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連載小説「思い出の後始末」#63二人が出会えば


第63話 二人が出会えば


 『宝島』の二階の部屋で僕はかなりの緊張を強いられていた。ビールでも飲んで乾いた喉を潤わせつつ、アルコールの力を借りて少しでもリラックスしたかったが、人を迎えるホスト役が酔って顔を赤く染めていたらまずいだろうと自制した。
 待ち合わせの時間にはまだ大分あるのに、僕は二階の窓からずっと庭を見下ろしている。やはり、礼儀的には庭に下りて待つべきかなと思い始めたまさにその時、ひとりの女性が庭に姿を現した。
 岬の病院の理事長であるシスターが庭からこちらを見上げていた。
 以前ここに来た時と同じ白いブラウスに黒いパンツという質素な装いだった。修道服でなく私服で来たことに、今日の面会の位置づけを完全にプライベートとしていることが分かる。
 シスターと引き合わせる相手は、中浜家の当主、美彌子さま。
 会いたいという要望は美彌子さまの側から出された。僕が間に入る形で場所も提供し、今日の日を迎えた。
 面会をセッティングするにあたり、僕がシスターに父親らしき人(鑑定など科学的な裏付けがあるわけではないので断言はせずに)、らしき人が見つかったと伝えた。隠していても、いずれどこからか耳に入るだろうし、スキャンダラスな話として伝わるのを黙ってみているのは忍びなかった。
 もう長い間に色々な覚悟をしてきたのだろう。シスターは僕の話に感情を表に出すことなく、しかし頷きもせず、静かに耳を傾けていた。さすがに、襲ったという可能性には触れなかった。
 ただ、シスターのほうでも、父親の存在が分かったとしても、自分は生まれてすぐに捨てられたのだという事実から、両親の間が普通であったとは思っていないようであった。
「もう二人とも亡くなった人ですから」そう口にすることで、シスターは父親を知りたいという俗世間的な欲望にケリを付けようとしているように見えた。
 ところが、その父親の妹、普通であれば叔母さんと呼ぶべき相手が突然現れ、会いたいという。
 シスターはどんな感情を抱えてここにやってきたのだろう、その普段と変わらない面持ちからは、何も察することができなかった。
 何と言っても、50年以上の時を経ているのだ。どういう言葉で二人を引き合わせればいいのか、果たして会話は生まれるのか、間に入る僕が異常に緊張するのも分かってもらえると思う。
「今日は天気が良くて、気持ちがいいわね」
 庭に下りて出迎えると、シスターはハンカチで鼻の頭を押さえながら、空を見上げた。
「ちょっと日差しが強いですから、部屋の中へ入りましょう」
「中へ? ……あら」
 シスターが僕の肩越しに、入り口の門の方に目をやった。
 振り向くと、ワンピースにショート丈のボレロを羽織った老婦人が杖に体を預けながらこちらを見ていた。もうひとりの客、美彌子さまだった。
 挨拶なのか、被っている白い帽子のつばに手を当てている。
 僕は慌てて駆け寄り、美彌子さまをエスコートしようとした。
「足がお悪かったんですか、言ってくだされば……」
「大丈夫よ」
 美彌子さまは自分の身ではなく杖を僕に預けた。
「長い階段があるとおっしゃったから、山歩き用の杖を持ってきただけなのよ。必要なかったみたい」
 美彌子さまは支えようとする僕の手をそっと押し返すと、真っすぐシスターに向かって歩み寄っていった。
 待ち受けるシスターの方も、臆することなく姿勢を正して美彌子さまを迎えようとしている。
 この二人に共通する凛とした気丈さに、初めて会うはずの二人の深いつながりを見たような気がした。似ている……。
 手の届く距離で向かい合う二人。
「あなたが、庄司の綾さんの子供?」
