はどう消化すればいいのだろうか。
 自殺という行為だけを捉えれば、崖から海に身を投げるのも、手段としてはあり得る。しかし、自分の感覚では、部屋に閉じ込められて一生を諦めていた者が、偶然にも自由を手に入れたとしたら、その自由を手放すようなことをするだろうか、という疑問が先に立つ。
 ならば、事故だったのだろうか。だとしたら、せっかく自由を得たのに、なぜそんな危険な場所に行ったのだろうか。
 いや、それ以前に、啓次郎さんたちが綾さんのために部屋の鍵を開けたままにしておいたというが、長年部屋に閉じ込められていた者が、鍵が開いていたとしても自ら外へ出ていくものだろうか。監禁されている人が、逃げられる状態であっても逃げれないという心理的束縛の例もある。啓次郎さんも鍵は開けておいたが、綾さんが部屋から出ていったのは知らなかったと言っているのだ。
 綾さんは、本当に部屋から出ていったのだろうか。
 論理立てて考えれば考えるほど、思考の糸がもつれ、真実が見えなくなる。








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