 美彌子さまが挨拶もせずに、突然そんな言葉を突き付けたので、僕は肝を冷やした。雄市の名前を出さなかったのは、何か意図でもあるのだろうか。
「はい、庄司綾の娘です。名前は、付けてもらっていません」
 シスターも聞きようによっては挑戦的に聞こえる言い方で言葉を返した。
「あなたが……」
 それから、長い沈黙があった。お互い相手から目をそらさず、静かに向き合っている。
「立派になられて……」
 突然、美彌子さまが帽子をとり、シルバー一色の頭を深々と下げた。
 もし、膝を折っていたら、土下座と言ってもいいような角度の頭の下げ方だった。
 僕はあっけにとられ、美彌子さまに頭を上げるよう手を差し伸べるのも忘れ、その小さな背中を見詰めていた。
「なぜ、私に頭を下げられるのですか?」
 僕が正気に戻って彌子さまの体を起こそうとする前に、シスターが美彌子さまにそう声を掛けた。シスターの言葉には、本当に不思議そうなニュアンスが込められていた。
「私の兄を許してください」
 美彌子さまは頭を下げたまま、そんな言葉で許しを乞うた。
「本来なら、中浜の家があなたの居場所なのに……」
 美彌子さまが声を詰まらせた。
「お顔をちゃんと見せてください」
 シスターが美彌子さまの体に手を添えた。頭を上げてくださいと言わないところに、相手のプライドに対するシスターの配慮を感じた。
「叔母さま?」
 シスターが僕の顔を見て言葉の正しさを確認した。僕は美彌子さまの背後で小さく頷いた。
「ねえ、叔母さま。私に謝る必要なんて、何もないのよ」
 叔母さまという呼び名が僕らの耳に心地よく響いた。シスターの打ち解けた言葉遣いに、美彌子さまは、はっと目が覚めたように顔を上げた。
「あら、私ったら……。姪っ子なのに、改まって頭を下げるなんて、何かおかしいわね」
 美彌子さまは濡れた目尻を指で拭いながら、無理にでも笑顔を作ろうとしていた。
「そうですよ。見て、叔母さま。私、不幸そうに見えますか?」
 シスターの笑顔は心の底からのものだった。
「大丈夫、全然不幸じゃありません。今まで、色々な人に助けられて、本当に幸せでした。ねえ、叔母さま。人はどこにいたって、幸せにはなれるんですよ」
「どこにいたって?」美彌子さまは額に手を当てた。「ああ、そうね。そうでしたね。中浜の家にいれば幸せだなんて、身勝手な思い込みね」
「それに、叔母さま。私には、可愛い子供までいるんです」
「あら、まあ。子供がいるの? あなたには、教えられたり、驚かされたり、休む暇がないわ」
 シスターの言う子供というのは、捨て子だった美羽音のことだ。美羽音がこの会話を聞いたら、それこそ子供のように手を叩いて喜ぶだろう。
 シスターは何度も「叔母さま」と繰り返すことで、美彌子さまの存在を何とか自ら中に受け入れようとしているようだった。
 これなら、心配ないだろう。
 僕は、気持ちがいいので外で話をしたいという二人のために庭の木陰に椅子を並べると、飲み物を用意するという口実で二人のそばを離れた。二人きりの時間をプレゼントしよう。
 二階の部屋に戻ると、急に喉の渇きを覚えた。
 つなぎ役としての役目は終わった。僕は冷蔵庫から、二人のためにジャスミン茶のボトルを、自分のためにはバドワイザーの小瓶を取り出すと、二階の窓から庭の様子を眺めた。
 満ち溢れる光の中で、二人の居場所だけが木陰が生み出す落ち着いたトーンに守られていた。
 ほとんど動きのない中でも、わずかに首を傾けたり、頷いたり、指で何かを示したり、おそらく笑っているのだろう、美彌子さまが口元を手で押さえて体を小さく揺らせているのも分かった。間違いなく、二人の間で会話は弾んでいる。
 僕はほっとして、バドワイザーボトルを引き寄せた。
 ふと、風の動きのような気配を感じ、もう一度窓の外を見てみると、丁度二人が僕に向かってこっちへ来てと合図を送ているところだった。
 僕は二人に向かって了解の手を上げると、飲み物を持って階下に降りていった。
 庭に出てみると、待ちきれないのか、シスターが中腰で僕を手招いている。
「ねえ、早瀬さん。叔母さまと相談してね、やってみることになったの」
 僕は二人に冷えたジャスミン茶を渡すと、「急にどうしたんですか。何をやるんですか?」と笑いながら聞き返した。
「姪っ子と二人でね、できることがあったんですよ。それがね」
 美彌子さまも何か悪だくみでも発表するように、ふふっと笑った。
「私とこの子で、子供たちのために何かできないかなって、相談したのよ。親のいない子や、居場所のない子たちのためにね」
「叔母さまも私も、今までに同じようなことをやってきた経験があることが分かったの。だったら、一緒にやりましょうってことになって。ちょうど私も修道会を退会するから、どうしようかと考えていたところだったので」
 やはり、シスターは修道会をやめる決断をしていたのだ。僕の顔が曇ったのを気にしたのか、シスターは大丈夫と頷いて見せた。
「事情は聴いたけど、この子の決断だから、私は尊重します」
 ひとりで悩むより、二人で話し合えるのはいい。この二人を引き合わせて本当に良かったと、僕はほっと胸を撫でおろした。
「場所は、叔母さまのところでもいいし、別なところでも、例えば、ここでも」
「えっ、ここですか? いやあ、ここは僕の友人がやっている古道具屋だから……。ああ、でも、そうですね。ここって、実は鍵がなくて誰でも出入り自由だから、そういう意味では……」
「古道具屋さんのままでいいじゃない。『宝島』って名前でしょ。中浜の家より、子供たちが喜びそうだわ」美彌子さまはかなり乗り気なようだ。
 子供たちの秘密基地『宝島ハウス』という感じか。
「早瀬さん。それとね」シスターが珍しく僕の腕に手を掛けた。
「私たちの計画を、あずみさんに手伝ってもらえないかしらと思って」
「あずみ、ですか?」
「ええ、彼女は今、病院で子供たちに絵を描くことを教えているのよ。子供たちに大人気で。子供を子供扱いしないところが、彼女って面白いのよ」
 美羽音に頼んであずみを預かってもらっているのだが、子供たちに人気とは、意外だった。
 僕はシスターの申し出を真剣に考えてみようと思った。あずみの将来が心配だったので、ひとつの可能性として、シスターや美彌子さまの手元で生きがいを見い出すことができるのなら、やらせてみる価値はありそうだ。
 例えば身寄りのない子供たちの居場所が、同様に、あずみにとっても居場所になる……。
 それは、いいことだろう。
 それにしても、おっとりとした品の良さだけが目立つ美彌子さまが、これほどまでにバイタリティーに溢れた老婦人だとは思わなかった。聞いてみると、若い頃は町全体が貧しくて、美彌子さま自身も漁師たちを束ねる立場にある家の人間として、率先して働かなければならなかったようだ。女だてらに漁船に乗ったり、漁港で重い網を担いだりと、名家のお嬢様らしからぬ苦労をしてきた。「嵐の中でも危険な現場に出ていたのよ」と懐かしそうに、そして少し自慢げに話していた。
 この点は、シスターが砂漠の難民キャンプで生き死にの経験をしているのと共通している。若い頃の苦労は、人に物事に立ち向かう強さを与えてくれるのだろう。
 会長の辞任以来、顔役に対する人々の見方も変わり、中浜家にとっては風当たりが強まってくるのではないだろうか。しかし、そんな逆風下においても、美彌子さまなら気持ちをしっかり持ってこの新しい事業を成し遂げてくれるような気がする。
 苦労を重ねてきているのに決してそれを売りにすることのない、しっかりとした個を持つ二人の女性が、僕の目の前で楽しそうに笑い合っている。




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